しろうるりをくらうるり 芋頭道の人
The 悠々人列伝─────────巻の一 盛親僧都
古今東西、独立独歩、世事にとらわれず超然として生きた男たちがいた。いや、女たちもいた(かもしれない)。
その強烈な個性は、世俗の目には通常滑稽に映ぜられることの方が多かった。
しかし、ひとたびことをなさんとするや、一大事を成し遂げ、世人はそれに瞠目せざるを得なかった。
一方、ご当人たちは、世間のそんな評価も「どこ吹く風」、平素の姿勢を決して崩そうとはしなかった。飄々乎として、しかもいっこくなその風体こそまことに痛快無比。
(小紙では)、いまここに、彼らを「悠々人」の呼称をもって迎え、連載していくことにしよう。
いわゆる「偉人伝」に名を連ねる人物は顔ぶれも決まってきている。
また、その業績もあらましは周知されていることから、どちらかというと新味がないとも言えなくもない。
その点、彼ら「悠々人」たちには、まったくもってそんなことはない。なぜなら業績そのものからしてはなはだとらえがたく、ためにあまり知られていないからである。
しかし、わたくしたちがもし仮に不特定多数の中から任意の人物の人生を送ることが出来る、というのであれば、おそらくは「偉人」ではなく、この悠々人の中に、その候補者を探すのではないだろうか?
好きな芋頭をたらふく食い、病までも治す
成親僧都────。
長らく気になっていた人物の一人。
いわずと、兼好法師の『徒然草』に登場するお坊さんである。(第六十段「真乗院に、成親僧都とて、やんごとなき智者ありけり。)
ものの本によれば、この人物は、同著以外に、わずかに『後宇多院御灌頂記』という書物にそれらしき名を残すばかり、とあるから、むろん出生などはつまびらかではない。
さて、早速『徒然草』の記述をたどってみよう。
時代は鎌倉時代末期あたりらしい。
京の仁和寺の真乗院という由緒ある寺に、大変偉い学僧がいたと。
学僧、いもがしら(里芋の親芋)が大好物で、仏典の講義をするときも、大きな鉢に山盛りにして傍らに置き、そいつをむしゃむしゃ食べながら行った。
そればかりではない。
病気にかかるや、一、二週間は自室に引きこもり、「療養」という名目でうまい芋頭を普段以上に食い、どんな病気でも治してしまった、とある。
おまけに、「人に食はする事なし」というから、ふるっている。
くだんの学僧こそ、成親僧都その人である。
全財産を芋頭代に費やす
学僧、「極めて貧しかりける」とある。
師匠が、死に際に銭二百貫と一つの坊(住居)を譲ってくれた。
学僧はたちどころに譲り受けた坊を百貫で売り、あわせて三百貫(三万疋)の大枚にするや、これを「いもがしら代」として、京のある人のもとに預けた。
十貫づつ取り寄せ、存分にいもがしらを堪能し、しまいにはその財産すべてを使い果たした。
しかし、そうした次第を、人々は「まことに有り難き道心者なり」と評した、というからもはや次元が違いましょう?
学僧は、ある僧に「しろうるり」というあだ名をつけた。
人が、それはどういうものなのかと尋ねると、「そんなものは、私も知らない。もしあったなら、この僧の顔に似ているだろう」と応えた。
禅問答というより、他愛のない問答なだけに、笑った後に何かしらハッとさせられるものがある。
それにしても「しろうるり」とは言い得て妙。
なんとなく「生理的」に響く表現だ。
世の中に「奇人」「変人」は少なからずいようが、成親僧都の場合、そんな形容はもはや目線はるか下に見下ろしている。
勝手に食べて、勝手に詠い、勝手に寝る
成親僧都の人となりを、兼好法師の筆は、さらに以下のように叙述している。
「この僧都、見目好く、力強く、大食にて、能書・学匠・弁舌・人にすぐれて、宗の法灯なれば、寺中にも重く思ひたりけれども、世を軽く思ひたる曲者にて、万自由にして、大方、人に従うということなし。」
つまり、「やんごとなき智者」は、比類なきジコチューであった。
しかし、そのジコチューたるや、生半可なものではない。凡夫の想像をはるかに超えている。
お勤めの終わった後の御馳走の席など、他にはお構いなし。
自分の前にお膳が置かれるや否や、独りで食べ始めてしまう。
しかも、帰りたくなると勝手に退席してしまう。
どんな食事でも、世人のように朝飯、昼飯、晩飯といったように時刻を決めて食べることがない。
食べたいときは、夜中でも夜明けでも食べた。
かてて加えて、眠くなると、昼間でも部屋に閉じこもって寝てしまう。
どんな一大事が起きても、である。
しかも、ひとたび学僧目を覚ましてしまうと、これがいく晩も寝ないのである。
詩歌なんぞを放吟して、そぞろ歩くといったありさまであったという。
ここまでくると見上げた徹底ぶり、一種の崇高ささえうかがわれよう。
人に嫌われず、すべての行為が許され、尊敬された
しかし、問題は、この成親僧都の役を果たして何人が演じられようか、ということである。
容姿端麗であらゆる学才に恵まれ、おまけに弁舌が立つというだけで、かかる人物は普通疎まれる存在になりがちである。
その上に持ってきて、この常軌を逸した奇行ぶりである。
よほどの「器」の人物でない限り、大いに嫌われ、厄介がられること必定であろう。
では、当の成親僧都はいかがなものだったのか?
『徒然草』第六十段は、以下のごとく結んでいる。
「人に厭われず、万許されけり。徳の至れりけるにや。」
(2003年11月10日)
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。