賭けと悔過【短編小説】
許せないほどのダニが湧いた。はじめは数も少なかったし、糸くずのそのまたくずかと思って気にもしていなかった。白い点の一つが海の満ち引きのような速度で移動していることに気づいたとき、咄嗟に人差し指ですりつぶした。黒くて安いメモパッドについていたそれは、絵の流れ星のような跡を残して消えていった。かけらの白さも残らなかった。指に死骸の潰れたのがついていると思うと、他の物に触れなくなった。
手を洗う。目に見えないものをそぎ落とすのに、手洗いはいいらしい。流水だけでもいいらしいが、ハンドソープも使った。石鹸ではない。ハンドソープの泡も白い。ぞっとして手早く泡を落とした。水が冷たい。パソコンを置くデスクの正面の窓、これに結露が尽き、カーテンや窓に面した本棚の裏の埃がダニの格好の住処になっているらしい。朝、結露をバスタオルで拭くと、冷たい。
結露を拭くのと換気するのを繰り返して、ダニを追い出そうとしたが、今日もダニがいる。メモパッドに付いている。メモパッドばかりに付く。特に上の部分のペンを嵌めるところにびっしりと付いている。夜空みたいだ。
メモに何を書いているか? ひねりつぶしているやつにそんなことを聞くな。パソコンやキーボードにはあまり付いていないから、どうにか正気を保てている。
白ダニは語る。心地よい住処をありがとうございます。餌も豊富。湿気も充分。メモパッドは暖かく、とても居心地がいいです。私たち、多少殺されようともなんとも思いません。あなた、かわいそうですから。
窓はあまりにも冷たく、結露はやむことなく生まれてくる。換気をすると体が冷える。体は暖かいほうがいい。指が動かなくなると困りはててしまう。毎日毎日ワープロソフトに文字を打ち続けるには、指はかじかんではならない。本を読むときにも指は大事だ。あかぎれになってしまうともう本なんて読めたもんじゃない。
白ダニは語る。心地よい住処をありがとうございます。餌も豊富。湿気も充分。メモパッドは暖かく、とても居心地がいいです。私たち、多少殺されようともなんとも思いません。君、かわいそうだね。
今日もメモパッドに沸くダニを殺害する。殺戮する。虐殺する。言葉を飾り立て、派手にして、人の気を引こうなんていい度胸だ。でもそういう芸風はもういいよ。そういう作家が何人いると思っているんだ。何番煎じなんだ。一見ショッキングな言葉で人をそばだてて慌てさせて、人のこめかみがわずかに動いてしまうのが見たいのかい。お前の言葉だから説得力がないんだよ。なんにもない、なんでもないんだから。
白ダニは語る。心地よい住処をありがとうございます。餌も豊富。湿気も充分。メモパッドは暖かく、とても居心地がいいです。私たち、多少殺されようともなんとも思いません。私たちはたくさんいるし、滅びませんから。あなたが湿気と埃を提供してくれる限り、私たちはあなたのメモパッドの上で動き続けますから。
不思議とダニは潰すと消える。この部屋はLEDの電灯で明るいくせに、ストーブで暖かいくせに。ダニの体を構成する物質はどこに行くのだろうか。メモパッドに染みつくのか、指紋の隙間に入り込むのか、流水で流れていくのか。指は冷やしてはいけない。
賭けの話をしなければならない。春になって、ダニは消えた。メモパッドにはテーマやプロットや主人公の性格などが書かれていたが、白ダニを潰したときにメモを消すボタンを押してしまった。受賞者が発表され、賭けには負けた。
受賞者を勝利者だとすると、これまでに三十七人に負けた。三十七回負けている。三十までに作家になれなければ死ぬつもりだったという作家の真似をして、ならば二十五と決めて取りかかった。この負けが最後の負けになる。
もうダニを殺す生活は終わりになる。多くの勝利者のいう言葉は信じられない。どれだけ不幸ぶろうが、識者ぶろうが、勝利したものに違いはないのだから。だから賭けに勝つことができなくてほっとしている。賭けに勝ってしまうということは、もう書けなくなるということだからだ。
白ダニは語る。心地よい住処をありがとうございます。餌も豊富。湿気も充分。メモパッドは暖かく、とても居心地がいいです。私たち、多少殺されようともなんとも思いません。あなたも私たちと同じなのではないですか? どうか被害者だと思わないでくださいね。