思いがけない世界【自由について】
これからお話しすることは、多くの方々の、そして私の世界観の否定です。
それはイメージの否定であり、先入観の否定、固定概念の否定、アイデンティティの否定、自負心の否定、願望の否定、過去の否定、肯定(受け入れること)の否定、信じることの否定、幻想の否定、理解することの否定、寛容の否定・・・その他もろもろの私たちの慣習の否定です。
私たちは、もはやこれ以上虚構──支える杖や、つかまる手すり、拠り所──にしがみつくことをやめたのです。
──そんなたくさん、あれもこれも否定なんかできるもんかい!
だいいち、人間素直に、自然に、ありのままに生きていればそれだけでいいのだ。
人はあまりにもたくさん受け入れてきてしまったことで、すっかり歪んでしまった。その歪みのまま、素直に、自然に、ありのままに生きて来た結果が今の姿ではないですか?
その事実だけは否定できない。
過去の轍は踏まない、踏めない。
そうした内容を含んだ、それは「否定」です。
否、否、否
否、否、否、を自分に向けることよりも、自分を押し通すこと、すなわち楽、楽、楽を向けますか?
私は楽を向けます。
私は物欲です。
出来るだけ、あらん限り楽を追求します。
自分を苦しめることで一文の得にもなりませんから。
どうでしょうか?
これが上から下まで、全人類の本性ではないですか?
もしそうではないとおっしゃる方がおられれば、なにかそこにジレンマがほの見えます。
(彼は何かに依存しています)
人間とはそんなどうしようもない生き物なんだ。
欲得の塊なんだ。
それは居直りですか?
あるいは諦念ですか?
いや、正解なんでしょうか?
それともあなたはそこを離れますか?
コンビニで物を買うように、
手っ取り早く用を済ませるように、
あなたは伝家の宝刀である神を持ち出しますか?
そうして自らは
その仮面の下で息をひそめますか?
古来から崇敬を集めてきたから
多くの神職者が信奉し、学者らが評価してきたから
それが権威だから
それが”愛”を語っているから
それが”真理”を言っているから
それが見てくれのよいスイーツのようだから
(だから正しいのに違いない)
という理由でその衣鉢を継ぐのですか?
その片棒を担ぐのですか?
実は自らの欲得の埋め合わせ
感傷という生傷を癒そうという神であり、愛であり、慈悲でしょうか?
正しかろうが誤りであろうが
その前に飽きました。
飽き飽きしています。
人類は、もう数千年も昔から同じ言葉を発し、
発することで世界は、そんな慰め、自己憐憫の共感の連鎖です。
それが社会の、人類の心理、精神の奥底にある澱みです。
そのうえで、どんな美辞麗句であり、真理であり、猿芝居なんでしょうか?
それは、何か新たなものを受け入れることを強烈に拒みます。
自ら変革することを猛烈に恐れます。
自らの憤怒や不満を心の奥底に畳み込み、謙譲の精神やら、無私無欲やら、足るを知るやらを語ります。
この滓のような膠のような精神構造は、人間を鈍化、麻痺させてゆきます。
かつてニーチェは西欧社会の構造にそれをえぐり出し、ルサンチマン(怨恨)として、指摘しました。
それは「悪」以上に非常にたちの悪いものです。
なぜなら隣人もまた同じだから、その同じという安心で自らを慰め、正当化し、やがて蔓延してゆくからです。
私たちは、教えてもらってきました。
あるいは強制されてきました。
”広い心”でもって受け止め、受け入れ、肯定することを。
疑わないで、信じることを。
そうしてすっかり奴隷になりました。
自由を失いました。
それは大きな嘘だからです。
人類と私の分裂
人類は、と語るとき人は嘘をつきます。
その中での私は、他人に転嫁しています。
私はあらゆる暴力、裏切り、口争い、論争、無視、殺人、戦争、執着、嫉妬、媚びへつらい、おもねり、奸計、冷酷、嘘、詐欺、欺瞞、愚かさ、貪欲、見て見ぬふり、隠蔽、逃避、いじわる、臆病、自堕落、復讐心その他もろもろの低劣さそのものです。
それは堂に入ったもので、筋金入りです。
私がそれらを生み、私がそれらを大事に維持し、私がそれらを社会に振りまいています。
その事実の重さに耐えられますか?
それともそれは事実ではありませんか?
80億の人類の一部がそうであっても、多くは断じてそうではない。
他人にそういうものはいるが、私はそうではない。
私はむしろそういう人間たちの犠牲者だ。
私は微力ながらも愛に満ちた人間になるよう努力している。
「困ったものだ」「やっかいなものだ」と猿でも観察するかのように、その心理学なり人間学、社会学なりを研究しますか?
そうやって、またぞろ、あなたと人類の間に距離を置きますか?
人類という不可分なものを分析しますか?
かつて、立派な大人から「人類は一つ」と聞いたことがあります。
であれば、大人であるあなたは人類の一部ではなく、
あなたこそが人類です。
他人ではありません。
そうした事実を認めないあなたは、人類ではないのですか?
ではあなたは何か高いところ、離れたところで高みの見物でしょうか?
私は、この事実だけは否定しません。
肯定もしません。
事実だからです。
事実を目の前にして否定も肯定もありません。
良くも悪くもありません。
ただそれだけのことです。
有無を言わさないからです。
この事実を見つめてください。
それを認めたり、否認したり、そこから考えを派生させないでください。
目を逸らさないでください。
そこから「人類は・・」と導き出さないでください。
そうした社会を変えようなどと逃げないでください。
変わりません。
社会はあなたを救いません。
宗教はあなたを救いません。
それに真剣に入って行かれるあなたは、自分自身がそうした低劣さをつくってきたことに思い当たり、思い当たることによってのみ、社会は、世界は、あなたが変えてゆくことができるのです。
他人のせいにしないあなたは、それは当事者であるからです。
私は暴力を否定しません。
もし、それを否定すれば、それはさらなる暴力となって暴れまわるに違いありません。
私は暴力です。
私が暴力であることから、その暴力を否定しません。
私はその暴力を包み隠そうとする嘘、取り繕い、体裁、偽善、優越、分別、それら一切合切を否定します。
また、そのようにしようとしています。
私という暴力にとって、それらは単に邪魔だからです。
そこで暴力は何ですか?
あるいは冷酷は何ですか?
それは、人を殴るための腕でしょうか?
氷のように血が通わない心臓でしょうか?
何か不穏なエネルギーでしょうか?
どんなことであっても、社会にあることは、あなたの中にあることです。
あなたの中にあることが社会にあります。
二者は分裂していません。
分裂していないときにのみ、愛であり、自由がやってきます。
それこそあなたの謂うところの「神」の世界です。
人類の低劣さというものは、分裂するところから始まります。
分裂は、眼前に繰り広げられる現実=自己という認識の拒否、または逃避です。
人間の思考はそれを離れて、自分に都合の良い理想の自己、居心地のいい世界を創り出してきました。
さらにそのイメージは、幻想や神話や宗教的な戯曲などを生み出しました。
それは巧みに、複雑に、そしてずる賢く脚色され、人々をもう一つの自分、もう一つの世界といった甘ったるい仮想現実へと誘ってゆきました。
そして、数千年というもの、人類はこの分裂を友とし、師として馴染んできました。
それの危険性を、一部の聖賢や哲人らは概念的には気づきましたが、この分裂の根っ子はそのままです。
分裂は何処をどうやっても治すことが不可能です。
なぜならそれは治そうという当人──彼が、あなたが、私が作っているものだからです。
それが今日のこの社会の暴力と狂乱を生んできたのです。
現実がどのような悲惨であれ、それをそのように見つめることは、それ以外の一切の迷妄を振り払うことです。
いや、振り払うというのではなく自ずと消散します。
現実は味気なく、詰まらないものですか?
現実のリアルさ、ハレーションのようなあからさまさ、
現実はまぶしすぎますか?
否、否、否
私は否定を言いました。
普通、一般には「否定」というとき、それに代わる何ものかを打ち出してきます。
そこに、自己の信念なり、信仰なり、主張なりがあるからです。
それに沿わないものを否定します。
しかし、私はそれを言いません。
押し通すべきもの、付け加えるものは何もないからです。
ただ、余計なもの、覆い隠しているものを否定して、それを終わらせる。
そうしてこそ、初めてマトリクスが晴れ渡ります。
マトリクスは、イメージを重ねることだからです。
もっと直截的に、それは自分自身に嘘をつくことで出来上がります。
理想は反動から生まれ、暴力になる
さあ、現実は終わりました。
つまり私の作った幻想・妄想は幕を下ろしました。
実は私たちが「世界」「社会」と呼んでいる現実というものはすでに終わったものです。
いつも結果であって、それは過去のものです。
終わったものをあれこれいじくってどうするのでしょうか?
それをつくっているのは「今の私(今=私)」だからです。
それが見えてきました。
大事なのは「これから」の私たちの在り方、在り様についてで、過去のことではありません。
「これから」とは未来ではなく「今」を指します。
今しかないし、よって今が大切です(今しかないのですから、大切というのもなんですが)。
過去の悲惨は今が生んだものです。
私にはそのように思われるのです。
それでは、そんな過去の過ちを繰り返さないような「今」とは、それはいったいどんな「今」なのでしょうか?
過去の延長線ではない「今」です。
(というより、過去は延長しません。そうしているのは、現実から目を逸らす私たちです。よく「過去を引きずる」とか言いますが、過去の亡霊に命を吹き込んでいるのは、偽善者である私たちです)
そこで私は次のような口上を思いつき、それを書いたアドバルーンを、得々として打ち上げます。
なんの葛藤もなく、公平で、貧富(の差ではなくそのもの)もなく、平和(戦争の反対のそれではなく)で、そして何よりも自由で愛に満ち満ちた世界。
そうですね。
お気づきのように、それはきれいごとを並べただけのユートピア社会です。
そこにある「世界」というものは、単なるイメージで、憧憬でしかありません。
その憧憬の中身は、人類がそれまで(そして今でも)経験してきた悲惨や残酷、詐欺、欺瞞といったものから脱却したいという願望です。
もしそれだけであったのならば、それはないものねだり、つまり子供じみたエゴに過ぎないものです。
戦争の反対の平和、不自由の反対の自由といったような、、。
しかし、思い描くとき、どうしてもそんな歯の浮いたような”理想像”しか浮かばないのです。
人は概念や、言葉という象徴(実体のないもの)で生きているからです。
概念のみで云々することは、どこの学者(でなくても私たち一般人)でもたやすいことです(概念とは十把ひとからげのことです。つまり先入観、類型化、モデルといったアナロジカルな、よって架空のものです)。
それを毎日、私たちはやっているし、今もTVやSNSでやっています。
いや、そのやり方しか知らないのです。
それは、意識的なまたは無意識的な「決めつけ」です。
良くも悪くも、決めつけられたその対象は、実際と大きくズレているからそこに軋轢が生じます。
例えば、上の”理想的なビジョン”に注意して見ましょう。
それは選挙を前にした議員の公約のようなものです。
それは、小学生でも言えることで、彼がそう言えば先生から💮か「よくできました」がもらえるレベルです。
優良児、模範生、模範解答です。
しまいには、「よくできました」をもらうがために、そうした利いた風の発言をするようになります。
私たちには「よくできました」のイメージが先にあるのです。
だから、それに騙されたり、裏切られたりします。
いや、実際のところ、もう少し大人遣いの、ペダンチックな言葉を散りばめれば、それは大学生でも、エリートでも、学者でも、そしてお馴染みの政治家でも大同小異です。
宗教と唯物思想とー自由を覆い隠す二つの潮流
過去にどれだけたくさんの人たちがそれぞれ理想のビジョンを掲げて来たでしょうか?
人類の突端、つまりリーダーたちは、そのビジョン実現に向けて格闘し、その源である悲惨以上に苦吟し、懊悩し、争いをし、革命を企て、多くは斃れていきました。
そうしているうちに、なんとそのビジョンを実現すると言い出す人が、現れ始めました。
ああ、それは単なる絵に描いた餅、理想像だったのに・・(言ってみれば嘘の上塗りです)。
彼は実現のために、そのメソッド(宗教)を立ち上げ、なかには神の声という格好で、多くの民衆をそれに倣わすことに成功しました。
その成功の中身は、現実とは違う場所に人々を連れていき、現実は無視するか諦めるかといったものです。
しかし、当然ながら「信者」という名の多くはそのことを正直にそう気づこうとしません。
世界を当たり前に見る目を失ったのです。
(そうした世界はあなたの見方がそうであることの反映であるのだとか、そのような悲惨は人類の業が招いたもので、それを浄化している姿だとか言った類の戯言の数々)
何ものかを信じる、信奉するということは、
他の何ものかを排斥、または非難、敵対するということです。
自発的であれ、強制的であれ、それは暴力を生み出します。
なぜなら、そうした人々は、自らの信念で良かれと思って他人を屈服させようとしたり、改心(宗)させようと企てたり、やがてそれは戦争へと発展したことは歴史がつまびらかにしていますね。
また、反宗教という形も、それに輪をかけて世界をなし崩しに堕落させていきました。
それは、近年になって現れた唯物思想という怪物です。
唯物論は、精神主義の否定であり攻撃です。
それは、科学、教育、法律、医学、唯物史観、その他の現代文明を支えるバックボーンといえるものです。
信仰、信心というものが暴力を呼び込む以上に、
唯物思想は、暴力そのものです。
それはテクノロジーの進展を武器に、一般社会においては利便性や快適さといった物欲をさらにあおりつつ、マイホームその他人々の生活をローンという違法な鎖で縛り、性は商品化され、また一方では、戦争という破壊行為においては圧倒的な力を示し、その武力・軍事力によって世界を鎮圧させることに成功しました。
これが新しい形の宗教であることを喝破した文明評論家や社会学者などは警鐘を鳴らしはしましたが、その甲斐もなく、この唯物思想の嵐は世界隅々の、まだアニミズム的な呪いなどが残るようなアフリカの部族の間にさえも浸透してゆきました。
キリスト教圏の西欧諸国や、とりわけアメリカのNYをはじめとした大都市はすっかりこの思想に沈没してしまいました。
敬虔なイスラムの風習や厳しい戒律を奉じるはずのイスラム教圏でも同様です。ドバイなどの都市の摩天楼は、さながら物質文明の粋を集めたようで、むしろ現代文明(唯物思想)の象徴とも見えてきます。
(生まれながらにしてこのような世界構造の中で生きる私たちは、それらがまるで当たり前のように思ったり、マスコミ・コマーシャリズムの口車にのせられ、新商品や、最新メカなどに拍手喝采を送るような唯物思想の信者と化しているわけです。これは言葉を選ぶまでもなく人類の劣化、腐敗を招き、彼は人生ではなく単なる現象を生きているにすぎません。この潮流は当たり前ではなく、まだ数百年の歴史しかありません)
大雑把に現在の世界のフレームのみを描いてみますとおおむねそんなところでしょうか。
私こそがその張本人です
ここで注意しなくてはならないのは、宗教にせよ、唯物思想にせよ、それらの根源は分裂という同じ根っ子に根差しているということです。
両者は人類の思考が描く同床異夢であり、同じものです。
その分裂(二元論)は、自由主義圏や社会主義圏といった垣根を乗り越えて、並外れた浸透力を持っています。
世界中、たいていの都市ではクルマが走り、航空機やヘリなどの滑走路やポートがあり、Wi-Fi環境が整備されています。もちろん、たいていの国では大宗教、民族宗教の信者がその屋台骨を構成しています。
「科学と宗教が手を取り合わなければならぬ」などと大言壮語するまでもなく、両者は妙に親和性があるようです。
おかしな話です。
歴史にせよ、経済にせよ、学校などでそれを習うとき、私たちはそれを単なる事実、記録、物語として受け止めがちです。
教えている側がそういうスタンスですから無理もありません。
「へー、なるほどそうだったのか」
は、他人事です。
それらを決して自分の問題とせず、よそ事、他山の石、あるいは学問のための学問といった様に傍観的な見方で見ています。
実は、ここに分裂があるのです。
人類に悲惨があった。
暴力が、戦争が、殺戮があった。
また今もそれを経験している。
すなわち、政治的、宗教的、陰謀論的にであれ、人類のどこかだれかがそうした過ちなり、無知なり、偏向なりを繰り返してきた、また現実逃避を繰り返してきたのだという見方です。
文字通りの歴史(His Story)です。
興味本位で当人は外様です。
これは分裂です。
なぜなら人類は私たちだからです。
私たちがそうした悲劇を生んできた張本人だということ。
この──つまり、私と世界が分離しているという──認識がまかり通る限り、条例や規約を策定したり、警察力を強化したり、管理社会を強化したり、革命や世直しといったように、私を離れた外界に修正なり改革を求めるという今日のやり方が生じてくるわけです。
それこそがまさしく欺瞞・責任回避ではありませんか?
「君たちがこんなひどい社会をつくったんだ。何とかしたまえ」
「悪の中枢は奴らだ」
との言葉を吐く当人はその社会の一員ではなかったのか?
私たちこそが社会そのものです。
私たちが自分の都合で現実から逃げる宗教をつくり、
私たちが快適さを求めるあまり唯物思想をつくったのです。
いずれも欲得が描く妄想です。
あらゆる悲惨、残酷、争い、欺瞞、嘘、言い訳、その他不幸をつくったのは他の誰でもない、私たち、いや私が作ったのです。
そうではない理由は何処にありますか?
この認識がない限り、一切は「お話」であり、どなたかのナラティブに過ぎません。
しかし、学校に、政治に、社会に、あなたにこの認識がありましたか?
この認識がないことで、世界はますます腐敗し、今日の様相を呈しているのです。
つまり、世界と自分との分離です。
私はそう思います。
これは、むしろ先に挙げたユートピアを持ったがために、その現実と理想という分裂ゆえに、その葛藤ゆえに、かえってさらに不幸になってしまったという格好の例証ではないでしょうか?
理想というものは欲望です。
それでは、欲望は悪ですか?
欲望は醜いものですか?
それは叩きのめさなければならないものでしょうか?
多くの宗教がそう教示してきたことから、そのように思われる方も多いでしょう。
自らの欲を隠し、上辺は無欲を繕う。
清貧に甘んじ、粗衣粗食で粗末な家に住む。
そうしたことを、多くの聖人らがやってきただけではなく、「欲望を持つことは罪悪である」との概念が、私たちの心のどこかにあります。
欲望は欲望です。
それは生きるために備わった本能です。
もしそれがなければ、私たちは裸で街を歩くでしょう。
それを神聖なものと美化しないまでも、それゆえに私たちは生きていけます。
しかし、欲望には終わりがあります。
常にそれは消長しています。
だからそれは決して自由へと導きません。
それを追求し、永遠なものとしようとする貪欲から、悪が、醜悪が生まれます。
そのものは、執着、独占、耽溺などで、欲望もろともに終わっていきます。
欲望は打ち上げ花火のように、終わりを楽しむものです。
願望ではなくイメージでもなく、ただ在るもの
ここで、先ほどの”理想的なビジョン”を再度確認して見ましょう。
なんの葛藤もなく、公平で、貧富(の差ではなくそのもの)もなく、平和(戦争の反対のそれではなく)で、そして何よりも自由で愛に満ち満ちた世界。
これはつづめて言えば「幸せになりたい」ということです。
「幸せ」とは「自由」のことです。
自由のない幸せはありません。
まず、第一にそれが願望である以上、それは二元論ですから、冒頭に記された「葛藤のない」理想すら、必ず葛藤が生じます。
そんな口上は誰でも吐けます。
「そうなりたい」というきっかけは、「そうではない」現実から発生します(暗に「そうではない」現実を肯定しています)。
それを、例えば今あなたが思い立ったとすれば、その動機(始まり)がありますから、早晩終わりが来ます。
あなたは終わりがある自由なり、幸福を求めています。
しかし、そんなものが自由であり幸福であるのならば、それはあなたのお好きなゴディバのショコリキサーを喫したいという”口福”となんら変わりありません。
背が低い。もっと高くなれればいいのになあ。
丸顔だ。面長になりたい。
また朝から脂っこい香辛料だらけの食事か。さっぱりとした日本食が食べたいなあ(海外赴任など)。
大変失礼ですが、お若い方など、その願望の達成が「幸福」なんだと、本気で思い込んでいる方も少なからずおられます(いやいや、ほぼ人類全部がそうであるなどとは思いたくないものです)。
それを、”この世的”にたとえれば、本物の宝石は手に入らないから、イミテーションでいっか、のようなものです。
何か大きなもの、神秘的なもの、未知なものを探しているけれど、その辺の名の通った神(権威)でも信じてみっか、みたいなものです。
なんか良いこと、ご利益でもあっか、といった。
自由とは、あなたの意表を突いたところに在ります。
それを「探して」は絶対に見つかりません。
決して、美しく着飾った、まして万人受けを狙ったような「言葉の綾」に絡めとられません。
それは、思いもかけなかった、思いがけないところにあります。
世界の、宇宙のどこかではなく、あなたのど真ん中にあります。
が、それを忘れています。
その健忘症は、どこか遠いところ、宇宙にそれを「探し」ます。
果たして目覚めたのか?
世界は5次元にシフトしている、
みずがめ座の時代の到来だ、
風の時代だ、
間もなく地球規模で立て替え立て直しがやってくる(黙示録、日月神示など大本の系譜、さまざまな予言等々)
プレアデス人ら、異星の存在がまもなく私たち地球を救ってくれる、
あまりご興味ない方でもそれらワードはどこかで耳にしたことがおありでしょう。いわゆるスピ系の方々がそれを口にし、そっとつぶやいたり、煽ったり、絶叫したりしてきました。
もちろん彼らの想像がそれを言わせているのではなく、神智学的な、あるいは西洋占星術的な、グノーシス主義的なスピリチュアリズムに基づいたものです。
(私も、一方で強烈な違和感を示しながらも、そうしたことを話してきたことは、過去の私の投稿をご覧になればおわかりでしょう)
さて、私たちは果たして目覚めたのでしょうか?
何に目覚めましたか?
目覚めたことでどう変化しましたか?
あるいは、まだその過程にあるのですか?
幽体離脱して天使や高次元の存在にアクセスしたのですか?
高級神霊や守護霊のお導きですか?
クンダリーニが上昇したのですか?
身体が珪素に転換し始めたのですか?
瞑想でサマディの境地に行ってしまったのですか?
これらのことが未達な自分はまだ未熟だから、さらに深い瞑想に入ったり、特別な修練を積むべきなのでしょうか?
そのためにまた数十万のおカネをかけるのですか?
なまじ目覚めたばかりに、かえって人間や世の中の嫌な面ばかりが目に付くようになりましたか?
世界は徐々にでも浄化されてきたのですか?
私たちは目覚めていません。
第一に、「目覚める」ということ自体、すでに葛藤を抱えています。
それは二元性を背景にしています。
だから「目覚めた」と称している方々は、そこにジレンマを抱えています。
目覚めた自己と、いまだ永い眠りについている他者との間に、強烈な乖離、疎外感、焦燥感というものがふつふつとたぎっています。
私たちは、(切り捨てるような言い方で申し訳ありませんが)頭脳が、つまり思考が、イメージが反応したにすぎません。
それは、よく言われるような(想像をたくましくした)意識の拡大ではなく、知識の拡大です。
そして自らその限界を抱えた知識の自己分裂であり、それのもたらす幻惑です。
もっと言いますと、私たちの外の世界(過去)が反応したにすぎず、私たち自身(今)は蓋を閉ざしたままです。
知識は道具、道具は制限
物心ついたときからそうであるように、
私たちは何かを教えてもらう際に、「先生」が黒板の前で講釈をし、私たちはしきりにそれをノートにとったり、重要な個所を赤で囲ったり、頭脳にインプットしようとします。
私には、私たちの姿がどーも、その生徒たちと重なってしょうがないのです。
そこで私たちに付与されるものは「知識」であり、それ以外の何ものでもありません。
あなたは、知識が無ければ生きていけません。
右も左も分からないからです。
道路も歩けません。
しかしながら、あなたは知識で幸せになりましたか?
もしそうではないとお思いでしたら、
知識は幸せの問題と無関係であり、
もしかしたらかえってそれを遠ざける遠因になっているのでは?
という疑問が無くてはなりません。
知識の最前衛はテクノロジーです。
知識で幸せになる人はテクノロジーで幸せになります。
ボタン一つでカーテンが開閉でき、ボタン一つで離れた自宅の愛猫に水や餌をやり、ボタン一つで仮想世界のゲームに入って行けます。
テクノロジーで幸せになる人は、幼少期には英才教育の特別なカリキュラムを経、一流大学を卒業し、おまけに海外留学でハーバードやカイロ大学かどこかで博士号を取得し、自らの思いはAIがそれを綴ってくれ、TVに出演しては笑顔で最大公約数的論説を述べ、日々大量の薬を飲み、余暇はチョコやらカーブやらでストレッチに汗を流し、トランスヒューマニズムの恩恵で自分の代替えに次第に移行し、最終的にサイボーグとして幸せになります。
知識は「道具」で、道具はあなたではありません。
知識は制限です。
だから知識は狭い範囲でしか役に立ちません。
違いますでしょうか?
ファウスト博士のように万巻の書を呼んでも、自由の前では無効です。
むしろ妨げになります。
現代社会にストレスを感じたり、ノイローゼになったり、虚無感に襲われたり、それを離れて田舎暮らしに憧れ山村に移住したり、「濃密な人間関係がたまりませんでした」とまた都会に戻ってみたり・・といった数々は、自らが道具としてテクノロジーに浸食されつつあることへの本能的な拒絶反応でしょう。
いかにしてそれに接近するか?
あなたは、過去にあなたが尊敬する、あるいは興味のあるお方の講演会やセミナーといったものに出向き、聴講されたご経験がおありでしょう。
感慨深く、時に笑いあり、涙あり、ジーンとこみ上げるものあり、唯一その場でしか体感できないと思われるお話に満足されたのかもしれません。
それに感銘を受けて「よーし、明日からは断固〇〇をするぞ!」とかなんとか決意を新たにされたり・・。
そうであれば、その講演は大成功だし、演台に立つスピーカーは、その名手といえるでしょう。
それに大枚をはたいたり、拍手喝采で謝辞を示したり、会場で著書を購入したり、、大いに結構だし、その価値はあるのでしょう。
しかし、それは、あなたが今携わっているお仕事──例えば技術開発や、経営など──においてはのことだと思うのです。
それは、知識に関することだからです。
ロックコンサートなども感動を与えます。
それも知識に基づいています。
「アンコール」「アンコール」などというのはこの世界においての話です。
しかし、ことが「人間」そのものをテーマにした講演に、それがあってはならない。
まさか歌舞伎の演し物ではないのです。
拍手喝采やアンコールはもっとも失礼に値するはずです。
だから、それを要求するようなスピーカーは偽物です。
その満足料だかおひねりだか投げ銭だかで一円でもカネを払ってはなりません。
ケチではなく、それは失礼な話だからです。
彼が、僧侶であったり、学者であったり、聖職者であったり、スピリチュアルを提唱する誰かであったりしても、あなたはまず絶対に信じないというスタンスで対峙しなくてはなりません。
その権威に、あるいはビッグネームに物怖じする要はさらさらありません。
そこにたとえイエスやブッダがいようともです。
彼らの話す内容が本物であれば、それはあなたにとって何の得にも益にもなりません。
もちろん、私がいまこうして書いている内容もです。
第一、間違いを平気で書いている可能性もあります。
なぜなら、おそらく大方の予想に反して、幸せとは損得とは全く無関係だからです。
有意義とか有益とか、時間の無駄とか得るものがないとか、そんなものとは全く関係がありません。
人間の問題は株式投資の問題とは違うからです。
宗教的な教示・教訓から得たものは小学校の廊下に貼ってある「廊下を走ってはいけません」と、何ら変わりありません。
しかしあなたはそれを求めています。
それは、すべてあなたではなくあなたの外部の事柄についての指摘であり批判であり感想です。
そこにあなたは何かを期待しています。
その期待に応えられれば満足で、
期待に反すれば裏切られた感でその席を後にするでしょう。
期待や願望とはそもそもそうした身勝手なものです。
それは受け身で何かを吸収しようといった学校で身に付いた受講態度と変わりません(受け身で指をしゃぶって世の中はよくなっていくだろうと言っているようなものです)。
人間の問題は知識の問題ではないのです。
惑わされないでください、
他人はどーでもいい。
感銘を受けた彼でさえ、どーでもいい。
世界はどーでもいい。
世界で戦争があり、その奥に暗躍する悪党がいる。
そんなことはどーでもいいし、あなたはそれをどうすることもできない。
あなたはご自分だけが大切なのです。
必要なのは、あなたの変革、革命です。
あなたがそれをするのです。
徹頭徹尾あなただけ幸せになればいいのです。
あなた以外の誰もあなたを幸せに、つまり自由にしません。
出来ません。
(そもそも他人を幸せにするなどということは詐欺か、余計なおせっかいです)
だから、他人の話はそれの単なる契機と考えてください。
先人の、それがいかなる先哲のご高説であったとしても、それに同意しないでください。
いかに伝統的な文化が生んだものであったとしても、それに同調しないでください。
または社会にそれを求めないでください。
もし、そのお話が間違っているとお気づきであれば、それをきっかけにあなたは自問自答してその問題に入ってゆくべきです。
しかし、そのような講演者(または発信者)はごくごく稀です。
みな、ご自分の思想なり理念をもって、それを押し付けようとはしないまでも、それになびかせようとしてきます。
それにYESを言えば、あなたは彼の奴隷です。
批判したり、反発したり、いいねを言う余裕がおありでしたら、さっさとその講演なりを退席して、自らがその問題に入ってゆくべきです。
いかにしてそれに接近するか?
いかにしてはありません。
方法論などはないし、もしあったとすればそれは不自由への道です。
否、否、否、
その姿勢こそが、泥にまみれて汚れてしまった自由という宝石を見つけ出す鍵になるものです。
否定とは、定めないことです。
果てしない旅
あなたは、否応なしに自由という地平線に立っています。
今新たにそこに立ったのではなく、はるか太古の昔からそこに立っています。
だからそれは、目標や目的ではなく、また到達点でもありません。
「俺は自由を獲得するために戦い、冒険の航路に出るのだ!」
といった勇ましい気概は、SFファンタジーの分野では楽しそうですが、あいにくそれは自由ではありません。
自由は獲得するものでも奪取するものでもないからです。
しかし、私たちは自由から離れてしまった。
そこに立っているのに離れているという分裂。
それに一体どうしたアプローチが可能でしょうか?
ステップバイステップ──それは、決して辿り着けない迷路をさまようことに似ています。
漸進的ということは、永遠に漸進的です。
「(人類は)少しづつ良くなっていく、良くなっていくだろう」
良くなりません。
「大悟3回、小悟その数を知れず」とは全く無縁です。
何度でも同じことです。
自由は修行や鍛錬によって、漸進的に到達するものではありません。
そもそも到達点はないからです。
また、「自由」とは、欲望が後押しするテクノロジーの進展といった人間の行為の外にあります。
少しづつ筆を入れつつやがて完成する物語や、絵画とはわけが違います。
「ディアゴスティーニ」ではないからです。
また、何十年も閉じ込められていた牢屋を出て、初めて娑婆の空気を吸い「自由になった」という自由とは別物です。
それは「自由」ではなく「解放」です。
ご存じのように、物質は、強烈な集中、願望によってそれを達成、または引き寄せることができます。
しかし、自由(幸せ)にそれは不可能です。
求めようとして得られるものは物質であって、もし自由が無くてそれを手にすればますます不幸(不自由)になります。
(それが今日の姿です)
そこで何ものかを手に入れたことによってかえって自由は遠のきます。
幸せは見えなくなります。
欲望には目的や到達点、目論見があり、それは暴力だからです。
宇宙、世界の構造を知り、裏の裏まで知り尽くそうということは、自由とは無関係です。
それで満たされるのは知識であって、それは物の世界です。
よってすでに過去の世界です。
科学技術の進展は物質的な快適・快楽には貢献する一方で、大規模なジェノサイドなどの原動力にもなります。
だから幸せとは別物です。
自由とは、決して他人によって与えられるものではありません。
考えて考えて、辿り着いた「結論」でもありません。
それは、考えたことも思ったこともない、辿り着いたこともない、つまり常に新鮮な処女地です。
あなたの経験や、それによって積み重ねられてきた考えは決して届きません。かといって遠く果てしなく離れたところではなく、実際あなたのど真ん中にあります。
自由を理解するものはどこにもいないでしょう。
なぜならそれは、あなたが理解するものだからです。
あとがき(何ものにも靡かない、満足しない)
長文になりましたが、まさかここまでお読みになられるとは・・。
読むものは読まれるもので、読まれるものは読むものです。
ですから私はあなたを読んでいます。
ともあれ、読まれることを無視したこのような文章を読まれるとは、頭が下がります(立場を変えて私であれば読まないかもしれません😣)。
読了、あなたは突き放された感で一杯でしょうし、あきれて途方に暮れる方もおられるかもしれません。
そもそも、これをお読みになられる方は人生の何ものかに強烈な違和感を持たれている方だと思いますし、何ものにもなびかない、満足されない精神性を持たれた方でしょう。
そうでなければ、どこか他所で落ち着かれるはずだからです。
私は、第三者に向けて書いているようで自分に言い聞かせ、
独白めいたことで第三者に向けて書いていたりします。
といいますのも、扱うテーマがそうであるからであることは、お読みになったあなたであればお察しいただけるかと思います。
垣根(二元性)を超えたところにのみ自由はあるからです。
そして、それは世間一般の、暗誦出来るような「概念」ではありません。実際です。
自由は、現実世界に何のメリットも、何の得るものももたらしません。
なぜなら、それは現実世界を創り出すものだからです。
(お分かりになりますか?)
白状しますと、私は30年来このかた、実は本らしい本を読んでいません。
それまでの若いころはむさぼるように乱読した時期もありましたが、別に必要なくなってしまったのです。
まさかそんなことはないとは思いますが、そんな無学な私のお話を信じないでください。
信じてもらうとか、認めてもらうとかではありません。
私に特段意図はありませんが、強いて言えばあなたが、あなたの中に入って行くきっかけになれば──という言い方も僭越であれば、あなたの喉に引っかかった小魚の骨のようなものであればうれしいのです。
気にかけざるを得ないものだからです。