一枚の免許証
先日、子供が車の免許を取得したというので近所に練習をしに行ったのだが、やはり子供の運転はとても緊張する。
はっきり言って『怖いし、乗りたくない』というよりも『乗らせたくない』が本音だ。どうしても『事故でも起こして他人に怪我でもさせたら?』と思ってしまう。
それでも、いつまでも自立しないのは困る。助手席に乗り、おぼつかない運転にあれこれ苦言を呈したい気持ちを抑え、集中力を研ぎ澄ませるが、信用されていないと思われても困る。子供にはわからないように周りに気を配る。
道路は慎重にというよりも、ゆっくりと曲がったり、信号待ちではかなり車間距離を開けて停まったりしていたので、少しは安心したのだが、駐車があまり上手ではなかった。
近所の駐車場で車を停める練習をしたのだが、始めてから少しすると緑色の軽自動車がゆっくりと走ったり、変な所で停まったりしていたので何気なく観察をしていると、どうやらその車も駐車の練習をしているようだ。僕から見てもあまり上手とはいえなかった。すれ違いざまに、さりげなく覗くと年配の女性だった。
子供には何度も停める場所を変えさせて練習をさせるのだが、後ろに意識を集中すると前方がおろそかになっていたりと、助手席でずっとアドバイスをするのだが、なかなか上達はしない。自分も何十年と前に経験をしたことだ。よく分かる。教習所と実際の路上では緊張感や道の感覚などがやはり違う。
『車をぶつける心配はないだろう』と判断をして助手席から降り、敷地内の自動販売機で飲み物を買いに行ったときに、先程の車の女性が自動販売機の隣りにある赤いベンチで休んでおられた。僕が軽く会釈をすると、照れくさそうに話しかけてくれた。
歳は70代だろうか、彼女が言うのにはこうだ。
少し前に夫が亡くなり、それまでは自身も車の免許を持っていたが、毎回というもの夫が運転をしてくれていたものだから、もう何年も車の運転をしてこなかったらしい。家から近くのスーパーは遠く、買い物に行くには車しか手段がないので、ここに練習をしにきたというのだ。
「こちらも子供が練習をしています」というと彼女はにこりと微笑んだ。隣でお茶のペットボトルを買い、そのうちの一本を彼女に差し出すと、少し困った顔をしたが、すぐに先ほど見せたような笑顔になった。
免許を新しく取得した者。何十年と車の運転をして世を去った者。独り残されそれでも前を向き運転を思い出そうとする者。
同じ一枚の免許証だが、いろんな立場に置かれている方々がいる。
高齢者の運転が社会問題になることもある。去年亡くなった父親は、実家による度に何度も「乗っちゃダメだよ」と伝えたのだが、腰が曲がってやせ細っているのに原付きバイクに乗っていた。それぞれに環境が違い、それぞれの生活があるのだ。高齢化の社会に向かっているが、良い解決策はあるのだろうか。
子供に運転を教えていたつもりだったが、なんだかいろんなことを考えさせられた。
よく晴れた午後、帰り道は行きとは違って景色を見る余裕があった。助手席から見る桜はとても綺麗だった。