労働Gメンは突然に season2:第1話「労働大学校・前期研修」〈中編〉
登場人物
*ひとつの話は前編・中編・後編で構成されています。
本編:第1話「労働大学校・前期研修」〈中編〉
§1
時野がスマートフォンで調べ物をしていると、LINEのメッセージを受信するアイコンが表示された。
LINEのトーク画面を開くと、新着メッセージが表示された。
乃愛からだ。
『伍堂くん、大丈夫そう?』
(大丈夫、今は落ちついたみたいでよく寝てる、っと……)
時野は乃愛に返信すると、傍らのベッドで眠る伍堂の顔を見た。
ここは、宿泊棟の伍堂の居室だ。
時野と伍堂は、労働大学校に戻ってきていた。
時野と山口准教授で伍堂を抱えながらタクシーに乗せて、連れ帰ってきたのだ。
(なんとか発作が治まって、本当によかったけど……)
上空に向かってアームが伸びきった高所作業車の作業台の上で、伍堂はパニックを起こした。
過呼吸になっているらしい伍堂は目を見開いて苦しみ、もはや時野がそばにいることも忘れてしまっている様子だった。
時野は伍堂の頬を両手で挟むと、自分の方に向けさせてしっかりと目を合わせた。
『伍堂。僕の声に合わせて呼吸して。吸って、吐いて、吐いて。吸って、吐いて、吐いて……』
目が合った伍堂は、時野がいることを思い出したようで、時野の声に合わせて素直に呼吸を繰り返した。
時野は作業台の柵の間から腕を水平に外に突き出すと、手のひらを下にして下方に振った。
地上の人たちもさすがに異変に気付き、すぐに作業台は下降し始めた。
『伍堂くん?!』
正しい呼吸は取り戻したものの、地上に下りても伍堂の顔面は真っ青で、作業台から降りると、ぐったりと座り込んでしまった。
普段の快活な伍堂を見ている同期たちは、伍堂の変わり果てた姿に言葉を失っていた。
(元々高所恐怖症だったとは言え、ここまでのパニックになった理由は、2つ……)
一つ目。予定では5メートルほどしか作業台を上昇させないことになっていたのに、最大高さの10メートル弱まで上昇させたこと。
これについては伍堂を連れ帰るタクシーの中で、山口准教授が伍堂に必死に謝っていた。
ココベルの担当者にうまく伝達できていなかったようで、高所作業車の運転者はその対応を取るべきは次の班のペアだと誤解していたのだという。
二つ目。フルハーネスの安全帯のストラップが切られていたこと。
伍堂が着用していたフルハーネスから伸びたストラップは、途中で切断されていた。
時野が確かめると、それは経年劣化などではなく、刃物で切断されたものだった。
(伍堂が装着した時、フルハーネスとフックは問題なくストラップでつながっていたはずだ。それなのに、上昇してから突然切れた……?)
命綱が機能していないことを目の当たりにして、伍堂はパニックで正気を失った。
(ストラップの切断は、明らかに人為的なものだ。でも、どうやって? そうだ、確か……)
時野はポケットに手を入れると、細長いそれの感触を確かめた。
声を出して一緒に伍堂の呼吸を整えていた時、伍堂の足元でキラリと何かが光るのが見えたのだ。
地上に下りる直前に時野はそれを拾い上げ、とっさにポケットに入れた。
(そうか、このやり方なら……突然ストラップが切断されたように見えるかもしれない……)
時野が考え込んでいると、布が擦れる音がした。
「時野……」
伍堂が目を覚まし、時野を見ている。1時間程眠っていただろうか。少し顔色もよくなったようだ。
「付き添っていてくれたのか」
「うん。気分はどう?」
「ああ。すっかり落ち着いた」
伍堂が起き上がったので、時野は背中を支えた。
「悪かったな、時野」
「……あんなにガチの高所恐怖症なら、申し出て断ればよかったのに」
「うん、まあ、こうなってみれば、そうすりゃよかったよな」
伍堂は弱弱しい笑顔を見せた。
「けどさ、先生も言ってたじゃん。監督官は、仕事で高いところに行かないといけない時があるって……。だから俺としても、これから監督官として職業人生を歩んでいくなら、少しは場数を踏んで慣れておく必要があると思ったんだ」
伍堂は手元に視線を落とした。
「それに、言い訳じゃないけどさ。俺もこれほどのパニックを起こしたのは初めてだよ。まあ、高いところを意識的に避けて生きてきたから、かもしれないけど」
「そうか……。そもそも、高所恐怖症って、いつから?」
時野の問いかけに、伍堂は腕を組んで考え始めた。
「うーん、いつからかなあ。覚えてないくらい前からだよ。物心ついた時には怖かった。もう理由もわかんないくらい」
(高所恐怖症、か……)
時野は、伍堂が寝ている間にスマートフォンで調べた文献の内容を思い出していた。
『高所恐怖症の発症原因は、遺伝的要因、心理的要因、環境的要因があると言われている……。遺伝的要因とは、家族内での高所恐怖症の集積性により遺伝子レベルで受け継がれること……。心理的要因とは、高所に対する過度の不安感によるもの……。そして、環境的要因とは……』
(高所で経験した恐怖体験による、トラウマ……)
§2
「伍堂くん、元気になってよかった! ほんっとうに心配だったんだから!」
安川茜の言葉に、隣で尾形小春もうんうんと頷いている。
伍堂が翌日の講義に出てきたのを見て、同期の多くの者が胸をなでおろしたことだろう。
昨日のココベルでの変わり果てた姿が嘘のように、伍堂はすっかり元気を取り戻し、いつもどおりの明るい笑顔で教室に現れた。
「心配かけてごめんね、あかねっち!」
にこやかに答えながら、伍堂は定食を載せたトレイを食堂のテーブルに置いた。
「心配なんてもんじゃないよぉー! だって伍堂くん、顔が真っ青で別人みたいに見えたんだから」
「ははは。高所恐怖症ってガチのやつだからさ。それにしてもあかねっち、そんなに心配してくれるなんて、俺勘違いしちゃうじゃん」
「もー、伍堂くん、チャラい!」
(また、あんなこと言ってるよ)
時野は伍堂たちから少し離れた席で、倉橋と昼食をとっていた。
伍堂が元気になってうれしいやら、相変わらずの見境のなさにあきれるやら、複雑な心境の時野だが、倉橋も同じ感想だったようで、「ま、元気になってよかったよな」と苦笑いしている。
「ねーねー、乃愛ちゃんも、俺のこと心配してくれた?」
伍堂は、安川茜の隣で食事をしている乃愛に話しかけている。
「もちろんよ」
意中の乃愛からその言葉を引き出して、伍堂は一層ハイテンションで喜んでいる。
「乃愛ちゃん、うれしいよ! お礼に今夜飲みに行かない?」
「ちょっとちょっと、私は飲みに誘わないわけ?」
安川茜が口をとがらせて伍堂に抗議した。
(飛び火しないうちに、逃げよう)
時野は残りのごはんを急いでかきこむと、食堂の隣にある談話室に逃げ込んだ。
談話室にはソファやテーブルがあって、飲み物や軽食の自動販売機が設置されており、各社の新聞が置いてあるほか、テレビもある。
講義がない時間帯は自由にテレビを観ることができるので、昼休みは大抵誰かがいて、テレビが点けっぱなし状態だ。
時野は自動販売機に硬貨を入れると、右手で指をさしながら目当ての飲み物を探した。
『大臣、就任早々ではありますが、海外からの旅行者によってもたらされた新型ウイルスの対策についてお伺いします』
後方にあるテレビの方に振り向くと、厚生労働大臣の定例記者会見の様子が放映されていた。
『その件については……抗ウイルス薬の早期の必要数確保を目指して……』
回答しているのは、最近厚生労働大臣に就任した志藤大臣だ。
「お、新しいうちのトップじゃん。先月だったっけ、就任したの」
「初入閣らしいけど、厚生労働省の副大臣を務めたこともあるしね」
談話室内の研修生たちの会話に時野が聞き耳を立てていると――。
「何飲むか迷ってんの?」
「わあっ」
ガコン、と自動販売機から飲み物が落ちてきた。突然声をかけられた拍子に、時野はボタンを押してしまったのだ。
「コンポタ飲みたかったん?」
声の主を見ると、伍堂が立っていた。時野が買ってしまったコーンポタージュスープの缶を指さしている。
「いや、本当はコーラだけど……」
(お前が驚かすから)
伍堂はスマートフォンを自動販売機にかざすと、ペットボトルのコーラを購入し、時野に差し出した。
「ほら。そのコンポタは俺がもらうわ」
「え。でも……」
「いいから。俺と時野の仲だろ?」
伍堂はニヤリとすると、時野から缶を取り上げ、ペットボトルを押し付けた。
「……」
(どういう仲だよ? 昨日の『盟友』発言といい、伍堂の僕に対する態度は一体……?)
「あのさ、先生に聞いたんだけど。お前、上で俺を介抱しながら、作業台を降下させるよう下に合図したんだって?」
伍堂の呼吸のリズムを確保しながら、時野は作業台の外に腕を水平に突き出し、手のひらを下にして下方に振った。
この動きは、主にクレーン作業で使われる手による合図で、『下ろせ』の意味だ。
ココベルは、建設用重機の国内大手メーカーだ。予想通り、ココベルの担当者はすぐに時野の意図をくみ取って作業台を下降させてくれた。
「クレーンの合図なんて、どこで覚えたんだよ?」
「それは……オンライン研修で特定機械の講義受けたとき、配布された資料の中にあったろ」
特定機械とは、ボイラー、クレーン、建設用リフトなど、特に危険性の高い機械として労働安全衛生法で規定された機械のことだ。
「は? 配布資料なんて、誰も全部見てねーし。講義では出てこなかったところまで読んでんのかよ!」
伍堂は、コーンポタージュの缶を持った手で時野を指さしながら、ケラケラと笑った。
「やっぱ、爪を隠してたな。聞いていた通りだ」
「え? 誰から……」
「あ、そうだ! これが本題なんだけどさ。さっき乃愛ちゃんを飲みに誘ったんだけど、『倉橋くんも一緒なら』って言うんだぜ。まさか倉橋の言った吊り橋効果じゃないよな? 時野どー思う?」
伍堂は眉を寄せてそう言うと、缶のプルトップを引いた。一口飲んで「あっつー」と舌を出している。
「吊り橋効果? ああ、倉橋と上城さんがペアで作業台に乗ったからか。うーん、上城さんはそんな単純そうに見えないけど……」
(ペア……。そうか。安全帯のストラップを切断した方法が僕の推理通りなら、作業台に乗る順番が肝だ。順番を決めたのは……)
「なあ伍堂。僕が聞いたときには、伍堂と僕が2班の3組目ってもう決まってたよな? ペアと順番はどうやって決めたんだ?」
「え? ああ、くじ引きだよ」
「くじ引き?」
伍堂は缶を傾けてコンポタを口に含むと、コーンの粒をシャクシャクと咀嚼した。
「うーん、正確に言うとくじ引きとは言わないかー。なんか手品みたいな、心理テストみたいな方法だった」
(手品? 心理テスト?)
「まあ、吊り橋効果については遺憾だが、結果的に俺はペア決めに不満はないけどな。盟友になる予定の時野と、絆が深まったんだから」
伍堂は時野に近寄ると肩を組んだ。
「は……? だからなんなんだよ、その盟友って……。て言うか、近い。暑苦しいから離れろ」
時野が押し返そうとすると、伍堂は余計にガッシリと肩を抱いてきた。
「まあまあ、そう照れるなって。あ、もしかして、時野も吊り橋効果で俺のこと……」
「はあ?! とにかく離れろっ」
力づくで押すが、体格のいい伍堂はびくともしない。
「俺、男でも女でも、年上でも年下でも、イケるクチだから。来る者は拒まないし、並行して複数人愛せるし。元々時野とは交流を深めるつもりだったけど、そっちの交流でも俺は構わないけど?」
(こ、こいつマジでヤバい奴だ!)
時野が青ざめて伍堂を見ると、時野を見下ろす伍堂の顔には不適な笑みが浮かんでいた。
(ん? この表情、どこかで見たことがあるような……)
§3
「うーんと、どうだっけな。そうそう、最初に1から6までの数字が書かれた紙を並べてさ、数字を3つ選ぶよう言われたんだ」
倉橋がそう言ったので、時野がルーズリーフを差し出すと、倉橋は器用に6枚にちぎり分けて、それぞれの紙片に1から6までの数字を書いた。
その日の放課後、時野と伍堂は再び談話室に来ていた。今度は、倉橋も一緒だ。
ペア決めの方法を伍堂に詳しく聞こうとしたのだが、昼休みが終わって時間切れとなってしまい、講義終了後、改めて倉橋を交えて再現してもらうことになったのだ。
「で、俺は単純に1・2・3を選んだ」
倉橋が思い出しながら、テーブルに置かれた6枚の紙片から『1』『2』『3』を手前に寄せた。
「そうしたら、その3つの数字から1つの数字を指さすよう言われて。3を指さした」
倉橋の指が『3』の紙片を動かした。
「すると今度は、指ささなかった2つの数字から1つを指さしてと言われたから、2を指さした」
倉橋は残っていた2枚のうち、『2』の紙片を指でトントンと叩いた。
「そうしたら、別に用意してあった6つの封筒が出てきて、『2』と書かれた封筒の中身を確認すると、『2組目』って書かれてたんだよ」
倉橋は、乃愛と共に2班の2組目に作業台に乗った。
「若干俺と手順が違う気がするけど、俺も大体そんな感じで数字を選んで『3組目』を引き当てたんだよな」
腕を組んで倉橋の手元を見つめながら、伍堂が言った。
「1人ずつ呼ばれてマンツーマンでやったから、伍堂は俺のを見てないし、俺も伍堂のは見てないもんな」
倉橋も顎に手を当てながらその時のことを思い出しているようだ。
「あっ! 倉橋が選んだ時の封筒の中身、全部『2組目』だったんじゃないか?! 倉橋自身が選んだように見せかけて、実はどの数字でも封筒の中身は同じだったんだよ!」
そう叫んで、伍堂は頭を抱えた。
「もしかして、乃愛ちゃんと倉橋がペアになるように工作されてたんじゃ……まさか、乃愛ちゃんは倉橋のこと……」
「いや、それはないよ」
「なんだよ、ここにきて謙遜かよ」
「いや違うって! 上城さんが俺に好意があるかどうかの方じゃなくて、封筒の中身の方!」
倉橋が慌てて手を振って否定した。
「実は、最後に他の封筒の中身も見せてもらったんだ。そうしたら、別の封筒には、ちゃんと『1組目』や『3組目』も入っていたよ」
2人の話を、時野はじっと黙って聞いていた。
(なるほど。やっぱりこのペア決めは操作されたものだった。意外と単純な方法で)
時野は、テーブルの上の6枚の紙片を見つめた。
(単純だけど、これなら意図した番号を確実に選ばせることができる。ただ、確かにこの方法だと、1人ずつ呼び出さないとダメだな)
「おい、時野はどうなんだよ。黙ってないで、なんか言え」
「ああ、うん。えーと、聞き忘れてたけど、このペア決めをしたのって、誰だったの?」
「え……」
伍堂と倉橋は互いの顔を見ていたが、代表して答えたのは倉橋だった。
「それは……」
*
6月の夕方の空気は、どこかジメジメとしていた。
九州地方は梅雨入りしたらしいが、労働大学校のある関東地方の梅雨入りは、まだ発表されていない。
(研修の終了日は、晴れだといいけど)
飛行機で帰る同期は、荷物は全て宅急便で送ると行っていた。
それも楽だが、いつも使っている化粧品やヘアアイロンなど、身支度ですぐに使うものは手持ちで持って帰りたい。
電車を乗り継いで労働大学校から帰宅するのに、荷物が多い上に雨に降られたらたまらない。
(梅雨入りは、研修が終わってからでありますよーに!)
時刻は18時半。まだ日は落ちていないはずだが、曇りのせいか、すでに薄暗い。
空を見上げると、徐々に雲の層が厚くなってきている気がした。
(買い物はさっさと済ませて帰ってきた方がよさそうね)
労働大学校の正門を出て、左に曲がろうとしたその時、突然背後から声をかけられた。
「夕食の買い出し?」
驚いて振り返ると、そこに立っていたのは――。
「時野くん……」
「ちょっと話せないかな?」
(嫌な予感)
昔から、こういう勘はよく働く方だ。
「ごめん、急いでるの。ほら、なんだか降りだしそうな空でしょ?」
じゃあと言って一方的に歩き始めると、時野が叫んだ。
「伍堂のフルハーネスのストラップを切ったのは、君だ!」
びくん、と身体が震えて、立ち止まる。
振り向くと、時野はすぐ後ろまで近づいて来ていた。
「そうだよね? 上城さん……」
ー第1話〈後編〉に続くー
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