父親の全力疾走
夕暮れの街、駅のロータリーから、帰宅する乗客を大勢乗せた一台のバスがゆっくりとドアを閉めると、次の停留所を目指して発車した。車内に目を移すと、泣きそうな顔でバスの窓から外を見る少年、その窓の外には彼の父親が慌てて走っていた。……全力疾走、陸上の選手でもない限り、なかなか大人の全力疾走は見られない。
五分ほど時間を戻そう。バスの車内、左側の前方の二人掛けのシートに父親と小学生低学年の男の子が坐っている。バスは乗降口を開け出発の時刻を待っていた。
「ちょっと叔母さんちに電話してくる。すぐ戻るから」
父親はそう言うと、バスから降りて停留所からすぐの公衆電話を目指して歩いて行った。男の子は小さな目で父親の姿を追う。父親はバスを見ながら公衆電話の受話器を耳に当てている。プシューっと音がしてドアが閉まり、女性の声のアナウンスが流れ、車はゆっくりと動き出した。
そう、要は僕は置いてけぼりにされたのだ。出発の時刻も確認せずにバスから降りて電話をしにいく父親を残してバスが発車したのだ。残された僕はドキドキが止まらず、ただ泣きそうな思いで窓の外を見ることしかできなかった。バスが次の停留所に停まるも父親は間に合わず、結局タクシーに乗ってバスを追いかけて、なんとか合流することができた。その時に僕は初めて涙を流した。安堵の涙だ。
うちの父親は子供のようだった。食べ物も好き嫌いが多く肉も野菜を食べなかった。基本魚と卵焼き。僕たち兄弟はハンバーグやカレーライスなどを食べているのに、父親だけが別のメニュー。それこそハンバーグやカレーライスなどは子供のご飯で、大人は違う物を食べるものだと思っていた。そのくせチョコレートが好きで、切手やテレホンカードが流行ったりしたときは、僕に見せびらかしたりと。子供のようにふるまう。
これは僕が大人になってから母親に聞いたのだか、父親は幼い頃、裕福な家庭で育ったらしい。で、わがままになった。結局、戦争で財産を失ったらしいのだが、その戦争で兄弟の中でも一人だけ、田舎に疎開で預けられたらしい。で、性格も若干、屈折したらしい。
誤解のないように言っておくが父親は優しい人だ。それでも幼い頃、父親と一緒に遊んだことはなく、一緒に出掛けることもほとんどなかった。何かを買ってもらうなんてこともなかった。そういうのは母親の役目だったのだろう。
唯一、一緒に出掛けたのは、父親は釣りが好きだったので時々だが、近くの川や、一緒に電車に乗って千葉の葛西や行徳という所でハゼ釣りを教えてもらった。なにより楽しみだったのは、毎年夏になると泊りで千葉の保田という所まで連れて行ってもくれたのだ。
そんな父親がその親戚の家の帰りに、僕に悪いと思ったのだろう、玩具屋に連れて行ってくれた。
「なんか選べ」と照れ臭そうにそう言った。僕は当時流行っていた超合金の玩具を選び、バスに置いてきぼりにされたことも忘れ、電車に乗ると父親の隣に座り母や兄、弟が待つ家路に着いた。