どーでもよいもの あるいは「ダンジイズム」についてをどーでもよく記す
少し息抜きのつもりでお読みください。
「無用の用」ではないですが、世の中にはそれがあっても別に困らないし大勢に影響しないが、なくてもまた一向にかまわないもの、といったものが存在しますね。
もちろん、「ところ変われば」ではないですが、例えば職人の道具や治具(じぐ)などの多くは、一般には無くてもいいものですが、彼らにとっては必携の”命の次に大事なもの”です。しかも、それらによって家や家具などが作られるわけですから、そうした類は立派に存在価値があるわけです。
また、絵画や音楽などの文化は、「衣食住」の観点からは、無くてもいいものに分類されそうですが、「人はパンのみにて生くるものにあらず」で、一般には生活に潤いを与える、ということでその存在価値は古来から尊重されていました。
それが、哲学や古典文学ともなると、面白いもので、多くの人たちはそれを実際に読んでみないものの、何かしら崇高なもの、貴重な遺産として、文字通り”棚上げ”してしまう。いかにも洋書を小脇に抱えて歩くように、それは飾り物としての価値が大半を占めているようにも見えます。
さて、生活に潤いを与えるものが是だとすれば、どうやらとりわけ意匠・デザイン分野のそれは、かなり嘆かわしいものがありはしないでしょうか?
快適さと機能性の追求が排除したもの
ここ数年の家具・インテリアなどの流行を見てみますと、俄然「北欧風」というのがキーワード。もう、猫も杓子も「北欧」。
日本の庶民の家具を代表するメーカーがニトリだとすれば、北欧家具の量販店の横綱はさしずめイケアと言ったところなんでしょうか。
どちらにせよ、ホンモノであるなしにかかわらず、そうした大手家具メーカーを筆頭に、北欧(風)家具が市場を席巻し、また消費者もそれを求めているようです。
北欧家具の特徴は、無駄(な装飾や構造)を排除して、簡素で、モダンなスタイリングにあることでしょうか。
ナチュラルな無垢材の色味や質感を重視して全体的に明るいトーンで構成されています。
北欧家具と和テイストの融合で「ジャパンディ(Japandi)」スタイルというのが国内外で脚光を浴びているようですが、日本の侘びさびと、スカンジナビアのミニマリズムは「無駄をそぎ落とした」という点ではなから共通項はあったようです。
そんなブームの中で、衰退気味だった日本の漆器や南部鉄器などの産業が海外で脚光を浴びているのはうれしい限りです。
私が初めてそれらしき風景に接したのは、今からかれこれ20年以上も前に栃木県にある那須高原ビールにお邪魔したときでした。
瀟洒なすっきりとした内外装は、木漏れ日が溢れ、地ビールとともにプレートの一品を一層引き立てていました。
当時はそうした空間は斬新で、いかにもムーミン一家が出てきてもおかしくないような「ザ・北欧」だったことが第一印象でした(実際のお店のコンセプトは存じ上げません。違っていたらごめんなさい)。
北欧家具もそうですが、昨今の建築も大きく窓を取るなどで、外光を取り入れ、明るく機能的な造りが”トレンデー”なようです。
マンションにしても、小さな部屋割りでちまちまと収斂するようなひと昔前のスタイルは嫌われ、どの住宅メーカーも広い開放的なリビングを謳ったものが主流になりました。
「無駄」に精神性がある
さて、先に私が「嘆かわしい」と書いたのは、無駄を極力排除するといったその趨勢についてです。
果たして、無用なもの、無駄、非効率的なもの、非生産的なものとは何でしょうか?
それは、だれにとってそうあるのでしょうか?
それを排除して、人々の生活は本当に快適になり、人々の心は潤ったのでしょうか?
いま、人々が追及しているのは明らかに快適さと機能性です。
快適な暮らし、快適な空間、快適な食卓、ソファや椅子の快適な座り心地、快適な眠りを約束するベッド・マットレス、快適な靴(←スニーカー)、快適なクルマ・・・そのために不要なものを排除するといった。
その排除したものに、何か大切なものがありゃしませんか? ということです。
そう、快適であることはだれでもそうありたいものです。
しかし、それだけではものたらんといった、つまり、もっと欲深いお話と言えば言えます。
排除したもの。
私はそれこそスピリットではないかと思うのです。
さらなる快適さを求めて機能性を追求する。
もちろん、そこにはそうした精神があり、それによってもたらされる機能美といったものもあるでしょう。
しかし快適さというものはあくまでも肉体的なもの(物質)に根っこを下ろしていますね。
しかも、人は肉体もそうですが、さらに精神的な満足を求めるものです。
往々にしてそれは、「無駄」と言われるものの中にあったりします。
ちょっと飛躍した喩えかも知れませんが、ひと昔前に過度な装飾をほどこした”デコトラ”なるものが流行りました。
それこそ何千万という経費を充ててイルミネーションで飾り立てたり、車体にド派手な絵を描いたりと、トラックのオーナーは自車を唯一無二のものにカスタマイズしたのです。
言うまでもありませんが、それは走行上無関係なうえ、また荷積みにも無くてもいいものです。
ただただ、それこそ彼の気概の奔出だったのだと思うのです。
そうした人間の精神性といいますか、生の面を度外視して、テクノロジーは一人歩きしているかのようです。
例えば、椅子にしても、人体工学に基づいて(エルゴノミクス)デザインされたり、クルマにしても各社様々な仕様・デザインを提供していますが、例えば空気抵抗(エアロ)を計算した結果こうなりました、みたいにそれらには無駄がないようです。下記のサイトなどを見ても「(すべて)意味のあるデザイン」と明記されているように、単なるお飾りは存在しません。
ちなみに、私は単に見てくれ重視で、そこそこ走ればいいというクルマ音痴ですが、そんな音痴の目から見ても、立派なコンセプトを各社追求した結果なのか、大概はモデルチェンジ後のクルマが平準化し、無難なデザインに改変され、がっかりさせられることが多いものです。
ということは、それもテクノロジーにのみに傾斜していることの弊害とは言えないでしょうか?
現代生活からはじき出されてしまった悠長さ・余裕
それに引き換え、思わず「やってんな~」と賛辞を送りたくなるのがこんなクルマです。
要らないでしょ?
無用でしょ?
馬鹿馬鹿しいでしょ?
もっと、しまえるでしょ?
結婚式のパレードですか? でしょ?
何といいましょうか。
伸びがいいですなぁ。
でも、ほっこりしますね。
少年が欲しいおもちゃを見ているような・・。
そこなんです。
それが省かれてしまった無駄を象徴しています。
ほかにも、家具に装飾を施したものや、建築の細部の意匠など、現代社会が捨ててきたものは数知れません。
そもそも曲線や流線型でなくてもいいわけです。
また、それにレリーフなどの装飾が無くても使用には問題ないわけです。
その分余計にスペースを取ったり、また製作者は特別な技巧を要されるわけですから。
でもそれは工芸や芸術の否定ですね。
ダダイズムです。
さらにまたそれは余裕の否定でもあります。
それを鼻持ちならないブルジョワジーの貴族趣味だとか、ゴテゴテした装飾がうるさい、という見方もあるでしょうし、事実それらの反動から20世紀初頭にドイツで勃興したバウハウス(運動)あたりから、こうした装飾は排除されつつ今日に至るわけです。
しかし、どうでしょうか。
ミニマリズム結構ですが、それを究めれば刑務所の独房がふさわしいなどというブラックジョークも出てきます。
また、すっきりした直線が魅力の北欧風大いに結構ですが、(そのせいではないですが)一方で急速に廃れてきてしまったのは曲線の持つぬくもりではないでしょうか?
現代生活で、曲線は不要になったと言わんばかりに。
ロココ調の、もっと近年ではアールヌーボー調の曲線(流線形)をふんだんに取り入れたスタイル。
日本の花鳥風月ではないですが、貝や草花など有機的なモチーフを採用するとなれば、ごく自然にそれは出来上がってゆくにちがいありません。
言うまでもなく、自然界の有機物は、そのほとんどが曲線から成り立っているのですから。
コカ・コーラのボトルですら、その曲線美の極致?たる女性のシルエットをなぞったモノなんですからね・・(もっとも、ボトル類に直線(角)がないのは割れにくくするためなんでしょうが)。
ともあれ、こうした手工業的な作品は、現代では贅沢品、美術品として生活から遊離したものになりました。
職人不足とコストがかかりすぎることなどで、写真のようなアンティークを見たり、購入したりするほかないわけですが、そうした雰囲気に安らぎを求めるような層も少なからずあります。
ダンジイズムとは是なんぞや
そんな中で、唐突にダンディズム、あるいはダンディという言葉を登場させるわけですが、ダンディズムと聞いて、あなたは、それから何を連想しますか?
昭和世代の方は、床屋の看板を思い描くかもしれないし、または、連想するのは、往年の二枚目俳優のスマートな立ち居振る舞いなのかもしれません。
一般にはその定義は「紳士的な、大人のお洒落」と言った風に解釈されています。
しかしそれは、今日ではきついコロンの香りが敬遠されるようにむしろ煙たがられることもしばしばです。
気障、嫌みといった側面もあるからです。
とりわけ若い人の間では、お洒落、あるいはそれを誇示することはむしろダサいとされる風潮すらあります。あえてダサさを強調したファッションがアリだとか・・。
そもそも「お洒落」とは何でしょうか?
なるほどそれは、身だしなみを整えたり、清潔なシャツを身につけたり、ジュエリーを付けたり、髭をたくわえたりといった所作かもしれません。
しかし、そうさせる精神には、二通りありそうです。
おおむね女性の場合の「お洒落」は美しくなりたいという願望ゆえですが、男性の場合──まあ、なかにはそういう向きの方もおられますが──それこそダンディズムというメンズオンリーの概念が登場するわけです。
結論から言いますと、「ダンディズム」とは、「気骨」とか「気風」、あるいは「こだわり」「流儀」とかいった精神論に近いような気がします。
例えば、旧制中学にあったような「蛮カラ(バンカラ)」気風といったものもそれに属しそうです(女性にバンカラはありませんからね)。
「デカンショ~(デカルト、カント、ショーペンハウエル)」などと唄った学生の、それは一種の超俗的な矜持でもあったのでしょうから。
また、例えば腕時計、ネクタイピンやカフリンクス、ワイシャツの襟先のカラーキーパーなど時に見えない小物類に「こだわる」などというのもダンディーですね。
もうかれこれ半世紀も前に、そうしたダンディズムを提唱していた男がいます。
何を隠そう、隠してどうのないですが、それが私です。
発端は、中学三年のころ。ませた友人とその手の美学について話し合っていたころに始まるようです。
「なんかダンディってポマードくさいよね?」
その後も、いろいろと話し合ううちに、その美学には、非常に排他的な、超俗的な要素がある、というより、そうなければその美学は成り立たないという結論に至ったのです。
それは、詮ずる所、ダンディズムを超えてむしろ、”ダンジイズム”という表現が似つかわしいのではないか? とか。
その語源は、当時の私たち仲間うちで、そのダンディズムの聖典ともいえるシャーロックホームズから来ています。
昔の翻訳本で、シャーロックホームズのことを「エルロックホルムズ」と記されたものがあるとかないとか(今となっては定かではない)。
その古風な表記が、妙にダンディズムとマッチングしており、敢えてじじむさい表現として「ダンジイズム(男爺ズム?)」が出来上がったというわけです。なるほど確かに、上記の流れで行けば、「昔の翻訳本」にそんな表記があってもおかしくないような気もします。
実はこの「昔の翻訳本」というところがミソで、ダンディズムには口語表現よりも文語体の方が似つかわしく、例えば翻訳家としても有名な森鷗外のその格調高いそれは、まさしくダンディ(ジイ)ズムと言えますね。
ダンジイズムの条件とは
さて、そのエゴイスティックかつ独断的、排他的な「ダンジイズム」の条件、もしくは特徴を思いつくまま以下に列挙してみます(文中、性的差別と勘違いされる個所もありますが、それは差別ではなく差異を意味します)。
婦女子が、その門を叩くことを禁ズ(抽象こそダンディズム=男性が抽象的、観念的な志向があるのに対して多く女性は具象的で現実的だから)
禁欲的且つ求道的(武士は食わねど高楊枝)
一切何かの役に立つものであってはならない(自分、または他人に何の益にも足しにもならない)
甘くない。辛い、苦い、渋い
モダンではなくトラディショナルである
好きなもののみを究める(そのためには一切の妥協は許されない)
好きなものを他人にやらない
俗事はどーでもいい(逆に言えば、世俗から見れば当人はどーでもいい存在である)
孤高である(群れない)
紳士的である(周囲には寛容である)
審美的である(論理ではなく、自らの美学でもって判断する)
狎れない(馴れ合いを排す)
ハレとケのように、オケージョンを明確にする
1の抽象的な存在というのは難解でしょうが、世人があまり関心を示さない例えば鉱物とか化石とか天文を研究するなどというのはダンディズムです。性においてはプラトニックに昇華する方向性があります。
シャーロックホームズ氏が犯罪を阻止したいという道義的な一念で動いていたら魅力は半減でしょう。
道義心は世俗的だからです。
彼はただ単に自らの推理で謎を解くことが生きがいであって、その世界に住んでいるのです。
つまり、むしろ抽象的な数学の世界に遊んでいるからダンディーなのです。
その意味でいえば、『天体嗜好症』の稲垣足穂さんなどはその最右翼でしょうね。彼が問題にしていたものは抽象化された美学であって、地上的な暑苦しい道徳などは無縁です。
また特記したいのは13です。
例えば喫煙の際にはスモーキングジャケットに着替えるといったようにオケージョンをきちんとする。
これはダンディですね。
ガウンを着てブランデーを、というのはガチすぎて何ですが、要は○○のためには○○するという線引きですね。
これが近年、急速に廃れてきました。
ホテルなどでの会食の席ではドレスコードは辛うじて保たれているようですが、それでも相当緩いものになってきています。
私の父は今考えてみますと多少お洒落だったのかも知れませんが、外出と言えばジャケットにネクタイを締めていたものです(昭和世代はそうした御仁は多かったのかもですね)。
翻って、今の世代の日常の味気ないことはこの上もありません。
ほぼメリハリを失ってしまいました。
余程のことでもなければ普段着か、それに毛の生えた程度の服装で出かけようとします。スニーカーで。
部屋着はなるべく楽な格好。
寝る段になってもパジャマに着替えたりせず、Tシャツとパンツといったように日中とあまり変わり映えしない格好。
着やすいモノばかり身につけるものだから、この夏ワードローブの大半は箪笥に眠り、5枚ほどの衣装をヘビーローテーションと言ったあんばい。
しかも、着やすい服と言ったら、くたくたになった古いものばかりときたもんだ!
これでは、ダンディズムもへったくれもあったものではないではないか?
(以上、すべて私のことです💦)
役に立たず益にもならないもの
「そんなことをやってて何の役に立つの? お金になるの?」
こうした言葉は、ダンディズムの対極にある観念です。
と同時に、皮肉にもそれが指しているものこそ、まさしくダンディズムであることを指摘しています。
別段ダンディズムを擁護する意味ではありませんが、こうした問いは多くの思い込み、先入観から来るものです。
第一、「(何かの)役に立つ、立たなければならない」という固定概念が、自らを縛っています。
野生の動物や鳥や昆虫たちは、「お役に立ちたい」と思って生きていますか?
花から花へ飛び回る蜂が、「受粉のお手伝いをしたい」と思ってますでしょうか?
役に立とうとしたり、貢献しようとしたり、良かれと思っての行動には軋轢が生じます。つまり、それがために誰かを裏切ってしまったり、苦しめてしまったりします。
なぜなら、考えているからです。
そこに思惑があるからです。
仮に「役に立つ人」というものがいたとします。
しかし彼は「よく使われる人」「重宝な奴」に過ぎず、独創性がありません。
無償と言いますか、無私と言いますか、無意識の行為にはそれがありません。
会社員などがジレンマに陥るのはそれです。
「会社のため、与えられたセクションのために全力を尽くした結果がこれか・・」
などと言った悲劇はどこでも繰り返されます。
有能な上司であれば、「あんたの思ったようにやって見なはれ。責任は全部わいが見るさかい」(松下幸之助口調)くらいの度量を示さなければ、発展は望めません。
冒頭で述べましたように、「それがあっても(彼がいても)別に困らないし大勢に影響しないが、なくても(いなくても)また一向にかまわないもの」そうした人物こそが、自由人です。
そして真のダンディこそ自由人と言えるのかもしれません。
他人の目を気にしたり、他人を気にかけたりする人はざらにいますが、他人の役に立っているわけでもないが何か自分で楽しんでいる、みたいな人物は居そうで居ません。
他人はどーでもいいのです。
(そもそも「他人」というものはありません。それは幻想ですからね)
ただ一つ、好きなことをやる。
おカネは無関係です(それが目的であればあなたを不幸にするばかりですから)。リラダン伯爵の名言「生活? そんなことは召使どもに任せておけ」くらいの気概で、好きなことに没頭する。
この行為こそが、自分にとって最も正直で、素直な生き方ではないでしょうか?
さて、どーでもよいことをくだくだと述べてきましたが、どうやら私はどーでもよいこととなると力が入り、饒舌になるようです。
長文失礼しました。
永遠は、このようにまた呟きます。
彼がいても一向にかまわないが、いなくてもまたよし。