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アセンデッドマスターと焼き鳥屋で

「学問」とか「哲学」とか「宗教」とかになると、人は身構える。
なにか、余所行きの服に着替えなければならないと思う。
「神」とか「仏」とかになると、さらに洗面所で手を洗う。

それは、そのような滑稽な行為に及ぶわれわれが悪いわけではない。
もちろん発明者や発見者や開祖がうんぬんではない。
悪いといえば、後世その学理や哲理や教説をネタに、なんだかんだ難解で複雑な、権威主義的で、ヒエラルキー的なものとして換骨奪胎した学者やアカデミーやパリサイ人が悪いのだ。

事実、イエスはそうしたパリサイ人たちとの食事の際、彼らは儀礼的に手を洗ったのに対し、自らはそうしなかった。

ニーチェは、

「そうした手合い(学者・評論家)にとやかく言われるよりも、まだ市井のおばちゃんにからかわれているほうがよっぽどましだ」

とどこかで書いていた。

いずれにせよ、それらを「神聖なもの」として、「天地無用」「フラジャイル」みたいに扱うこと自体が私に言わせれば大間違いだ。
実に虫唾が走る。

それを不敬というのなら言っても構わない。
しかし、それらが、もっと楽しくて、面白くて、親しみやすいものでない理由がどこにあるのだろうか?
なぜ、そうあっては”まずい”のか?


「神聖なこと」とタバコを吸うことと

なぜ「学問」「哲学」「神」やらが、神聖なのだろう?
ということは、我々が普段タバコを吸ったり、酒を飲んだり、(私は趣味ではないのでやらないが)賭け事をしたり、あくびをしたり、ジャージ姿で一日家にいて寝転んでいたり、どうでもいいことで夫婦喧嘩をしたり、その怒りのせいで間違って家具に頭をぶつけて弱り目に祟り目になったりするような日常は神聖ではないのか? 不浄で低劣なのか?
いや、そうでなかったとしても、その学問云々が「特別な行為」であるのなら、そのこと自体が、そういってるのに等しいではないか?

いや、私はなにも誤って頭を打つ行為を「神聖」と言っているのではない。
それは、おそらく神聖というより「神罰」なんだろうが、少なくとも学問云々よりか、はるかに「身近」ではないか?

その寺社が何の神仏をご本尊にしているかも知らないで、年に一回の「厄払い」や「初詣」に繰り出すような人々。
週に一度の「懺悔」で、みずからきれいさっぱりとなった気になり、またぞろつまらない悪事をしでかすような人々。

それらの人々にとってのそれは、「身近な神」ではなく、「身近なコンビニエンス」にすぎない。でなければ、おまじないだ。

そういうことである。



学問云々を便宜上「神」としよう。
ではなぜにわれわれは神をあがめるのか?

崇高なものと、そこにひれ伏す人
天上と地べた

なんで、寝転びながら学問したり、遊びながら哲学したり、笑顔で神と接することが「いけないこと」「不謹慎なこと」なのか?

そんな二元論的な神が神であろうはずもないではないか?

私はもし、みずからを神と名乗るのものがいれば、そいつは偽物とみている。
もちろんその正体は、いたずら好きな狐狸ツキの類か、低級霊か、大したものではない神仙か、人間嫌いの排他的な地底人(アガルタ)か、あのアヌンナキのように、あまり好ましくない異星人だ。

貝仙人

多少とも多くの知識・情報を知っているからと言って、地上の人々をさながら「猿」でもあるかのように見做し、そこに教えを垂れる。
そんな形跡がこの地上あちこちで見られる。
人類も人類で、そんなものにご奉公したり、ひどいのは人身御供まで捧げたりした。

なるほど、知性や霊力がいかほど優れていようが、4次元だか5次元だか9次元であったところで、その時点ですでにお里が知れるというものだ。第一、神なんて、そんな偶像的な姿ではいない。全部何らかのエンティティーだ。

まことに、鼻持ちならない連中ではないか?

この3次元をバカにするな!
救いがたき90%以上の人間を見殺しにするな!


と、言いたい。

そもそもみな神(Source)そのものではない連中だ。
そこはわれわれ人類と一緒。
残念ながら、こんなお馬鹿と一緒。
悔しかったらそんな高みの見物をしてないで、われわれと同じ砂場で遊んでごらん? と言いたい。



例えばアセンデッドマスターという舌を噛みそうな外来語で語られるいわゆる覚者、悟りを開いた人(注:人である)や、天使といわれる人類と違う形で進化した存在、プレアディアンやシリアンなどの先進的で友好的な異星人ら。彼らがエラそうな態度をとったり、交換条件で金品を要求するようなことはない。

イエスにせよ仏陀にせよ、自分は神だから私を崇めなさい、信じなさいなんて言っていない。

彼らほどの存在にしたって同じ人間だ。
人間ということは私やあなたと一緒。
さっきまで無性にかつ丼が食べたかったのが、TVかなんかでスパゲッティカルボナーラを見たら、はい、それに決定! みたいな。
ファミレスで、

他人の皿を見て、自分のオーダーを激しく後悔するみたいな。


それが「人間」である。

そんな

「人間」を崇めたり、信仰してはならない。

イエスが何を言ったか、仏陀がどういうダルマを説いたかが問題なのであって、イエスなどの「存在」は、月を示す指であって、そのものではない。また、彼らもそれを我々に期しているのだ。

月が無く、左の稚児の目線は布袋さんの指に・・・

となってくると、あとはどの連中と親しくするか? である。
みんなオンリーワンの存在で、少なからず個性や、感性や、メンタリティーは異なる。

わたしの場合は、旧約聖書に出てくるような「嫉妬深い神」や「怒りの神」、我が国古来の祀ろわぬ鬼門の神だった「艮の金神うしとらのこんじん」のような怖い神はご免こうむりたい(神格ではなく、個人的な気風の問題)。ついでに「山の神」も?

それでなくとも、相手が燦然と目にまぶしく、近寄りがたい「神々しい」存在であったら、その都度メンド―だし、もっと気さくに遊んでくれるような存在でなければ友としたくない(し、してくれないだろう)。

私は、

この3次元まで「降りてきて」遊んでくれるような連中


(わざとこの言葉を使っている)が好きだ。

事実、出口王仁三郎でぐちおにさぶろうはじめ、特に幼少時代に神仙と親しく遊んでもらったという人物は結構いる。
苦難の幼少時代を経て『仙境異聞せんきょういぶん』を著した平田篤胤ひらたあつたねなんかもそうかもしれないし、コナン・ドイルなどもフェアリーにとり付かれていた。ルイス・キャロルなどもそうだろう。

もっと身近でいえば、自身にそういう思い出がある方も多いだろうし、子供さんをお持ちの方は、よく何者かの存在と一緒になって遊んでいるように、独り言をつぶやいているわが子を目撃することがあるだろう。

向こう側(覚者など)にしてみても、そうして自分と親しく遊んでくれる子供のような純粋な人間が好きに決まっているではないか?

「えー、この度は、こんな粗末な拙宅にわざわざおいでくださいまして、まことに・・・」

は、私だったら、「シャラップ」だ。
となってみると、私など、もう「可愛いお爺さん」でいるしかない!


有名な久米仙人=洗濯している若い女性の太ももを見て神通力を失い、地上に堕ちる。まあ、なんとも修行の未熟な人間らしい仙人ではある。しかし、その後彼女と所帯を持ったところに好感。
出典:ウィキペディア

私は、神仙でも、覚者でも、高度な精神性に達した地底人でも異星人でもいい、同じように悩み、冗談を交わし、ウィットを解し、泣いてくれ、笑い、怒り、サービスで失敗までしてくれるほどの「愛」にあふれた存在を友としたい。

イエスが、猥雑な場にも出向いてまで周囲を感化したように、彼らの一人と焼き鳥屋にでもご一緒してもらい、この3次元世界の憂さ話でも聞いてもらいたい。彼らにしたって初耳の話ばかりで、きっと興味津々で聞いてくれるはずだからだ。

その際には、我が日本人の悪い癖である奴隷根性丸出しの「○○先生」とか「○○さま」とか「尊師」とかの敬称は要らない。相手は覚者だから、少々のことを言っても怒らない。じっと(我慢しながら、笑いをかみしめながら)聞いてくれることだろう。

アメリカのTVCMや映画みたいに

「どうしたM? そんなついさっき墓場から出てきたばっかりみたいな暗ーい顔しちゃって」

「そっちこそ、相変わらずのツルッパゲ、何とかしたらどうだい?」

みたいな掛け合いから始まって、
その場合、こんな会話も成り立つだろう。

「だいたいね、前から気になってたんだが、ぴったりしたウエットスーツみたいの着こんじゃってなんだいそれ? この地球じゃそんなの流行んないぜ?」

「だって、これは俺の一張羅だ。伸縮自在で破れなくて便利なんだ。銀河戦争では動き回んなくちゃならないから、これでいいの」

「ダッセーなあ、でも戦闘服なら、ま、いいか。ところで俺のマスターの爺さんはそっちでまだ元気か?」

「ああ、太上老君たいじょうろうくん(老子)か、爺さんは寝てばっかりいるけど君によろしくって言ってたっけ」



人は、

「神(人格神)」というと、白髭の深刻な顔や威厳に満ちた顔を想起する。


それには、以上のような背景があるからだ。


私は普段あまり、笑顔を見せない。人前ではなおさら。
自分が悟りを開いてもいないのに、まるで「仏陀のアルカイックスマイルか」みたいな、なんでも分かったかのような温厚な笑みをたたえることが出来ない。
それは偽善か増上慢ぞうじょうまんかのいずれかだからだ。

いや、万が一自らがアセンションしたからといっても、私は何か満たされないような、あるいは悩んでいる風な顔をしたい。なぜなら、それは悟りに至ってない人に対して失礼だからだ。



いよいよ、地上の人類は新しい時代に突入する。
その一つが、もうとんでもない数の宇宙種族との出会いだろう。同時にエーテル界やアストラル界などの存在たちとも、さらにツイン・ソウルとも出会うことにもなるだろう。

その場合、特に日本人の多くが洗脳されている「位階制度」「奴隷根性」というものから脱しなくては、相手方は困惑するばかりだ。

それは、逆の立場になってみるとよくわかる。
あなたが、仮にアセンデッドマスターの一人だとしてみよう。
あなたに向かって、盲目的に「ああ、ありがたい。どうぞ、ご尊顔をこちらにお向けください。ナンマイダー、南無妙法蓮華経!」と口々に唱える烏合の衆が押し寄せてとき、あなたは何と思うだろうか?

その時は、もう我々はあくまでフレンドリーに、堂々としていてよい。











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Monikodo
東洋哲学に触れて40余年。すべては同じという価値観で、関心の対象が多岐にわたるため「なんだかよくわからない」人。だから「どこにものアナグラムMonikodo」です。現在、いかなる団体にも所属しない「独立個人」の爺さんです。ユーモアとアイロニーは現実とあの世の虹の架け橋。よろしく。