【新春放談】エゴと偽善と魔女狩りと・・・どんどん虚像は崩れてゆく
それに「名前」をつけるな!
名前を付けるということ
子供の名前ほど、親のエゴというか、親ばかというか、悲しくなるほどのその精神の貧困さをさらすものもそう多くはない。
自分の子に「かくかくしかじかのような未来を」と託して「何のたれべえ」と命名する。
昨今では、親のあからさまなエゴを包み隠すような命名も多いが、それもやはり考えあぐねた結果、みたいなものだから昔とそう変わらない。
ジェンダーレス(男女どちらでも可)とか、相変わらずのTVドラマの影響とか・・・(やれやれ、ホントは涙出てますけど)。
いずれにせよ、名前は大概一生その人物の「代名詞」として付きまとう。
親の「思い入れ」という余計なお荷物を背負って人生の荒波に出る子供たちというものは、なんだかマスコット化しているようで哀れだ。
思い入れかぁ。
分かってます。
その手の方々はホントに”善い方”が多いものです。
(お庭にピーターラビットの焼き物やディズニーの”七人のこびと”な置物が置いてあるお宅には、特に優しくおおらかな性格の奥様が住まう)
自分の子は可愛いのだ。
それはそれでいい。
しかし、そのことは自分の子以外はそうでもないと言っているに等しい。
名前など付けるから駄目なんだ。
いや、わが子ではなく、よその子の名付け親になるといい。
名づけることは「特定」することなんだ。
外界とその対象物(わが子)を線引きする行為なんだ。
名づけたときからそれは特別な存在に
『北の国から』という昭和を代表する倉本聰さんの名作ドラマは、いくつもの忘れられない名シーンを残した。
その一つに、存在感のある俳優・大友柳太郎がボソッと吐くセリフがある。
「馬には名前を付けないんだ」と。
彼が演じるのは、北国を開拓してきた笠松杵次という一刻者の役。
笠松は、18年間も女房のように連れ立ってきた自らの愛馬を手放す。
その別れの朝、その馬が大粒の涙を浮かべていたと。
一升瓶を片手にそう語って、笠松は帰途、自らの命を絶つ。
名をつけたときから、「情」が移ってしまう。
だから、決して名前を付けない。
試みに、水槽のグッピーでも、
チューリップの一鉢にでも名前を付けてみてください。
その日から、おそらくあなたは、もうその存在が気がかりで仕方がなくなるでしょう。
昨今、ペットとの決別やその死についてがとかく問題になる。
「家族同様だ」
とかなんとか。
僕も犬や鳥を飼っていたからその気持ちは痛いほど分かる。
死なれて飯ものどを通らなかった記憶もある。
しかし、それは「名前を付けた事」から始まるのだ。
まして、わが子の名前・・。
もういっそのこと、「合格」とか「成功」とか「金満」とか「幸福」とか・・いやいやもっとストレートに「東大」でもいい。
そんな立派な名前を命名して見たら?
と、皮肉の一つや二つ口をついて出てくる。
なかでも悲しいのは、自らがそうできなかった人生をわが子に託す。
または、わが子にだけは(自分のような)みじめな経験をしてもらいたくないとの”親心”から、なんとなく”箔がありそうな”名前を選んだりする。
もう一山超えて、「辛酸なめこ」さんのような、あえて「獅子は我が子を千尋の谷に落とす」的な命名であれば気が利いているかもだ。
かく言うワタクシメも何十年も前に息子の命名に「斗」を使ったし、娘には漢字一文字のわりかし流行りのものを採用した口です💦
(しかも熊崎健翁の姓名学と首っ引きで💦)
今であれば、「太郎」「次郎」「花子」など、親の感情移入の無い命名にするんだが・・。
その方がよっぽど「出来た親」と言えるかもしれない。
善悪、正邪を超えた「人間の器」
さて、メディア界隈。
もう十年以上もTVをまともに見なくなって久しいが、YouTubeはよくみる。
そんな中で、「立派だな」と思う人に武田教授(武田 邦彦=工学博士)がいる。最近では「参政党」を追われて、除名処分まで食った方。
(いまや、「善」は魑魅魍魎の群がる傘である)
確か、齢80を超えて・・むしろご立派ではないか?
歯に衣着せぬ発言でファンが多く、またそのおかげでTV局からボイコットされたりもする。
彼の経歴が真に立派なのかどーかは調べていないので不明であるが、少なくともアカデミーへの忖度抜きに、自らの意見を述べるという点は立派な姿勢だと思う。しかも、学際的というか、自らの専門の域を超えてさまざまな発言ができる人士は、彼以外にそう多くはない。
こんな学者がもっといれば日本は確実に良くなっていただろう。
(いまや、上から下までサラリーマンですからね)
武田さんは、TVの露出も多く、お茶の間でも有名な方です。
当然ながら各方面からのバッシングも多いわけですが、彼は、この「自らは何もせず、ただ有名人をこき下ろすことがご馳走」的なものたちを浮かび上がらせる効果も担っているわけで、そうした中で一般の方々が、「陰謀論」(と濡れ衣?)を着せられた世界に首を突っ込むきっかけになる切り口を多く示した功績は大きいと思う。
また、人間というものは不思議なもので、正しいご意見ばかりを述べているからといって、その人物が「ホンモノ」かというと、(少なくとも僕の中では)そう簡単に問屋が卸さない。
その「正しいご意見」が、ほんとに自分のものであれば素晴らしいのだが、どーも付け焼き刃だったり、口先だけだったりするとき、その人物の化けの皮が剥がれてしまう。
むしろ、田舎の(学問のない)ご老人や子供たちの生活に根付いた物事の考え方・見方にドキッとさせられることのほうが多い。
また、「これはちょっとアレかな」と思わしめる発言があったりしても、「この人物には嘘がない、正しい」というケースもある。
人物の背景が正しいところに立っているとでもいうべきか・・。
たまにとりあげるのでご存じの方もおられるだろうし、相当に影響力がおありの方なので恐縮だが、例えばマドモアゼル愛さんなんかがそうだ。
最近はそうでもなくなったようだが、YouTubeでほぼ毎日のように時事ネタから、彼の専門の西洋占星術、とらわれない形の宗教観などを語っておられる。
ときに「聖書」の一節を暗誦されたり、「聖歌」を歌われたりする。
気が付けばよく観てしまっている一人だ。
彼は、長い間ニッポン放送で加藤諦三さんと「人生相談」をされておられるそうで、まあ「話術」には長けておられるはずだが、それにしても日々たくさんのテーマを前によくぞ語りえるものだと感心する(余談だが、加藤諦三さんといえば、その昔学研だか旺文社だかの進学雑誌でやはり「人生相談」をされていたっけなぁ、「生涯相談の人」なんだなぁ)。
さて、この愛先生、時折矛先がおやおや? ということもあるが、同時に神がかったようなご発言もあって面白いし、破顔一笑といいますか、笑顔がチャーミングな紳士である。
後出しジャンケンで鬼の首を取りにかかる奴ら
すでにやや旧聞ですが、酷いなあと思うのが、あれですね。
あとだしジャンケンで鬼の首を取りにかかる奴ら。
(この手の話に触れるだけで、ごっそりと周辺の毒をもらってきそうで)
あまりこんな話題に触れたくないのですが、例の松本人志報道ですね。
ジャニーズ事件の性加害問題で、事件が明るみになってどんどん発言することは浄化作用で結構だし、そうあるべきと僕も思う。
しかし、松本事件では、これまで彼の下で小さくなっていたものたちが、松本の事態が一気に弱体化した今になって、なぜに正義面してしゃしゃり出てくるのか?
同じことを言うのならば、松本本人が活躍していた最中に告発なりなんなりすればいいではないか?
(また一方で、陰に陽に関係があっても、いまだに”波風立てないで”静観している日和見主義者は、単にこの事件から遁走しようとしているだけに見える)
吉本興業がどーの、ではなくTV局を含む業界そのものが問題ではないか?
さらに、一連の報道で「文春」の利益が10億円にも跳ね上がるとか、その「額」の真偽は措いておくとしても、マスコミの報道は「正義」に立脚してるのか、はたまた「カネ」なのか?
トカゲのしっぽ切りで、何ものかを「悪」に仕立て上げて、
自分たちは正義のヒーローになろう
なんて姑息で汚らわしいやり口は通用せんよ!?
全部が悪い。
自らも同罪であると自覚するほどの精神が欲しいものだ。
同じ業界で飯を食っているならなおさらだ。
仮に松本人志を「悪」として、それを断罪すれば
あとはきれいさっぱり平穏無事だ?
馬鹿を言うな、
第二第三の松本が出てくるだけだ。
「助言」や「叱責」はいらない。
要るのは「反省」だ。
このやり口は戦争の仕掛け人のやり口だ。
もういい加減気づこうぜ!
(自民党の裏金疑惑などよりも、若い人たちにとって身近な「虚像崩し」の意味で、松本人志の担った役は意味深い)