見出し画像

#2「誘い込む」ってなんだ? ~"指セット"を読み解く~

執筆:村松 海渡

「誘い込む」ってなんだ?

金子先生に演奏指導を受けていて、私はよく「誘い込む」という言葉を耳にしました。
門下生の間ではきっと聞き慣れた言葉だと思いますが、みなさまはピアノ指導の場において見聞きされたことはありますでしょうか。

実は、"指セット"にもこの言葉が登場します。

今回は「誘い込む」を例に取り、先生の言葉や自身の記憶を辿りながら”指セット”を解説していきます。さらに関連する研究分野のお話も併せて、"指セット"や金子先生の指導における、独特な言葉遣いの世界への解像度が上がるように試みます。


「わざ言語」のおさらい

先に少しだけお話をすると、「誘い込む」などの指導における独特な言葉遣いは、前回お話しした<わざ言語>の一例と考えることができます。

この<わざ言語>は、音楽のみならずスポーツなど様々な分野において、研究の対象とされています。
哲学者であったV.A.ハワードは、1982年に声楽を例にして、教育現場で使用される独特な言葉である<language of craft>という概念を提唱しました。それを研究者、教育哲学者である生田久美子氏は、<わざ言語>と呼んで、更にその効用を3つに分類するなどの方向で研究を発展させました。

そのような先行研究へのリスペクトを込めて、それらの研究成果を踏襲してこの記事を執筆しました。具体的には、譜例(つまりその言葉に出会う場面)と対象(その言葉の受け手)とをあらかじめ設定して「誘い込む」という言葉を対象に掘り下げます。

今回は、"指セット"の以下のパートを「譜例」に、この譜例に取り組む音楽学習者を「対象」とすることを念頭におきましょう。(もちろん、それ以外の場面や文脈でも的外れな話ではないと思います)

指セット P.8 冒頭に「誘い込む」という言葉が登場します。

また、金子先生の言葉について記述する上で、自分の音楽演奏に対する身体的な経験に基づく表現や感覚的な言葉も用いることになります。その理由は改めて最後に述べますが、それはそうするほかないからです。

「誘い込む」のイメージを捉える

1. 音のイメージと身体の使い方

画像に示した指セットの楽譜では、"次の音に誘い込む"と表現されています。これは私のレッスン室での記憶ともぴったりと一致しています。
私も同じように声をかけられ、その言葉が話題にしていることのメインは身体の使い方などよりも、「音のイメージ」だと捉えました。

しかし、同時に面白いことは、その前に「2分音符を弾いたらすぐ力を抜き」という、身体の使い方をイメージする言葉がついているという点です。

「すぐ力を抜き」という言葉だけだと、身体の使い方のみをイメージしたくなります。しかし、「次の音に誘い込む」という言葉を続けることで、生徒に身体の使い方を示した直後に、それを音の扱い方、すなわち音楽的な目的を思い起こさせる言葉を混ぜることで、身体の使い方を教えつつも手段を目的化してしまうことを暗に防ぎ、目指したい演奏像へと導いているのです。

・2分音符を弾いたらすぐ力を抜き = 身体の使い方
次の音に誘い込む = 音の(並べ方の)イメージ

このバランス感覚が絶妙だと、分析しながら思っていました。

さらに言うと、「誘い込む」と言う言葉自身には音のイメージのみならず、それに触発された身体の使い方も織り込まれているように感じられないでしょうか?
それについては後述します。

2. 「時間の流れ」へと意識を向けさせる

再度楽譜を見て、指を動かしながら、少し考えてみましょう!

自分の経験を振り返ると、私が二分音符を次の音へと「誘い込もう」とする際、意識に上るのは時間の流れ(二分音符を弾いた後の音の持続、次の音が遅れずに登場できるタイミング)と、それに連動した身体の動きでした。

特に、私が身体の使い方であったり、一つ一つ、個別の音の大きさに意識を向けすぎているとき、金子先生はその意識を時間の流れへと仕向ける意図で、この言葉をかけていたのかもしれません。
「誘い込む」は複数の音の並びの間の関係(音量やタイミング、音価)についての戒めのようなものでもあり、それらに無頓着なことによる間延びや統制の無い揺らぎを見抜かれていたのでしょう。

生田氏の言及したわざ言語の効用の一つに「taskの指摘」があります。ここでは「task」とは「学ぶべきことがら」と考えてみましょう。まさに、「誘い込む」という言葉はその時の私にとって体得すべきことを、ハッと思い起こさせる力がありました。

3. 「誘い込む」という身体の感覚

「誘い込む」ことは単純に時間の流れやテンポに沿って音を並べることと、どう異なるのでしょうか。
つまり、なぜ「誘い込む」なのか。率直に「コントロールする」でもなく、またアゴーギクを念頭におけば「流し切る」とか「寄せる」でもなく、「誘い込む」。

ここも主観に頼らざるを得ませんが、音のイメージに加えて、それに伴った身体の使い方にも目を向けると、これらの違いが立ち所に現れてこないでしょうか。
上記に列挙したそれぞれの言葉を唱えながらその時の身体の使い方の感覚を比較してみたところ、私の中では一番身体的な"力み"のない表現でした。

皆さんはどのように感じましたか?

まとめ:わざ言語の奥深さ

お読みになっている皆さまもお気づきになられているかもしれませんが、わざ言語におけるこのような言葉選びの妙(たえ)は、熟達者の身体感覚、音楽観、指導の声かけと反応の積み重ねなどのあらゆる要素の全体が、複雑に絡み合った結果、いわば”そう言わざるを得ないもの”と考えています。

つまり、本記事の趣旨と一見矛盾するようですが、わざ言語は補ったり翻訳を通じて情報が捨象されたり(=こぼれ落ちたり)、バランスが崩れたりもするデリケートな存在なのです。

Q. 「音」ってどうやって「誘い込む」んでしょうか?
A. 「誘い込む」んです

冒頭の質問に対する0点かつ100点の答え。私の記事全体は40点くらいかなと思います

「誘い込む」を実践してみよう

ここまで「誘い込む」を例に、"指セット"に登場する独特な言葉使いに注目し、指セットのゴールや、課題ごとに向けられた金子先生の眼差しを少しご紹介しました。

差し支えなければ今回の記事を、「誘い込む」へのイメージを膨らませる材料にしつつも、実践においては必ず再度「誘い込む」と言う言葉そのものを頭でリフレインしながら指セットのP.8に挑戦してみてください!

次回に向けて

完璧を求めると、「誘い込む」は「誘い込む」としか表現しようがないと言うような難しさを持っているものがわざ言語でした。これは暗黙知という、なんらかの方法で表現することの困難な知識や身体などの状態を、なんとか伝えようと捻り出されたものの一種と私は考えています。

しかし一方で、本記事のようにそれにまつわる情報を散りばめることもまた、(おこがましいですが)その暗黙知へと歩み寄るきっかけやヒントとして機能するのではないでしょうか?

これを僕は翻訳に近いものと考えています。例えば「もったいない」という言葉は、英語でどのように翻訳したり説明したりすることが出来るでしょうか?(難しい翻訳の例です)
翻訳は「英語-日本語」などの異なる言語間のみならず、「わざ言語-記述言語」や「暗黙知-科学言語」など様々な場面で存在するものです。

また、私が現在メインで取り組んでいる科学的な手法の導入が、多様な歩み寄りのきっかけを思いがけない方向へ増やすことができると感じています。
音楽演奏にまつわる暗黙知が一層多様な人にとってアクセス可能なものになり、みなさまのアイディアやひらめきへと繋がればいいなといつも思っています。

次回もお楽しみに!