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とらわれ
生
それがかつてどこにもなかったもの、
常に新鮮なもの、
前代未聞のものでなくて、
どうしてそれを「生」と言えるのでしょうか?
私たちの生きている「生」が、ただ過去の反復、ルーティンであったとき、またその思考の内容そのものが、既存の「枠」や「型」の中でのあれやこれやであったとき、
あらゆる既知のものであったとき、
それがどうして腐敗、退廃をもたらす以外の何かであるのですか?
それをどうして「生」と言えるのでしょうか?
私たちはその思うところのもの
私たちは、みな自らの考えを持っているように教え込まれてきました。
そうではなく、考えが私たちをつくっています。
私たちは「考え」です。
それは、あなたのものではなく、全人類のとりわけ深い悲哀や苦しみに満ちた意識がバックボーンになっています。
だからあなたは自己を特定できないし、考えることでますますその暗闇に埋没していきます。
考えることがどれほど素晴らしいことであっても、それは過去であり、残像への執着です。
それはとんでもなく旧いもので、受け売りであったり、すでに何度も焼き直しされたものです。
ましてそれが信念や大義として固着したとき、考え(あなた)はそこで死にます。
その澱みもまた人類の意識の中にある風景です。
かつてそこから何か新しいものが生まれてきたのか否か。
どなたかが言ったような永劫回帰がそこにありはしないか。
「陽の下に新しきものなし」なのか否か。
後にも先にも、どこにもなかったような地平線からでない限り、
人類の意識の暗闇に閃光を中て、そこからはるかに広大な平野へと、光あふれる世界へと爆発させることはありません。
もし、あなたが「自分」のなかに、そうした人類の意識のうずきを聞くのであれば、
深い悲しみの声を聞くのであれば、
あなたが、その突破口でなければなりません。
あなたが、人類のその意識の外縁部、あるいは触手にいるからです。
なんにも期待しない
子供に
夫に
自分の未来に
政治に
社会に
人類に
なんにも期待しない。
期待とは、その対象物へのエゴの投影に過ぎない。
それは自己の分裂だからだ。
それは対象物を狭い枠に閉じ込める。
では、何がその分裂をつくりだすのか?
それは「世界は良くなっていく」といった信仰である。
人は「世界の病巣」には耳をふさぎ、良くなる話に群がる。
それは、見通しがないからだ。
見通しがないから期待をする。
見通しがないから柳の樹に向かって拝む。
今を素通りして未来のみを見ようとする。
そして「未来はより良きものでなくてはならない」というむしろ強迫観念で、今を台無しにしてしまう。
とらわれ
ある問題を考えるときに
そのことばかりを考えます。
このようにして、ひとは問題そのものを見ることを忘れます。
それはとらわれです。
しかし、人は喫緊の課題や心配事があれば、そればかりを考えます。
それが事実であるがゆえに、
考えてもどうしようもないことであることを知りながら考えます。
ではどうしたらよいのでしょうか?
その問題をAとしたときに、BやCや、その絵図には様々なものが散らばっています。
Aが問題であれば、その問題はAではなく、むしろその絵図です。
その全体を眺めることは、考えることとは違います。
その時、問題を問題にしていません。
とらわれは、「問題があれば、それを解決しなければならない」という古い観念に対するそれであって、問題そのものに対するものではありません。
健康
知的心理的精神的には捨て去ること
生物学的生理学的には食べないこと
しかし、
無分別にどんどん取り入れて、必要以上に食べることも大変に良い。
なぜなら、そこに不健康な状態が早く訪れることから、そのものは早晩そのことに気づくからである。
厚遇
善悪
美醜
高低
正邪
好き嫌い
快不快
賢愚
・・・
人は前者を厚遇し、後者を排斥する。
前者を喜んで迎え入れ、彼に滋養のある食べ物、暖かいスープでもてなす。
だれが?
後者がである。
愛は当たり前の中にあり、もてはやすものではない
たとえばあなたがご家族のために「今夜の夕ご飯は何にしようか?」
と考える。
それが愛である。
しかし、あなたはそれがそんなたいそうな愛などとは考えない。
だから愛である。
満員のバスでご老人に席を譲る
それが愛である。
多くはそれを褒める。
しかし、実際は褒められたものではない。
なぜならそれは当然であり、だれに指示されたものでもないからだ。
だから私は席を譲りつつ、まるで疚しいことをしたかのようにその場を逃げる。あたりまえの行為に「お礼」とかは不要だからだ。
もしそれを褒めたり、喝采したりするような世の中であれば、
それは全き愛の欠如からである。
「お年寄りや妊産婦に席を譲りましょう」
とは、ロボットに向けて形骸化した愛を教えるようなものである。
そういう世界に私たちは生きている。
いわゆる愛
愛する者は盲目だが
愛されるものはいつも片目を開けている
幸福(しあわせ)の甘き香り
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![](https://assets.st-note.com/img/1730615636-SI5Yn8RshFvKerawGdBDEy0u.jpg?width=1200)
「幸福」の二文字を忘れているとき幸福である。
求めるとき不幸である。
最後に残る物
あれもダメ
これもダメ
すべてダメ
あれも違う
これも違う
すべて違う
で、最後に残るものは何か?
あるいは何も残らないのか?
自我のやることといったらいつも争議の火種以外にない。
それは事実である。
どんな悪さをする自我であっても、それを消滅させることは出来ない。
それも事実である。
投影
世界を変えようということは破壊的なことである。
世界は変えられない。
変えようとするとき、そこに大きな混乱・暴動がある。
なぜなら、世界とは自らの投影物に過ぎないからだ。
だから、変えようとするとき、そのスクリーンを紙にしたり石にしたり取り外したりする行為に他ならない。
それはただかき回す行為である。
何も変わらない。
映像は依然流れている。
あなた(私)がその映像を流している。
あなた(私)が変わらない限り、世界は変わらない。
あなたが世界であるのだから変わるわけがない。
それは自明のことである。
分かっていてやらない。
それが人間(過去の思念の蓄積)である。
だからその人間をどうするか?
賞罰
賞罰をつくったものが、高みに腰掛け、そこにうごめく人間模様を眺めている。
さらに、それだけでは飽き足らず、天国と地獄、地獄極楽という枷をつくった。
賞罰に慣れ親しんだものはあっさりとそれを受け入れた。
死
私たちの知っている死とは、いつもそれを観察している側のそれであり、一方通行である。
ゆえにそれは実在しないものである。
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