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世界は救われず、自分だけが救われる
これは私の過程であり、通過点です。だからあなたはすでにこの問題を経て来たでしょうし、またはこれから経ていくことになるでしょう。
世界が他人事である者にとって、この問題は去来しません。なぜなら彼は何かどこかで自らのメリットになるものがないかを探しているからです。それはキャリア、地位、権威といった物質的なものに限らず、感覚的、感情的、知的、霊的、精神的な満足を探しているからです。刺激を求めてさまよっているからです。
彼は決して自分のこと、つまり外界以外を探しません。
そうではなく、内側のどこかに心のよすがを求めている方にとっては、実にそれを粉砕(溶解)することで見えてくるもの、というまったく逆説的な意味でその一切の方法論を否定します。そこに過去からの継続ではなく飛躍があります。
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自分だけが救われる。
長年連れ添った妻も、
可愛い子供達も、
気の置けない友らも、
見知らぬあの人も、
先だった大切な人も、
全員が蚊帳の外である。
自分しかいない。
あろうことか
愚かで
わがままで
気まぐれで
気の弱い
辛うじて生きているのが奇跡のような
このあわれな自分しか救われない。
他は救うことができない。
「救う」「救われない」とは宗教のようでやかましいですが、ここでいう「救われる」とは次のようなことです。
「救われる」──すなわち、この腐敗し切ってもはや二進も三進もいかなくなった世の中をそのままに、そこに入らない手を加えず、誰に迷惑をかけるのでもなく、たった一人だけ、なんの葛藤も、不安も、恐れもない夢のような世界に涼しい顔して遊ぶ、ということをです。
これのどこが不思議でしょうか?
山道を分け入り、疲れた身体のままふと脇道に目をやると、
真っ白いユリが群れを成して咲いているのを目にします。
その一帯だけが周囲の薄暗い藪のなかで、ボーっと白く浮かび上がるようです。
登山者はあまりのことで、息をのんでその姿を眺めることになります。
彼女らは誰のため何のためにその花をつけているのか?
彼が見なければ、おそらく誰の目にも止まらず、花は枯れ、茶色く変色し、しぼみ、朽ちていくのでしょう。
それは、利己主義とか利他主義とかいったどころではありません。
そんなちっぽけな思惑とははるかにかけ離れています。
「そんなの反則だ」
「自分だけうまい汁を吸いやがって」
といった妬み節や叫び声が届かない、それは何かまったく別な事態です。
だから山道のユリに向かって、そう叫びはしないのです。
それは、そんなさもしい、ケチなコソ泥根性とはわけが違います。
そうした事実があるかないか、
そうした事実はない、
そうした事実しかない、
という詮索をひとまず脇に置いて、それについて述べてみます。
その前に一つだけ言えることがあるとすれば、もし「自分しか救われない」ことが真実であったとき、そのことを全人類が事前に分かっていたとしたらどうでしょうか?
人類はこぞって真剣に、何をさておいても、命がけで”その道”を目指すのに違いありません。
では、その一歩をどうやって踏み出すのでしょうか?
何処に向けて踏み出すのでしょうか?
このどうしようもない世界をどうするか?
私たちには、共通の「思い込み」があります。
世の中がいくらひどいモノであっても、この末端の私たちではどうすることもできない、というのが一つ。
もう一つは、だれも見ていないからこれくらいはいいか、どうせ分かりはしないし大勢には影響ないだろう、というもの。
いずれも全体があって、その中の個がそっとつぶやく独り言です。
朝夕の日の出、日の入りに見せる空の、色彩の、その得も言われぬ微妙なコントラスト、バリエーション。
森林から立ちのぼるオゾンめく空気の匂い。
美しいという言葉も届かないような自然の圧倒的な、そして繊細な存在感。
それはやがて夜空の宝石、星々の輝きとともに、内省的な、静寂な世界へと移り変わる。
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しかし、そこに人間がかかわると、すべてを台無しにしてしまう。
人間が作り上げたであろう社会。
あえてその檻に閉じこもり、主張する。譲らない。言い争いをする。殴る。悪事をそれと知っていて隠れてする。善行をそれと知っていて表立ってする。カネを要求する。失敗をする。叱責する。悲観する。嘲笑する。拝む。踊る。殺す。たくらむ。偉ぶる。「おめでとうございます」とメールを送信する。干渉する。煽る。売り込む。誇大に見せる。次の戦略を練る。つけ入る。裏切る。見下す。疑心暗鬼になる。恨む。悟る。繰り返す。媚びる。
・・まあまあ、うんざりするほどの「お疲れ様」の数々。際限なく湧いて出てくる茶番。学芸会でなければ「小学1から3年生向け」の本並み。
あたりまえですか?
「どこか何かが少しおかしい」ですか?
私たちはいったい何をやっているのでしょうか?
何処に到達したいのでしょうか?
スターリンの「大粛清」1000万人。
東京大空襲10万人。
広島長崎50万人余。
ベトナム戦争越南だけで300万人~。
文化大革命2000万人。
ルワンダ内戦100日間で80万人余。
イラク戦争20万人。
・・・
この世はまんざら捨てたものではない、人生楽ありゃ苦あり、ですか?
眼前にひろげられてしまった事実を前に、あなたはそれをどうしますか?
さながら証拠品の数々を目の前にした犯人のようです。
戦争だけではなく、日常生活においても、それはなるほど茶番であり、腐敗であり、無惨な現実です。
それは事実です。
逃げることが現実という幻想をつくる
ほぼ99%以上の方々は、この段階で目を逸らします。
つまり逃げます。
私たちはそれをどーしてもそうしたくてしようがありません。
何か楽しいことへ、心ほぐれる何かへ、優しい言葉へ、みんなと同じようなファッション・趣味・考えへ、同じ足取りへ、ほっこりとさせるペットへ、「君は可愛い」の一言へ、飲酒へ、自らの仕事へ、研究へ、信仰へ、小説へ、神秘主義へ、哲学へ、数千年の伝統へ、ヨーガへ、悟りへ、スポーツへ、ゲームへ、レジャーへ、美しい詩へ、絵画へ、音楽へ、映画へ、(へだらけで、へのへのもへじがかけそうなくらいです)
で、現実は据え置かれます。
なぜならば、それらはすべて自分の中にあるからです。
自分の中にあるものを抱えて、どこにも逃げ場はありません。
それが政治評論家であっても、軍事評論家であっても、経済学者であっても、社会学者であっても、高僧であってもです。
かえってそこに論理を持ち出すことは、しらを切っているようなことになります。
怒らないで聞いてほしいのですが、世の中は、さながら犯罪者が犯罪を避難、弾劾、断罪しているようなものです。
(お分かりですか? TVなどで凶悪犯の顔が出ます。レポーター、司会者、犯罪心理学者など寄ってたかってその罪歴や異常心理などを叩き、見ているあなたは「ひどいものだ」という。「許せない」という。「速攻死刑だ」と激昂する。
それが戦争です。それを煽ったり焚きつけたりする関係者は同罪です)
戦禍にあえぐ少女が涙ながらに、自らの酷い現況を世界に訴えかける。
「相手国はなんと酷いことをするのだ」
それが世界戦争です。
時に彼女がアクターであったとしてもです。
過去に戦争の火種は何だったでしょうか?
言いがかりでしょうか?
報復でしょうか?
相手のバッグにわざと凶器をしのびこませるような「仕込み」でしょうか?
「戦争反対」の旗を振り、共感を食い物にするプロパガンダでしょうか?
だれも事実を見ません。
見ようとしません。
怖いからです。
醜いからです。
というのも、みな一様に何か理想のイメージが深く刷り込まれているからです。
それは、さらに「逃げる」という行為で引き継がれ、増大されます。
増大された分だけ、現実はさらに酷いものになってゆきます。
私たちはそれ(理想のイメージ)と照らして、比較して世界を見ています。
その理想像の中身が、あるいは「善」であったり「正義」であったり「美」であったり・・それはいずれにせよそのものではなくそのイメージです。
理想という空想(未来)があなたの至宝であり、
現実という幻影(過去)があなたの一切のゴミ捨て場です。
あなたは戦争をしたくないために戦争をします。
働かなくてもいいようにするために働きます。
カネを貯めるために爪に火を灯します。
眼前に横たわる事実。
実際それは怖くも醜くもありません。
驚くべきものでもありません(それに気づいたことが驚きでしょう)。
事実をよく見つめると、何もありません。
何の「色」もありません。
あなたの「色(思考)」を通してそれは現実になります。
あなたは、それをどうにかしようと思いますか?
どうにもならない。
それもそのはずで、それはあなたが、そして私がせっせと作ってきたもので、それをどうにかしようといっても無理なお話です。
虫が良すぎます。
それをどうにかしようとするところから、文字通りのどうしようもない世界が始まります。
それでは、それらの一切を反省しますか?
できません。
この私が保証します。
だいいち、反省とは自己欺瞞です。
私もかれこれ50年ほど反省してきました。
結果は全くもって無反省です。
懲りない奴です。
しまいに、まるでゴミ箱にゴミを投げ捨てるように反省をするようになります。
それは、日曜ごとの礼拝で罪を洗い清め、月曜から俗事に手を染めるようなものです。
大丈夫です。
反省などせずとも、向こうから痛い一撃がやってきますから。
それが「クスリ」であり、一番の「反省」です。
ですから「深い洞察と、反省に基づいた・・」などという書物は、それ自体くすぐったい嘘ですから、読む気になりません。
覚者は世界を救わない
私はもはや「アセンション」という言葉を使いたくありません。それを目的やゴールにすると「宗教・修行」になるからです。
そんなものは指標でもなんでもありません。
宗教が悪いのではありません。
それは自家撞着だからです。
なぜなら、そうすることでそれはアセンションには絶対に到達しないことを意味し、かえって二元性へ固着することになるからです。
それは「教え」にはなりがたいことを意味し、また「教え」では救われないことも意味しています。
さて、私が知るだけでも、「この方は(二元性を)超えていったんだなあ」と思わしめる人物が数名おられます。
いずれも世界的にその精神性で影響力を与え、今も与え続けている方々です。
彼らはもちろん宗教家ではありません。
となればたとえようもないのですが、ここではひとまず「覚者」という言葉を使わせてもらいます(おそらく彼らとしては不服で、そっとしておいてもらいたいでしょうが)。
その中で二人ほど想定します。
ここではその人物名を書くと先入観を与えかねませんし、無駄な詮議を招きますので、名前は伏せます。
あなたは、”仮に”そういう人物がいたとだけお思いください。
晩年。
ある方は「私の教えにみな一定期間は従うが、結局すべてことごとく離れていった。私はもう大衆のお相手はしない」
また別なある方は「結局、誰一人私の教えを理解するものはいなかった」
と述懐しました。
(私はもちろん彼から直接その言葉を聞いていませんので、その真意は知りません。また前後の文脈も詳しく知りません)
いや違います。
早計はいけません。
つまり、それはご想像のような悔恨・後悔の感情ではありません。
私ごときが言うのもなんですが、お二人とも、すでに若い時分に人間とはいかなるものかを熟知されておりましたから、自らの一生をぶち込んで来た仕事を、晩年になって無駄骨だったというようなことはありません。
それではその言葉の意味するところは何でしょうか?
その言葉でもってその方々を評価したりすることではなく、それは私たちに突き付けられたとてつもなく深い問いかけではないのか?
ということです。
2つの問題
問題はまだ他にもありました。
だいいちに、なぜそうした突出した人物が数名なのか?
という問題。もちろん私という狭い了見のなかでの数名ですから、実際にはもっとおられるにしても恐らくは世界中探しても10本の指に収まるのではないでしょうか?
80億の民みんながそうであれば問題ないですが、あまりにも少ない。
そういう意味で「突出」というあまり使いたくない言葉を使ったのです。
もう一つのさらに大きな問題。
彼らは、あるいは平和、自由、真の愛などを説いたとしましょう。
明確にその道を示したとしましょう。
それでは、現実社会はそれによってどう変化しましたか?
戦争は無くなりましたか?
むしろますますひどいものになっていませんか?
これは、先の問題とも関連します。
つまり、どこかでどなたかが真理を説いたとすれば、それに則り多くのものたちが覚醒するのではないか、すなわち少数ではなく大勢が、であるという一般的な見方です。
しかし私たちはみな一様に不安や恐怖を抱えたままです。
例えば2500年も前に釈迦がそれを説いたのであれば、なぜに今日、末法の世のありさまなのだろうか? 彼は末法を説いたのか? 法は廃るのか? 得度して高い地位に居られる高僧・阿闍梨らは、この狂ったとしか言えない現実をわき目に、それでも救われると説くのでしょうか? 文字通りの末法、終末だから理にかなっているとでも詭弁を弄するのでしょうか?
また、『ヨハネの黙示録』や、カルマを基盤にしたスピリチュアリズム、その他神道系の『預言』にあるようなカタストロフィを目前にした狂乱、ほら見たことか、と虎の威(神)を借りて人類を見下すのでしょうか?
「今に幕が上がる」を望見しつつ、この狂乱を正当化できるのでしょうか?
さあ、上の見方が私の偏見であれば私も勉強しなおさなければなりませんが、どうもそのように思えてならないのです。
あなたは、この問題をどうとらえますか?
どんな哲人がどのような真理を説こうが、(難解過ぎて、レベルが違い過ぎて)結局は人類、下々にはそれが響かない、届かないということなのでしょうか?
彼らは無為徒労、所詮は無駄なことをしただけなんでしょうか?
いや、彼らばかりではない。
彼らだけに限らず、精神世界を探求するようなものたちも全員がです。
彼らは、(宗教と同様)この現実世界にはまったく反映されることのない理想論を語ったにすぎず、また警告をしてきたにとどまるのでしょうか?
心のボタンの掛け違いをニ三指摘し、それを糺したのですか?
この否応なしの物質文明への反逆、つまりは単なる反動で、それが反動であることから、結果また元の木阿弥なのでしょうか?
大きな人物には論を俟たない
評論家というものがいます。
彼はいつも試されています。
その論評の対象者にです。
彼はいつも言い逃げをします。
群盲象を評す(ぐんもうぞうをひょうす)と言いますが、大きな人物を評すときに彼は自ら盲目です。
逆にその人物(象)によって跳ね飛ばされます。
「人類の覚醒者」「真理の探究者」「全人類の師(指導者)」・・・
これらの定型句は、生臭いカネのにおいがします。
それを言われて気持ちよくなるのは、その辺のグルであって、そんなちっぽけな評価ほど(当人は一向に動じないにせよ)、悲しいことはありません。
それは富士山を前にして、高尾山の魅力を語るようなものだからです。
そんな誉め言葉が、彼をいかに貶めていることか。
いや、彼らが別段そうであることに動じないにせよ、それはそもそも貶められているものの目線では、彼らをそのように評価してしまう危険性をはらみます。
私たちには「師」は要りません。
同様に「師」も私たちを必要としません。
私たちはみな同じ道を歩む友輩です。
私たちの卑小さは、愛の全的な欠如であり、二元性のるつぼの中での独り芝居です。
その卑小さを、「尊大さ」──すなわち権威や名誉やらの汚く重たい泥土で覆い隠すことは止めましょう。
無駄ですし、それは醜いことです。
むしろ卑小さは、さらに細かく、芥子粒よりも微細に、しまいに消し去ってしまうことでしょう。
覚者は世界を救わない、彼はひたすら自らを救ってきたし、現にそうなった。
──私は結構長い時間をかけてこの問題を考えました。
というよりも、考えるというのではなく、むしろ瞑想に近いもっと広い精神の領域を要する問題でした。
解答を探しているのではなく、そのことが全体的に何を指示しているのかをです。
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愛することが所有欲であるとき
執着、愛着という言葉があります。
モノでも人でも、信条でも、伝統でも、思想でも、主義や流儀でもです。
とりわけ自分自身へのそれです。
あなたは愛車を廃車にされた経験はありますか?
そのクルマが、業者によって搬送されてゆくのを見届けたことがおありですか?
そのクルマに手を煩わせたストーリーがあればなおさら、目頭がジーンとなる思いです。
いや、もっと小物でもそうです。 私は昔、地球儀のように球形でかわいらしい炊飯器を使っていたことがありました。
それは、炊き上がると「ピーポーポーポーポー(ドレミファソ)」と半音階ほど外れた音でそれを知らせてくれました。
それがいたいけで・・(笑)
ドレミファもまともに歌えないんですから・・(苦笑)
壊れました。
ゴミへ出しましたが、翌朝ゴミ収集置き場にその内蓋が一つ、ぽつねんと鎮座していました。
それだけは区分け上違う曜日になるらしいのです。
その内蓋が、炊飯器の活躍した日々を思い出させました。
あなたにもそうした経験はいくつもおありかと思います。
それは何かと似ていますね。
そう、愛する者との死別です。
あなたがまだお若いのであれば、そうしたご経験はあるいはないのかもしれませんが、このことはどなたにも訪れることです。
たかがモノです。
しかし、それは時に愛する者との訣別と変わりません。
そのモノは死にました。
もう戻っては来ません。
ここで、思い当たらなくてはならないことがあります。
あなたの幼少期からベッドの脇にいて、成人してからも手放せないそのテディベアやプーさんのぬいぐるみのように、その愛着は「愛」とは別物なのか、あるいは「愛」そのものなのか、という問いかけです。
もっと言えばです、
(苛烈なたとえですみません)
あなたの愛したあの人の亡骸を荼毘に付すのと、プーさんのぬいぐるみを燃え盛る焚火の炎に投げやるのとでは、どう違うのでしょうか?
あなたは何を愛したのか?
それでは、それらの人やモノが、全くの見ず知らずの他人のそれであったらどうでしょう?
あなたの思い入れ(記憶・思い出)がないそれらとも断腸の思いで訣別するでしょうか?
「愛は差別がない」
そんな言葉をどこかで耳にし、またあなたもそうお思いかもしれません。
しかし、他人のそれには自らのものに対してのような涙はありません。
つまり、さきほど流したその涙は「愛」とは別物です。
あなたは「愛」にはさまざまなものがあるとお思いかもしれません。
「愛」には様々な段階も形もケースもありません。また「対」になるものもありません。
「愛」は一元だからです。
「愛」かそれ以外かです。
あなたは、本当にその対象(愛するものやぬいぐるみ)を愛したのでしょうか?
それともあなたの愛したのはそれらとかかわった思い出や記憶でしょうか?
あなたはあなたを愛したのでしょうか?
あなたはあなたの過去を愛したのでしょうか?
言葉はよく騙します。
「愛した」というのは、「愛」とは無関係です。
それは愛着であり、哀惜であり、感傷であり、時に自己陶酔であり、
そしてそれは執着です。
「自分から離れてほしくない」という所有欲です。
そして、死んだのはその欲です。
だからその涙、その愛は、自己憐憫です。
”愛する人”も”テディベア”も”プーさん”も
実は死んでいません。
(これは理解が難しいです)
愛着・執着がこのネガティブ世界を創っている
これで、「愛」とそれ以外の峻別がはっきりとしました。
I love you.
は、実際には、
You are my favorite.(私の好みだ)
であり、次第に、
I need you.(君が必要だ)
I will never let you go.(私はあなたを断じて離さない)
I control you.(私はあなたを支配する)
とエスカレートしてゆきます。
しかし、プロポーズでやにわに「私はあなたを支配する、いいかな?」
とは言えませんし、実際彼は夢にもそんなことを思っていないのです(深層心理以外では)。
それにしても初っ端から「私の好みだ」と言われても、「だから何ですか?」の話で、それはエゴイズムの権化ですね。
しかし同じ心理で先ほどのテディベアにしてもクマのプーさんにしても出会ったのではないですか?
「まあ可愛い、私好みだわ」
とか。
ところで、支配する欲というものがあれば、言葉を何といっていいのか分かりませんが被支配欲(支配されたい欲)があります。
独占欲があれば、被独占欲(自分だけ独占されていたい欲)があります。
もちろん同じコインの裏表ですが、両者はそれで結ばれたとしましょう。
お分かりかと思いますが、そこに愛憎が生まれます。
欲には終わりが来るし、そこに裏切りが生じます。
嫉妬とか、恨みつらみ、復讐とか刃傷沙汰といったその辺に転がっている生臭いニュースのあれこれです。
これ以上深く入りませんが、「愛」がいかにして蹂躙されてきたのかはわかります。
「愛」はさまざまなところで語られてきました。
様々な論壇の俎上で
通俗ドラマで
映画で
小説で
ハーレクインロマンスで
街角の外灯の下で
それは売れっ子スターナンバーワンです。
稀代の押しアイドルです。
「愛とはすべてを赦すこと」
「無償の愛こそ愛だ」
そうした受け売りや、概念を置くだけでなく、
どうしてそれを真剣に捉えようとする者がいないのでしょうか?
また「愛」がなぜこのテーマ「自分だけが救われ、世界は救われない」ことと関連があるのでしょうか?
この時点で私はわかりません。
(私はいろいろ書物やら資料を見て「今回はこれをテーマにして行ってみよう!」ということはありません。余程でない限り他人の物を読まないので、自己流です。それは瞑想、あるいは居眠り? の延長のようなもので、自分でも何が出てくるか分かりません。流れに任せます)
愛の名のもとでエゴを映し出す
先に書いたのは「愛」ではなくて、それ以外のもの「執着」です。
もちろん両者は似て非なるものです。
執着が分かれば愛もわかります。
それでは執着とは何でしょうか?
それは「未練」ですか?
仏教ではそれを執着(しゅうじゃく)と言います。
「諸行無常」といったところで、それが空念仏のような昨今で、仏教哲学のような無量の教えはチンプンカンプンです。
偉大なものは、その偉大さゆえに私たちのような卑小な存在を救えません。
どんな笊でもってしても、私たちの卑小さは、その笊目を通って零れ落ちてしまいます。
「この世は刻一刻と千変万化している無常のものだから、そこにしがみついては奈落に落ちる」と言われても、執拗にこの世の物質にしがみつく。
「人や物といった形あるものはいつかは滅びるから、それに執着してはならない」と言われれば、そうですか、とばかりに次から次へとモノや人を新しいものに取り換え、涼しい顔をしている。
「欲得を追求すれば、それ自体終わりがあるものだから不幸になる」と言われたそばから、他人を押しのけても我先にと、それの追求に余念がない。
それでいて、「幸せになりたい」とは何をかいわんやです。
それは大海に一滴の薬を垂らすようなもので、代わりに毒薬を垂らしたところで何も変わらない。
カエルにションベン、糠に釘、二階から目薬、良くて鳩に豆鉄砲といった体でけろっとしたものです。
それが私たちです。
私たちには愛がありません。
少しはあるとか、芽生えているとかはありません。
全くもってありません。
なぜなら先ほども書きましたように、愛は一元だからです。
オールオアナッスィングです。
考えてもみてください。
私たちに愛があって、どうしてこの狂気の沙汰の世界ですか?
その狂気のたったひとかけらでさえ、もしあるのであれば、それは愛の完全な欠如です。
(何か間違ったことを言ってますでしょうか? )
「人類」(という概念)が、私の賤しく、醜い心のゴミ捨て場であったように、「愛」は私の都合の良い慰みものです。
「平和」は、戦争・災禍をそのままにした「平和」であり、「自由」は永遠の未来に到達するであろう憧憬の中の「自由」です。
私たちは、自分というエゴを超えた何か崇高なもの、神聖なもの、尊いもの、永遠不滅なものを獲得しようと、それをイメージしつつ、つまり逃避しつつ、さらに懇願しつつ、結果、そこに自ら忌避しているそのエゴそのものを投影してきました。
しかも、それを強烈に焼き付けます。
まるで怨念がこもったかのように・・。
それが、今日まで続き、ますますエスカレートするこの狂乱の世界です。
それを嘘だというのであれば、その辺の「愛」が、分かりやすくその事実を教えてくれるでしょう。
すなわち。愛が口争いや、いがみ合いや、疑念や、不信や、背信や、淫蕩や、狂気や、ヒステリーや、冷酷や、裁判や、殺人をする事実をです。
あれほど、互いの存在を確認しつつ、熱烈に、激しく燃え盛った愛がです。
永遠に続く愛と思ってきた何かをです。
これが前提です。
あなたはそれを前提に前へ進めますか?
人類、世界という幻影または投影
ここで私たちは先のテーマに戻りたいと思います。
「自分だけが救われる」です。
おまけに「世界は救われない」という前提のもとにです。
右を見ても左を見ても、会社に行っても家に帰っても、通勤電車の車内の液晶その他溢れかえる広告にしても、TVをつけても、SNSをチラ見しても、うるさいメールの受信にしても、PCのポップアップにしても、あまりにもモノモノモノばかりの不思議な世界に住む私たち。
その浸透力。
あなたがお気づきなのか否かは分かりませんが、そのモノというのは物理的な──例えばこのデスク、椅子、ライトといったものだけであればまだしも、発信者、身近なもの、投稿者、著者、隣人・・その発言、会話、内容がモノに占有され、モノに突き動かされ、そこからなにがしかが始まるのかと思いきや、結局モノで終わる。
言葉を置いただけで終わる。
置いただけの言葉に感動する。
危機感をつのらせる。
涙し、高らかに笑う。
しんみりする。
考えない。
なんという空虚な、寒々しい風景なのか。
古代ギリシャのアカデミアのような、中世インドの「議論」のような、自由闊達な談論風発といった世界とははるかに遠い、なんと地に落ちた知性なのだろうか?
ここで、私たちは「退化」という問題に出合わざるを得ません。
四六時中そうした中で息を吸っていると、自らの置かれた環境の危険性を見る目が麻痺し、しまいにはそれに馴染んでしまう。
「なんだかんだ言っても、この世は結局のところカネと力がモノ言う世界。心がどうしたとかの精神論は結構だが、それで天国へでも行けるって保証なんてありはしないではないか? 正直、それに何のメリットがあるのか知らん。そう言っている彼が別に御殿に住んでたり、いい暮らしをしているなんて話は聞かないし、そんな訳の分からないものにかかわるよりも、旨い酒を飲んだり、夜の街に繰り出して若い女の子と遊んでいたほうが、よっぽど生きているって実感があって楽しいな」
彼は表立ってでも心中でも「所詮・・」が口癖です。
![](https://assets.st-note.com/img/1729372368-3KFL2tXPg5kuwzTGVa6j89rR.jpg?width=1200)
君は一人でこの世に来て、
また一人でこの世を去る。
まさかだろうだが、本当だ。
大人になって君は
溜息交じりにこんな言葉をつぶやく。
「所詮、人生、死ぬ時は一人だ」
一人で死ぬことがどうして「所詮」なのか(なぜそうやって集約したがるのか)は知らないが、おそらく象であっても狼であっても猫であっても一人で死ぬ。
ところが、それが「所詮」ではないということに君は気づかない。
つまり、君は生まれてからこのかた、今も、そしてその生を終えるときもずっと一人っきりだ。
君以外にだれもいない。
世界とは君の描いたパノラマだし、
人類とは君のちっぽけな頭脳にかかった概念に過ぎない。
そうしたものは存在しない。
いずれも、偏向グラスをかけた君自身の投影であり、分裂である。
すべて独り芝居だ。
わたしはスピリチュアルを語っているのではない。
飛躍したことを言っているのでもない。
事実を言っている。
すべては君だ。
君は過去も未来もない。
時間を超えた君だ。
一人ということのとんでもなく深い意味を君は知らずに、
それから逃げる。
「世界は救われず自分しか救われない」事実は真理と同期している。
君があらゆる君の作った世界という幻影に光を当て、それを検証するとき──すなわち鏡を拭くように、その埃を払拭してゆくときに、初めてその文言が浮上する。
いかに世界が君の写し鏡、投影であるのかを。
始めから終わりまで一人しかいない
自由の世界に「救われる」も「救われない」もありません。
不自由の世界にそのどちらもあります。
あらためて記すまでもなく、「救われる」には、その前提に「救われない」または「浮かばれない」現実があります。
「世界が救われる」
というのは幻想です。
世界は救われません。
なぜなら世界はあなただからです。
あなたが「世界」という言葉に逃げず、あなたであるとき、
あなただけが救われます。
あなたは、救われなければならない何かです。
では、救われない何かとは何でしょうか?
世界はすでに息も絶え絶えで、狂気と混乱、腐敗に満ち満ちています。
それはあなたが持ち越してきたものです。
持ち越す行為は何でしょうか?
それは執着です。
何に執着しているのか?
それはあなたの理想、あなたの理念、あなたの希望、あなたの願望です。
教会に、また寺院に、聖典に、伝統に、教えに、神秘体験に、誰かの思い付き、誰かの妄想、誰かの精神世界にです。
それらを身に纏うとき、あなたは両肩に羽を持った鳥のように自由に世界を飛び回るような心地です。
しかし、それはすべてあなたを引き裂き、あなたから引き離します。
スピリチュアルと言いますと、何かしらに傾倒しているその方の専売特許のように思われますが、実はほぼ万人が知ってか知らずに根の深いスピリチュアリストです。
それは、あなたが意識的にせよ、不用意にせよ思い描いてきた「愛」というものの内容です。
あなたの愛は愛ではありません。
(それをあなたが自分の中に”持っている”と考えるのならばです)
それは自己愛です。
つまり執着です。
その愛は愛ではないものだからこそ持つことができます。
その愛は愛ではないものだからこそささやくことができます。
あなたは絶対にそれを放しません。
あなたにそれを手放す必要がないからです。
それどころか、あなたはそれをつかみ、愛撫し、埋没し、同一視し、一心同体になってきました。
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このようにして、あなたは「救われなければならない何か」です。
ただし、絶対に救われないものというのがあります。
それは何ものかに依存するものです。
そのものは救われることはないでしょう。
それによって救われているのですから。
自由の前で万人は平等です。
それはあなたにとって皮肉な構造をもって平等です。
全身のかゆみに耐えるよりは、小指の先の切り傷の痛みに耐えるほうが容易いものです。
享楽の最中で自己をみつけるよりも、困難の中でのそれの方がよほど簡単です。
もしあなたが貧困や病その他の困難に喘いでいるあなたであれば、あなたは自由に最も近い位置にいます。
もしあなたが何不自由ない環境で、さまざまな愉しみ、レジャーといったものを追求し、あるいは金儲けに没頭し、それらを「幸福」としているのであれば、それはとんでもなく不幸です。
すなわち、何かの行為にカネという代償を要求するようなギブアンドテイクを空気のように当然と考えるようなあなたであれば、あなたは自由から最も離れた対極にいます
もしこの世界が腐敗し、堕落し切った世界であるのなら、そこにいる人類は、前者を「敗者」とか「哀れな人間」とか言うでしょう。
後者を「勝者」とか「成功者」とか言い、それを彼らの理想として掲げるでしょう。
このようにして、その当人たちは、自分に気づきません。
「自分は日本人だ、ほかの民族と違い和の精神を持っている」
「自分は○○大学をでて○○商社の○○セクションを統括している」
「自分はフリーのライターで、特に芸能スキャンダルが得意分野です」
「自分は今にこの○○の分野で大成功し、世界中に名をはせたい」
これらの箇条書きが彼らの自分です。
これらは、ベルトコンベヤーで次から次へと際限なく押し出されてくるパッケージです。
このように彼は自分のこと以外には興味を持ちません。
または、自分のこと以外には興味を持たないようにさせられています。
(自分ではなく「自分のこと」です)
覚者は、人類を救うとか、覚醒させる、などと幼稚なことは一言も言っていないはずです。
彼らはいつもあなたにのみ語りかけているはずです。
なぜですか?
例えば人類80億としましょう。
そのうち、彼が亡くなりました。
人類は79億9,9999999人です。
どうも、大差ないようです。
では2人欠け3人、、戦争で100万人欠け、たった100人が残ったとします。
それらは、人類ではないのでしょうか?
しかし、あなたが欠けた時から人類、世界は存在しません。
人類、世界などというものは存在しません。
それはあなたが脇見をしたときに現れます。
「しかし、現にそこかしこに生身の人間がいるではないか? 人いきれがあるではないか?」
それは、どんなに集まろうが何兆人いようが(個々に)自分です。
あなたは、たった1人で80億の人類です。
80億の人類は、あなたが背負っています。
逃れることはできません。
人類(世界)が私をつくり、
私が人類をつくっている。
人類が私のイメージを規定して
私が人類のイメージを規定している。
人類は私の総称であり
私は人類の集約である。
よって私は人類である。
私が人類であるときに、人類はいない。
私しかいない。
私は、その昼下がりのファミレスで、ドリンクバーでお代わりしつつ三時間にわたり身辺のこと、誰それのこと、シフトのことなどを機関銃のように喋りまくる私であり、
駅構内からあわや追い出されそうになりながら、段ボールにくるまって寝そべる私であり、
赤坂の料亭で、きれいどころにお酌をされつつ「フホホホホ」と時代錯誤の笑いを浮かべる私であり、
朝寝坊して、うっかりエプロンの上にコートを着て出勤する私であり、
家族を失い、茫然と瓦礫を走り回る少年少女の私であり、
・・・それら私の過去の意識を、その不条理を抱きかかえる私であり、
そして、山奥でかぐわしい香りとともに人知れず咲いては散ってゆく一輪のユリの花です。
そして、それが私です。
それはそれだけのことです。
これが、私の過程であり、通過点です。
そしてそれは途切れることなくそうあるのです。
その私に、救われるも救われないもない。
そして、(何とはなしにお気づきであることを祈りますが)
言葉の綾でも詭弁でも概念でもなく、
私はあなたです。
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