『鬼龍院花子の生涯』 ~失敗をドヤって
※ネタバレあり
「鬼」と「花」を継ぐもの
映画『鬼龍院花子の生涯』(1982)をみました。
夏目雅子「なめたらいかんぜよ!」で有名ですね。
「鬼龍院花子」。ごっつい鬼さん、龍さんが、平凡な花をたずさえて印象的です。だからみんな、思うみたい。
「花子が主役じゃないんだ」
「花子が夏目雅子じゃないんだ」
もちろんわたしも思いました(笑)
夏目雅子は、侠客・鬼政(仲代達矢)の養女だったんだ。松恵さん。
学校の先生になりますけど、義父の暴行、伝染病にかかった義母の看病、赤狩り、流産、夫の死と不幸つづき。髪はほつれ、眉をひそめます。
マルキ・ド・サド『美徳の不幸』のように、不幸こそ、清純、聡明を引き立てますね(この例だと、色気やマゾヒズムもかきたてちゃいますけど)。
ところが、どん底で、喪服に身をつつみ
「退きや…。アテは…高知九反田の侠客…鬼龍院政五郎…鬼政の娘じゃき。
なめたら…なめたらいかんぜよ!」
しびれる‥!!
鬼政の娘だから、さんざん翻弄され、苦闘してきました。
けど、だからこそ。運命を呑みこむ。
「鬼」と「花」をわがものとしました。
鬼政の実子、花子と対照的ですね。
運命を呑みこんだ松恵と、運命にスポイルされた妹・花子。
このあと鬼政は、松恵に「筋は通したかよ」ってたずねます。
松恵は無言で、取り戻したお骨の箱を振ってみせる。ドヤ顔(笑)。
誇り、覚悟、うれしさ、悲しさ、切なさがにじんでる。
それを認めた鬼政がほんとうれしそう。
鬼政一家は壊滅し、彼もまた死にゆくところなのですが、鬼政の魂は継承されてる、死なないってわかったんですね。
血は立ったまま眠っている
松恵が養女、花子が実子なのもおもしろいですね。
松恵の初潮、鬼政の乱暴など、性は強調されるけど、血はつながってゆきません。鬼政と正妻、妾たちに子どもはできず、松恵や花子は流産します。外から血を迎えようとしても、松恵の弟は逃げ出し、松恵の夫や、花子の婚約者は殺される。たったひとつの例外が、鬼政の実子・花子。けれども花子は、血に呪われたような人生を送ることになります。
ところで、こんな論文を読みました。
戦後の日本映画では「父がいなくなってる」っていわれてる
けど、「家父長制に向かいたい」ってのはなくなってないよね
~「イメージ&ジェンダー vol.9」所収「〈神話〉からの脱却――戦後日本映画に「父=治者」への意志を追う一一」より意訳
ほとんどの映画がアウトみたい。
ところが『鬼龍院花子の生涯』では、一家が崩壊し、実子は死ぬ。養子で、女性の松恵が、魂だけ継いでゆく。松恵は、花子の子守りもしてて、ある種の代母でもあります。これって、ちょっとすごい。
子どもがいなくても、家や地元がこわれても、魂はつづく。
それに、じぶんがよそものでも、「家」や「地元」を継承できるのかも。
わたしのような結婚できないよそものにもやさしい映画ですね^^
『秋刀魚の味』の娘たち
「鬼政の娘じゃき。なめたら…なめたらいかんぜよ!」
だったら「鬼政の娘じゃき」って、鬼政の娘であるだけじゃあないのかも。
「鬼政一家」の娘である。義母の娘である。花子の姉であり、代母である。子分どものお嬢さんである。‥それがアテや。なめんな!
義母・歌(岩下志麻)の娘であるということ。
序盤、歌は鬼政に、般若の襦袢を着せています。
鬼政「松恵、これからはお前がワシの身の回りの世話をするがや」
松恵は、お骨を振ってみせたあと、鬼政に般若の襦袢を着せます。
そもそもあのタンカも、歌が鬼政の愛人に言い放った「なめたらいかんぜよ、アテェは鬼政の女房やき」を引き継いでいるんです。
そういえば岩下志麻は、小津安二郎の遺作『秋刀魚の味』(1962)の娘役でもありました。
時代も場所もぜんぜんちがうけど、「親娘の物語」もまた継承されているんでした。
俳優を、監督を、東映を、なめたらいかんぜよ
過去と運命を呑みこみ、なめたらいかんぜよ、とタンカをきっているのは、俳優、監督、映画会社そのものでもあります。
「お嬢さん芸」と揶揄されてた夏目雅子。
当たり役のニヒルではなく、粗野で直情的な役を演じた仲代達矢。
松竹のお嬢さんから、はじめて東映の「極道の妻」になった岩下志麻。
歌手としてくすぶってた夏木マリ。
公私ともにどん底で、飲み屋のマスターになろうとしてた五社英雄監督。
東映ヤクザ映画から、大作路線に転換しようとした東映。
わたしが、おれが、「鬼政の娘」じゃ。なめたら、いかんぜよ!
仲代達矢の顔芸ときたら!(笑)
「ストをおさめろ。ただしけが人は出すな」とか、「娘さんをください」っていわれると、ぽかんとしちゃう。子分と顔を見合わせたりして。不意打ちに弱いぞ鬼政(笑)
ほんとに困った親父なんだけど、チャーミングなんですよね。
岩下志麻は、くわえタバコでねめつけます。壮絶な愛と嫉妬を秘めて粋。
仲代達矢「おまん十四で芸者ん出た言いやったろやい」
岩下志麻「そらまあねえ」
さらっという‥。強さともろさ、不幸と幸せ、諦めと覚悟をつめて流してたまんない。
夏木マリは、舞台狭しと跳ねまわる。
子ども時代の松恵(仙道敦子)も、名優にひけをとりません。
花子(高杉かほり)は薄いようで、妙な存在感が。
ロラン・バルトの「空虚な中心」ってやつかもね。『桐島、部活やめるってよ』の桐島のような。ちがうか。
「失敗すんな」じゃあなく、スタッフさえ「失敗から立ち上がる」映画なんです。心強いぞ。
実録ヤクザ映画~任侠映画~古典劇
この映画は、実録ヤクザ映画直系の「娘」です。
他方、「ベタなキャラがどろどろドラマをくりひろげる」ってとこは、もひとつ前の任侠映画の「孫娘」に思えます。一枚一枚、でででんと、ケレン味たっぷりな絵をつくるところも。セットもドラマも、アンティークのようにクラシカルな風格があって、美しい。
ただ、花子や、鬼政の妾の状況が、どうなってんだかよくわかんなかったりもする(笑)
ノリにノッて撮った。異様な熱気だった。撮りすぎた
すごい絵のシークエンスだけ残したら、すごいけどイミフになった
~「町山智浩の映画塾! #183」より意訳(※1)
ただ、飛び飛びで、筋が通ってないからこそ、理不尽な運命の暴力にふりまわされてる感じが出てる、ともいえるかも。それって古典劇やん。「みえないとこでなんかおそろしいことが起きてる」っていう、歴史や社会のスケールの感じもあるやん。
だからこそ、鬼政の魂を継いで立ち向かう、松恵たち小さな人間が尊いです。映画のスタッフたちも。社会に抵抗するとき、わたしたちも、きっと。
生死を照らす
高知の観光ガイドにもなってますね。
闘犬、よさこい節、大盛りの刺身は皿鉢(さらち)、親指ゲームみたいなお座敷遊び・箸拳(はしけん)、あとお遍路さん。鬼政は、空海をたのんで南無大師遍照金剛って唱えてました。
わたしも2015年、遍路を歩いたよ。四国は懐が深かった~
そうそう。松恵の夫は、赤岡のお祭りで殺されます(※2)。
赤岡は、血みどろが売りの、絵金っていう浮世絵師で有名。
「絵金蔵」では、夜祭りのろうそくでみるように、展示してくれてます。真っ赤でビビッドだった~。
赤岡は、赤瀬川原平たちが、路上にトマソンを求め『犬も歩けば赤岡町』って本に記したとこでもありますよ。トマソンっていうのは、非実用的すぎて超芸術にみえてくるナニコレです。本を片手に散歩したら、追体験できちゃう。
おっと、脱線しました。
そういえば『鬼龍院花子の生涯』も、ナニコレに驚かされる感じがあるし、絵金祭りのように、ろうそくで、おどろおどろしい暴力や生死を窃視してる感じもありますね。
最初の最初、松恵は、部屋のランプを掃除するよう申しつけられてます。歌の死ぬときも、鬼政が花子に「婚約者が死んだ」って伝えたときも、電球がゆれていました。鬼政は、布団に誘う秋尾(夏木マリ)や、子供のできた妾の裸体に、灯りを当てます。
終盤、鬼政一家が、命をかけて殴り込み、橋にかかると、ずらっと並んだ電飾がいっせいに灯りました。爆破されて落ち、車は燃え、炎が尽きてゆく。かれらは彼岸にとどかない。
灯りって、暗闇に道を照らすものです。けれど『鬼龍院花子の生涯』では、鬼政一家の興亡をふちどる事件に、だまってスポットをあてているかのようです。
かえって、その背後に横たわる、人間や社会、歴史の茫漠たる闇を思います。
ラストは一転、陽光の青空。夏目雅子が歩いてゆく。
昭和15年(1940年)。
わたしたちは、さらなる闇がはじまることを知っています。
けれど、彼女なら。
鬼政一家の魂もまた続いているから。たぶん、現代にとどくほど。
※1 この意訳は、不正確かもしれません。もう一度みて、確認したかったのですけど、なぜか削除されていました。ツイッターで理由をたずねてみたけれど、3年前のツイに一般人が質問しても、そりゃ返事しないよね(笑)
※2 今の「赤岡の絵金祭り」は、1977年にはじまっていますので、それとはちがうお祭りです。劇中の絵も、絵金っぽくない。絵金蔵に電話してみたら、親切にいろいろ教えていただきました。「高知市朝倉など、ほかにも似たお祭りがある。それがソースかもしれない」「別の可能性も」「演出もあるでしょう」とのことでした。ありがとうございました。
また訪ねたいなあ。