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戦争と理想【光のさすところ】
戦争は最大の犯罪である。
それを云々する前に、私たちは再確認しなくてはならないでしょう。
誰一人戦争に賛同するものはいない事実を。
たとえその参謀者であっても、そのものの家族、愛する妻や息子、娘などを戦禍で失うことを恐れるだろうからです。
そうしてもう一つ確認しなくてはならないのは、戦争にはその原因(犯人)があるということです。
誰一人として賛同しないものを(たとえ不本意にせよ)戦争に導くようなとてつもない力がどこからやってくるのかです。
それが分かれば、もうそこに戦争という、この上なく愚かしく悲惨な、そして取り返しのつかない悲劇が繰り返されることはありません。
そうではないでしょうか?
この問題は、人類が過去数千年にわたり決して解決されたことがない命題です。
その答えこそが、現実に形となって現れては終息し、また現れては・・という戦争です。
そこには確かに有機的な、なにか巨大な化け物がうごめいているに違いありません。
そこにいかなる先哲の知恵も、学者の方法論も、宗教家の祈りも通用することはありませんでした。
そればかりか、まるでそれらを嘲笑うように、それらを血肉にするかのごとく、それはますます巨大化し、もはや全世界にいたるまでその根を深く伸ばしています。
なぜでしょうか?
戦争がある以上、それは私たちの責任です。
(多くは煮え湯を飲まされる思いでしょうが)私たちが真剣にそれに向かうとき、同時に私たち自身の中にその火種を発見しなくてはならない、ということではないでしょうか。
私たちはポテトチップスを片手にした傍観者ではなく、当事者だからです。
戦争の時代を生きるものです。
当事者でないものが、どうして戦争を理解して、またそれを語れるのでしょうか?
(これは”お茶飲み話”や”学説”ではないのです)
それを他人事として避けていては、そのときばかりは「私たち人類は一つです」という確認が、単なるきれいごと、言葉遊びになります。
というより、それは嘘であり、偽善だからです。
「ナショナリズムであれ、テロリズムであれ、原理主義であれ、民族主義であれ、どこかの”偏ったアタマのいかれたワルモノ”があちこちに紛争を巻き起こしている、これこそが憂うべき問題である」と、私たち平和主義者はそう思うのでしょうか?
その「私たち」は、一体どこの「私たち」なのでしょうか?
そこにいるのは世界の民族、人類と分離した、単なる仮想の平和主義者であり、それこそが一大偽善です。
誰しもが、やれ「敵国が」「軍部が」「軍国主義が」「全体主義が」と他人事の批判はするけれど、まさか自分にその非があるとは考えられないほどにエゴイストです。
わたしは、この当事者意識の欠如、責任転嫁、偽善こそが戦争がなくならない大きな原因だと思うのです。
多く戦争の目的は、経済戦と言われるようにカネ(資本)です。
それによる支配です。
またその引き金を引くのは簡単です。
言いがかりや、脅しや、宣伝による空気づくりなど。
うんざりするような狡猾なやり口と、また同じ騙され方の繰り返しです。
その話は別にして、いかにして戦争が作られてきたのか? という敵の手の内を知ることが大切です。
なぜならば、それを明らかにすることこそが、闇に光を当てることだからです。
闇はどこか外にあるのではなく内にあります。
私たちの中にあります。
敵は我が内にあります。
その一部始終を晒すことで、そこにもはや戦争という闇の存在する理由がありません。
名探偵は、大犯罪者にもなれます。
彼の暴く犯罪の、その狡猾さ、非道さ、冷酷さ、残酷さを彼自身知らないことには決してそれを明るみに出せません。
私たちの中の名探偵こそが(心理的に)大犯罪者にならなくては、そしてそれを観察しなくては、問題は解決しません。
戦争反対を叫ぶのは簡単です・・という言い方がどうかとも思いますが、少なくとも軽々に戦争に言及することは危険です。
過去に「戦争反対」こそが、戦争そのものに誘導される大きな動力になってきたからです(もちろん賛成を言っているのではありません)。
私たちの理想は「戦争のない、平和な、より良き社会」でしょう。
平時からそうなることを理念として私たちは生きています。
しかし、それは即座に「戦争反対」という導火線とつながっています。
(すなわち、ご存じのように「我々は戦争など断じてしたくはない。某国とは平和な外交を今後も続けていきたい」→「しかしながら、たびたびの警告にもかかわらず、某国はついに我が国の○○に侵攻し、市民が犠牲になるなど国民に脅威を与えている」→「これをもはや静観するわけにはいかない。まことに遺憾なことではあるが、ここは国民を守るためにもこれに応戦することを辞さないのである」といったお定まりの図式に私たちを飲み込みます)
「戦争のない、平和な、より良き社会」
一見魅惑的な、何かしら発展的にさえ見えるその理念は、いったいどのような社会ですか?
その中身は何ですか?
それはいつ具体化しますか?
何千、何万回念仏のようにそれを唱えますか?
では、今の社会はどうでしょうか?
「戦争の絶えない、不安と恐怖で一杯の、狂乱の社会」という理想と真逆のそれではありませんか?
それは、またしても、誰かのせいなのでしょうか?
誰かのせいで飯を食い、誰かのせいで打ちひしがれる奴隷根性でしょうか?
それともどこかの国の偉い人・権力者が悪を一掃してくれるのでしょうか?
宇宙からやってきた超人がことごとく人類に叡智を与え、一夜にして平和な世界が訪れる・・そのことを待望するのでしょうか?
この世がある日転覆し、カタストロフィの後にくる千年王国ですか?
少なくとも、数百年、いや数千年来、人間は同じ理念を抱えて生きてきました。
理想を掲げつつも、その理想のためにやむなく戦争をし、さらに深い悲しみ、苦しみを増大し、そこから逃げ出すために、さらにまた理想を掲げ・・と、凝りもせず、同じことを永遠に繰り返す。
感傷的で自己中心的な「理想」こそが、戦争の火種にせっせと薪をくべる内燃機関になってはいませんか?
その「理想」が手玉に取られて、結局は望みもしない戦争に巻き込まれる。
理想というとき今が抜けています。
私たちはいつの時代も「今」を素通りしてきました。
戦争も闇も過去から引き継いできたものです。
「今」には戦争も闇もありません。
世界ではなく社会ではなく民族ではなく隣人でもない。
私たちは自分のなかの戦争を終わらせなくてはならない。
そのように私は思うのです。
ややセンチメンタルな旧稿ですが・・
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