闇が消えるってどんな?
もうじきこの世から闇がなくなるわけですが、
一体闇がない世界ってどんなもんだろか?
本気でそんな未来像が自らの射程距離にある方はごく一握りでしょうし、「おとぎ話」としてでさえ、そんなことになればいいなあ、と思う方自体そう多くはないでしょう。
それは大船に乗ったつもりの超楽観主義です。
大方には戯言、笑い話でしかありません。
もちろん、僕にとってもそれは「夢物語」でしかありません。
なにせ、生まれ落ちたときからこのかた「闇」がない世界というものは(おそらくあなた同様)経験したことがないわけで、時折「そうなった場合」をあらぬアタマで想像してはほくそ笑んでいます(オカシイデスネ)。
ところで、「経験したことがない事態」が、イコール「ありえない世界」「未来永劫に存在しない世界」か? というと、決してそんなことがないことは何度か書きました。
また書きますと、電話、FAX、飛行船、飛行機、大型船、潜水艦、印刷技術、バーコード、電気、クルマ、地下鉄、新幹線、ロケット、PC、携帯電話、ICチップ、量子コンピュータ、ロボット、AI、ナノテクノロジー・・・
登場前夜には「なのあるわけないだろ」のオンパレード。
それらが登場する前では「経験したことのない」世界でした。
しかし、それを「経験」することで、いつのまにやら一般化し、何の不思議も無い、ごく当たり前な世界に溶け込んでしまいます。
ところが、それらが「文明」をリードしてきたことは紛れもない事実です。
つまり、「経験したことがない世界」「未知の世界」「未見の世界」「未聞の世界」がいつもパラダイムシフトを引き起こすわけです。
そんなことから、”瓢箪から駒”は現実のお話といってもいいのではないでしょうか?
もし、宇宙人が僕たちの目の前に現れて、「わたしたちはみな兄弟です」と言ったとしたら、それは驚きですね。でも、次第に数万人単位の宇宙人が人類に溶け込んで生活するようになれば、それは普通の光景になるでしょう。
ちょうど、黒船来航以来一般庶民が、初めて出会った西洋人を「紅毛人」「南蛮人」果ては「天狗」と呼んだように。金髪・青い目でさえ驚きだったのです。
そんな時がもうすぐやってきます。
異星の彼が飛ばしたジョークに腹を抱えたり、バカを言うなと軽くアタマを小突いたり、そんな時代が来るのです。
しかしまあ、まだ僕らと同じようなヒューマノイド型の容姿であれば比較的馴染みやすいですが、そこから先にまたハードルがありそうです。
というのは、カマキリ型や猫型、獅子型、海洋生物型なんていう異形の種族も多く存在しているからです。
僕らはそれらとの遭遇で”ドン引き”するでしょうが、断っておきますが、それは彼らにとっても同様です。
このことは、他のヒューマノイド型の異星人でも同様らしく、彼らでさえやはりそのショックは否めないようです(笑)。
いや~、宇宙ってホント広いですね。
井の中の蛙たる僕ら地球人は、これからさらに意識の拡大を経験します。
そうした背景を踏まえて「闇」という一点に絞って書き進めますと、それはいきおい「童話」や「寓話」「おとぎばなし」めいてきます。
その前に、闇の定義があいまいですね。
第一に、「闇」という漢字がなぜに門構えに「音」なのか?
なるほど「暗」という字にも「音」がありますね。
「日」の「音」であれば、ちっとも暗くないような気もしますが。
まてよ、「暗記」ってのは、つまり闇雲に記憶するっていうことか、なんてまたしても「闇」が出てくるし・・。
どちらも、表音(語?)文字だからにせよ、なんとなく「音」があるとたちまち暗くなってしまうというのはいかがなものか、などとトリビア的な感慨に耽ってしまいますね(え?そんなことはない💦)。
僕らの地球は半球に太陽光線が当たれば、
もう半球は「夜」になりますね。
もちろん、地球が丸い(ほぼ球状)だからです。
地面に立つ棒も、陽の差す反対方向は暗くなります。
これらは、正確には「闇」ではなくて、「陰」ですね。
つまり、闇のない世界と言っても物理的な「陰」が無くなるわけではなく、「夜」が来なくなるわけでもないわけです。
「闇夜」とか「暗闇」とかいう言葉がありますが、これらは「闇」のように暗い夜とか、文字通り闇のように暗いという意味で、ここでの「闇」は比喩や形容であって、その言葉自体は「闇」を直接には指さないようです。
「明暗」の暗がイコール「闇」ではなさそうです。
どーも、「闇」はもっともっと暗い底なし沼、またはブラックホールのような存在って感じです(イメージです)。
だから「闇」の形容に「漆黒の」とかの言葉があったりするのでは・・。
「夜陰に乗じて」そこに何が潜んでいるか分からない。
暗闇が怖いのは、暗いからではなく、そういう次第で怖いのです。
女性の夜道の一人歩きも怖いですし、
丑三つ時の墓場なんて、行きたくない。
ここからは「おとぎ話(童話)」ですから、それが正しい、間違いではなくて、僕の独断というか想像で書きます。
どーやら、「闇」はむしろもっとメンタル次元というか、形而上的な世界の比喩として使う場合が多そうです。
目に見えないがそこに渦巻く負の世界、みたいな。
ズバリ言いますと、それは「恐怖」です。
心の闇
下心
よこしまな心
はしたない心
また、政治、経済、医学、歴史、大企業、軍隊、〇〇業界などの主に利権がらみの隠蔽されたもやもや。
そうした「闇」はよく引き合いに出されますね。
これらは「バレないように」という恐怖心の裏返しです。
いろいろな聖典にも闇は登場します。
あなたは、そうした負の感情というものが、仕方のないもの、人間につきもののもう一つの側面、という風にお考えではありませんか?
まさか、人間、そんな化けるところがあるからこそ、人生は面白いのだ、
なんてお考えではないですね。
誰が見ても不自然で、不要なそうした闇が、どうしてあるのでしょうか?
闇は、僕ら人間が人間を、他者を信じられないような疑心暗鬼の世界に導きます。
人に笑顔を、ではなく、人を見たら目を逸らせ的な現代の風潮は、そのまま闇の上に成り立っています。
このことが異常であるという純粋な感性は、あちこちにあまりにもたくさん散らばっている闇によって摩耗し、次第にそれが当たり前であるかのような認識になってしまった。
それは、実は仕掛けられ工作だったとすればどうでしょう。
さあ、その闇が晴れて、眩しい日差しが降り注ぐのも間近です。
もう、何も怖いもの、恐れるものもないのです。
あ、夜明け前は一番寒いですね。
日が差す前は、一瞬世界全体が闇落ちしたかのような様相を呈しますが、慌てずに鼻歌でも歌って見遣りましょう。
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。