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神国日本の末路と世界の再生
神国という言葉にはさまざまな思惑が付着している。
だからおいそれとそんな言葉を口に出せない。
第一、日本=神国と規定した時、日本以外の外国(万国)はそうではないと言っているに等しい。
実際、「外国」という言葉には、もともと特別な意味が含まれている。
それは、文字通り、「神国の外の国」という意味である。
同様に「外人」とは、「神の外の人」という意味がある。
はなはだしい国粋主義。
鼻持ちならない選民思想。
誰しもがそう感じる。
または、そう感じるように教育されている。
しかし、一歩日本や日本人であるということを退いてそれを見てみると、「神国」という二文字が、そのアウトラインが、あぶり出しのように浮かんでは来ないだろうか?
それはひょっとして、あながち間違いではないのかも? と思い当たる節がある。
下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとし
その理由は何だろう?
それこそ”センシティブ”な問題なので、明快な答えを探すのは難しい。
しかも、その答えは私たちの潜在意識の奥深くに押し込められ、それは眠っている子を起こすような作業かもしれない。
こんなお話を持ち出すと、「二度にわたる元寇の折も、我が国は凌いだのだ」といったような「神風がふいた」的な方向に行こうとする方が多いので、歴史観や宗教観などのバイアスを通さずに、まずは地形学や自然地理学的な観点から見ていこう。
フラクタルという幾何学的な概念がある。
フラクタル理論・・・複雑で不規則な図形では、どの微小部分にも全体と同様の形が現れる自己相似性があり、したがって部分を次々に拡大すれば全体の形が得られるとする理論。コンピューターグラフィックや、樹木・海岸線・山脈などの形のシミュレーションに利用。フランスのB=B=マンデルブローが提唱。
一例として、無限六角形の美しい「雪の結晶」などがある。
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また、ハチの巣や「柱状節理」という岩が織りなす神秘もフラクタルなものだろう。
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「フラクタル理論」と似たものに、我が国にも「相似象」という見方がある。
昨今、何かと脚光を浴びることが多い上古代「カタカムナ」の直観物理学から派生した概念である。
私も若かりし頃に、「イヤシロチ」「ケガレチ」などの言葉をここで知り、なるほどと自得したものだ。
そんな「相似象」の故・宇野多美恵女史の手になる相似象学会誌なる小冊子が、紛失せずに私の手元にある。
その冒頭をここに記してみよう。
一、相似象とは何か 〈相似象学会解説〉
自然界や人間社会には、「朱に交われば赤くなる」というような、性質や性格が、だんだん似通って来る現象事象は多い。又、よく似た形の山や岩や谷の風景が重なりつづいているとか、天体の運動のパターンが、極微世界のウズ巻き運動と共通であるとか、人間の運勢や身体のしくみと共通するものがあるとか、いろいろの結晶系の構造が、人間社会の事象に共通したモデルを提供して居ることなど、ものごとの型(パターン)が、ある種の基準のパターンに相似て居るという事も極めて多い。私達は、そのような相似る事柄を、統一的に相似象とよぶことにした。誰でも、日常に見慣れて居る、この「相似る現象」とは、一体どういう事なのか?・・・ただ漠然と、個々バラバラに眺めて居たのでは、それらの間に何の関係もないかの如くであるが、「何が、どのように、何に似る」のか? という事は、何でもない事のようであるが、実は、非常に根源的なイミを持つ現象なのである。・・・(以下略)
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まさに、「下にあるものは上にあるもののごとく、上にあるものは下にあるもののごとし」の錬金術的な世界観というより、それは直観そのものである。
日本は世界の雛形である
日本と世界の縮図
日本人が日本国を讃美するのは、お国自慢の例の癖からであると云ふものがある。日本国は天国の移写であると云へば、少しばかり似て居たとて、直ちに移写とは早計であると云ふ者がある。
天地初発の時において、天地の父母の神は、大地球国土を産み給うたが、特に御心を傾けて産み給うたのは、豊秋津洲であった。この豊秋津洲にはその核とも称すベき、同形小型の国が成立してゐて、これを「根別の国」というたのである。
豊秋津洲は地球である。根別の国は我が日本国である。大祓詞に豊葦原瑞穂国とあるは豊秋津地球の別名で、大倭日高見とは根別日本国の別名である。
試みに世界地図を披いて、世界各国の地形と、日本国の地形とを比較研究せられよ。その如何に類似しその同一典型に出でたるかの俤を認むるに難くないであらう。世界の各大洲には、古来幾多の変遷があったに相違ない。日本の地形にも幾多の変遷があったのである。かく双方に幾多の変遷を重ねた大小の秋津洲は、今やその形容をはなはだしく変化せしめては居るが、神誓神約の太古の趣きは今なほ髣髴として認むるに難からざる次第である。即ち
濠洲==四国
アフリカ==九州
北アメリカ==北海道
南アメリカ==台湾
欧亜本土==本州
である。右の対照を地図の上において精査したならば、何人も思ひ半ばに過ぐるものがあるであらう。
神武天皇が腋上嗛間丘に登りまして国状を廻望し給ひ、
「妍哉乎。国之獲矣。雖内木綿之真迮國。猶如蜻蛉之臋呫焉」
と仰せられたのは、この大小秋津洲の環物状を為して、互ひに密接の関係のあるを示させ給うたのである。
要するに日本は地の中枢である。文芸、宗教、教育、その他あらゆるものの枢府である。寒帯に枕し熱帯に脚を延ばし、あらゆる気候、あらゆる土質風土の凝聚地である。即ち世界一切の小縮写である。否、世界万邦の中つ国として、万国統治の中府である。霊域である。
地球が天球の縮図であり、日本国が地球の縮図である以上、歴史が変遷して大小秋津洲が、今や相疎隔してゐるが、すべてのものは必ずその根本に立ち還るベきであるから、皇典古事記の光が世に出て、日本国内の整理が充分に行はれ、本来の面目に復帰した時には、必ずや世界の大統一が実現して、天国本来の寂光土がこの世に発現すべきは何ら疑ひなき事である。
大変分かりやすい出口王仁三郎のこの言は、そのまま『竹内文献』の「外八洲」「内八洲」のフラクタルな、そして相似象な世界観と重なる。
ちなみに、その世界観とは、まさしく「日本は世界の縮図である」というそれである。
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さて、何かと物議を醸すことが多い”奇書”がこの『竹内文書』である。
このような”偽書”の多くをはじめとして、戦前の日本に関わるエソテリックな文献・資料は、GHQらによって、ことごとく焚書の憂き目にあった。それでも懲りず、戦後もアッチ系の方々が、やれ皇国史観だの軍国主義だのという口実で、かまびすしく糾弾する対象になっている。
事実、大本教の弾圧などは、異常でさえあった。
竹内文献然り。
竹内巨麿の天津教弾圧事件などを調べれば、当時のアカデミーを挙げての不審な裁判の成り行きにも大いに疑問符が残る。
また、麻原彰晃がこの『竹内文献』にご執心だったことから、オウム真理教=カルト=犯罪集団=竹内と、印象操作として巧妙に結び付けられてしまった。
オウムが闇のスケープゴートでしかなかったことは、もう明らかになっている話だ。
大方の常識人は、このような”とんでも説”を笑う前に、国家権力(あるいは外国権力)が、それら我が国の国体や起源に触れる神聖なものに異常に神経を尖らせていたのはなぜか? を考えてみるべきだろう。
一つだけ、確実に言えることは、それらが、単なる偽書や人騒がせな教えといった類のものであれば、これほどまでに権力が熱くなるようなものではない、ということである。
そこに、黙認できない「虎の尾」があったからではないか?
そして、”とんでも”は実は権力の側にあった、などという結末もあり得なくはないのではないか?
余談だが、ロスチャイルドの関係者が四国の剣山を頻繁に訪れているのは、よく言われるように「失われたアーク」がそこに眠り、偽ユダヤ人たる自らの血統が暴露されるのを恐れてのことか?(笑)
ところで、神霊は岡本天明さんを通しても同様な見解を語っている。
まことの善は悪に似てゐるぞ、
まことの悪は善に似てゐるぞ、
よく見分けなならんぞ、
悪の大将は光り輝いてゐるのざぞ、
悪人はおとなしく見えるものぞ。
日本の国は世界の雛形であるぞ、
雛形でないところは真の神の国でないから、
よほど気つけて居りて呉れよ、
一時は敵となるのざから、
ちっとも気許せんことぞ、
神が特に気つけておくぞ。
今は日本の国となりて居りても、
神の元の国でないところもあるのざから、
雛型見てよく腹に入れておいて下されよ、
後悔間に合はんぞ。
その世界の雛形たる日本で、
屈辱的な外交や、教科書にあるような卑屈な歴史観などが、なぜ出来上がったのか?
店などで、係の人を呼ぶ際に、スミマセンから入る日本人が、なぜ出来上がったのか?
なぜ、戦前の日本人にあったような侍然とした気骨ある人士がいなくなったのか?
なぜ、他人の子供でさえも悪い時には叱るような愛のある大人がいなくなり、子供にさえも媚びへつらう大人ばかりになったのか?
なぜ、諸外国ではレストランでさえ普通に自国の国旗を揚げているのに、この国では祝日にさえ日の丸を掲げると白眼視されるのか?
後悔間に合はんぞ。
モノマネ天国なんだって
日本は「モノマネ文化の国」(だそう)である。
教科書的に言えば、どこをどうひっくり返してもそう明言している。
なにしろ、古代には日本には文字すらなかったということになっている。
「キャッキャ」とか「ウホウホ」で意思疎通していたんだそう。
米も、蕎麦も、うどんも、漢字も、(天平の)甍も、文化もみーんな外国由来なんだって。
世界最古の縄文土器を作った国なのに、外国のモノマネばかりだそう。
それが証拠に、日本固有の墳墓「前方後円墳」は、固有じゃなくってお隣の国から伝播したそうである(という事は、そんな捏造説に同意した日本の売国学者が少なからずいるという事だ。そういえば、あれほど政界内外を騒がせた「従軍慰安婦問題」は、おそらく買収されたとおぼしき同国の工作員のおばちゃん自ら、最近そのやらせを白状してたっけな)。
笑い事ではなく、そうあらねばならない権力の、それはもはや”悪あがき”である。でなければ”コント”である。
奈良の「天平文化」にせよ、平安時代に貴族の間にはやった「国風文化」にせよ、唐をはじめ外国文化と我が国の文化の融合の成せるものという風に認知されている。
「唐様」などは、我が国の伝統文化として位置づけられている(近い将来、ラーメンもそうなるのか?)。
明治時代以降の”文明開化の音がする”ような「欧米文化」においては語るまでもない。日本人はもろ手を挙げてそれを受け入れたからだ。
しかし、私は日本人は、それら文化をエキゾチシズムとして面白がりはするものの、心底からは受け入れていない風にとれる。
実際、私なども英国はじめイタリヤ、フランスなどのヨーロッパ風の文化は大好きだし、共産主義に毒されていないような中国の古い町並みなどにも心惹かれる。そしてまた、アメリカ西部の渓谷あたりでテントを張ってみるのも一興だとも思う。現地人からいただいたヤギだかシカだかバッファローだかわからないような肉をかがり火で焼いて、ペティナイフでそのまま口に運ぶといった映画のワンシーンを再現してもみたい(笑)。
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しかし、である。
では、そこに住んでみなさい、と言われれば、私は即座に「No!」と答える。映画と現実の落差がはなはだしいのは、想像に難くないからだ。
私はやはり、四季があり、人のやさしさが染入るような国、日本がいい。
ソファーにベッド、フローリングの床と、すっかり欧米文化をマネしながらも、「ただ寝転びたい」だけで使わない畳の間を設けてしまうような不合理精神の日本人が好きだ。
ラーメンからカレー、パスタ、ハンバーグと万博的な食生活をした挙句、お茶漬けとお新香を食し、「やっぱり日本人っていいなあ」とつぶやくような”おおらかな”精神性を持つ日本人を愛す。
それはともあれ、ではそもそもの日本文化とは何か?
となると、「武士道」「侍」「忍者」「歌舞伎」「茶道」「柔道」「和食」「和牛」「天ぷら」「寿司」「富士山」「芸者」といった紋切り型の、さながらそのまま土産物屋に陳列してもよさそうな固有名詞が並ぶにとどまる。
昨今では「漫画」「かわいい」「ピカチュウ」なども日本を代表しているのか?
間違っても「惟神」とか「言霊のさきはう国」とか「弥栄」とかは出てこない。
そう。
神国日本は、そうであるからこそ、完膚なきまでに闇に占領されたのだ。
そこに住む住人は、もはや骨の髄から「外の国」の勢力にズタボロにされた。その洗脳の度合いたるや世界一である。
もう末期だ。
手遅れだ。
助かる見込みはないだろう。
しかし、闇の連中はいくら殴っても蹴っても、ただ薄ら笑いを浮かべているこの国の人々に少々怖れを感じ始めた。
ジェノサイドそのものの東京大空襲に、
2発の原爆の投下に、
小型核を駆使した311・FUKUSHIMA原発事故に、
犯人がだれかも問わず、
それに報復するでもなく、
打たれても復活するその不可解な精神力に、
赦せざるを赦す無欲な庶民のパワーに、
彼らは自身経験のない不気味さを抱き始めた。
どんどんやるがいい。
どんどんその石でオセロの盤面を埋め尽くすがいい。
その終局にこそ、君らすべてを一人残らず一網打尽にする神の手があるのだから。
そして、その時、世界は転覆する。
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