指摘するということ
タイトルからネガティブイメージを抱く言葉ですね「指摘」。
先日、コーヒーをテイクアウトするためにコンビニに行ったとき、コーヒーの種類が2種類選べたので、グレードの高い方のコーヒーを選んだ。
すると、「そのコーヒーはすでに販売終了したんです。」と店員さんに言われた。
「あっじゃあ、普通のコーヒーの方で。」と伝えました。
しかし、店内にはその販売終了したコーヒーのポップが掲載したままなのです。
言うのもあれかなと一瞬思ったけど、一応「ここに(ポップ)貼ったままですよ。」と店員さんに伝えました。
指摘したというよりかは、販売終了したのに貼っていることに気づいていないのかなと思いました。
すると店員さんは「ラージサイズは終了しましたが、レギュラーサイズはまだあるんです。」と返答がありました。
一瞬、頭の中でなんと切り返そうかと選択肢が複数出てきましたが、「あっそうですか。」と言ってお店出ました。
ラージは終わったと書くべきだし、そもそもなぜレギュラーサイズはできて、ラージサイズは販売できないのかもよくわからないし、しょぼい思いが巡りました。
朝から余計なエネルギーを使ったなと思いました。
自分に利益もないことを、人にわざわざ言うのは面倒なことなので、指摘が上滑りしている様がもわっと一瞬立ち上がってすぐ消えました。
それから2日後の今日、またそのコンビニでコーヒーをテイクアウトしようと思ったときに、「なんかあのコンビニ行くの面倒だなと思いました。」
別にそのコンビニでなくてもコーヒーはテイクアウトできるのだから。
別に自分のこと覚えてないだろうけど、自意識過剰なので少し行くのがイヤでしたが、そんなこと気にしててどうするんだとも思ったので店内に入りました。
今日は普通のコーヒーを頼んで店を出ようとしたときにまだグレードの高いコーヒーのポップは貼ったままでした。
何の気なしにポップを一瞥したら、ラージサイズに横棒が引かれて消してありました。
頑固そうな60代くらいの女性だったのですが、一応気に留めて行動してくれたんだなとなんだか小さく心が和らぎました。
何か人に指摘するというのはとてもエネルギーを使う行為だなとよく思います。
指摘するということは自分が指摘するだけの正しい見解を持ち、その指摘に見合った行動を普段からとれているかをある程度保証しなければならない。
そのことを考えるとエネルギーを使うことや自省するのも面倒だから、指摘するのをやめておこうと思うこともしばしばです。
しかし、自分が人に指摘されたときに、その意見が合っていようが間違っていようがその指摘された事象に対して思い返し、自分の行動の確からしさを改めて考えを巡らす機会になることを何度も経験してきたことも事実です。
指摘というのは、決してそのこと間違っていることを、そこでつるし上げにしたり、自分の正しさを誇示したいわけでもない。
良い在り方にするために伝え合っていくことが、ポジティブに捉えられる世界観だといいなと心で思っています。
上記を書くには、エピソードがしょぼいですがそんなことを思った一幕だったので書き留めました。
おわり