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見えるものと認識するもの

ずいぶんと前から新聞を読まなくなった。まず目を覚ますとスマートフォンで様々ジャンルのニュースや話題の中から面白そうなものを選び目を通す。

今週末に近所のショッピングモールで開かれる面白そうなイベントや新発売された何枚もチーズが入ったハンバーガー。

昔からテレビや映画で見ていた方の訃報の知らせや悪いニュースに目が留まる。

今日は久しぶりに母親とスーパーへ出かけた。兄が買い物に行きたいと言うので『お母さんも連れて行く?』と母に声をかけてもらった。めずらしく同意する母。病院へ行く以外で車で出かけるのは久しぶりだ。僕の車まで少し歩いたのだが、兄に手をとってもらった母はとてもゆっくりと歩を進める。

後部座席に母と兄が座り車を動かすのだが、バックミラーに映る母はいつもどおり窓の外を見るでもなく、心ここにあらず。といった目をしている。何を見ているでもなく、何も考えていない無の目といった方が分かりやすいだろうか。初めて母のその目を見たときは怖く悲しかったが、声をかけてもそれは変わらない。

スーパーで買い物をしていても母は一緒に歩いているだけで、何も見てはいない。少しすると小さな声で兄に
『帰りたい』
と囁く。
『もう少しで帰るよ。なにか美味しいものでも買ってもらえば? このゼリーはどう?』
と話題を変えるが、みかんのたくさん入った美味しそうなゼリーには目を向けることはない。食べれば口の中がひんやりとして、プチっとした食感と少し酸味の効いた甘さが広がり、とても美味しいことがそのゼリーを見るだけで分かるというのに。

最近は街を歩いていても年配の方を目で追ってしまう。手押し車を押し、ゆっくりと歩道を一人で歩く人、日差しが強い中でも右手で杖をつきながら逆の手で買い物バッグを持って歩く人。

人は目に入ってきても興味がないとスルーをしてしまい、興味があることだけを認識するらしい。

子供が生まれる前、妊婦さんて意識すると結構いるんだな。と思ったことがある。むし歯で歯が痛いときは、歯科医の看板が目に入ってきた。実家の片付けをしているせいか、街にはゴミがたくさん落ちていることにもよく気がつく。母のことが頭にあるからか、街を歩くのには段差があったり、手押し車を押すには道幅が狭かったりもする。

来月、母の誕生日だ。去年は忘れていて悲しそうな顔をしていたので気をつけないと。

誕生日には少し早いが、今年は手押し車を買ってあげよう。


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