労働Gメンは突然に:第8話【終】「労働Gメンの追憶」
登場人物
本編:最終話「労働Gメンの追憶」
1
「いやマジでかわいすぎん? 湖上佳恋ちゃん! 東京シンデレラガールコンテストでグランプリとった時から、推してんのよねー」
高光は一方面の島に来ると、バッとポスターを開いて一方面の3人に見せた。
「ああ、安全週間のポスターですか。もうそんな時期なんですね」
紙地一主任は腕を組みながらポスターに顔を近づけた。
高光課長は紙地一主任よりも先輩らしく、高光と話す時の紙地は敬語だ。
「だよねー。俺や一主任ぐらいの年になると、1年があっという間だよな。時野くんみたく新監の時は、全てが新鮮だったのになあー。いやそれにしても佳恋ちゃんかわいいわあー」
高光課長が持っているポスターには、湖上佳恋がこちらを向いて微笑んでいる写真の下に、「全国安全週間 7/1-7/7」と印字されている。
「全国安全週間?」
「あそっか、時野くんは初・安全週間だね! 安全週間ってのは、毎年この時期に厚生労働省が主導でやってるキャンペーンでね……」
全国安全週間とは、職場の自主的な労働災害防止活動を推進し、安全意識の高揚と安全活動の促進を目的として、毎年7月1日から7月7日までを本週間、6月1日から6月30日までを準備期間として実施されているのだという。
「そんで、安全週間ではこんな活動をしてくださいねーみたいな説明会を各署でやるんだよ。うちの署は6月の6日と7日に角宇乃市民ホールでするんだけどね」
「今年も結構集まりそうですか?」
「うーん、そうだね。角宇乃市内の事業場が200社以上は来るかな?」
(説明会……角宇乃市内の事業場が200社……)
「あの、それって、署からは誰が出席するんですか?」
「よくぞ聞いてくれた! 署長が挨拶で登壇するのと、メインとなる実施要綱の説明は俺! 角宇乃市民ホールに俺の美声を響かせちゃうよっ」
(署長が登壇……)
「ちょっとおー、スルーせずにツッコんでよー。美声って自分で言うんかーいとかさあー。ねえ、時野く……」
「それ! 僕も一緒に行っていいですか?」
時野が食い気味に迫ったので、高光課長はポスターをもったまま後ずさった。
「えっ、安全週間の説明会に? もちろんいいけど……」
「お、それいいじゃん、勉強になるんじゃない? 高光課長、よろしくお願いします」
紙地一主任が高光課長に頭を下げた。
時野が加平を見ると、加平は興味がなさそうにあくびをしている。
「あの、加平さんも一緒に……」
「あ? 俺は行かね」
(ガーン。麗花さんのこと以外は期待を裏切らずツレない)
時野の恨めしそうな視線を気にも留めずに、加平は自席に戻っていった。
*
『あの方は弊社の顧問税理士の新井先生ですけど……』
時野は、高階家具の寺林から教えてもらった税理士法人のホームページを開いた。
「所属税理士一覧」をクリックすると、税理士の顔写真が並んでいる。
(税理士が20人も所属している。大きい事務所みたいだ)
スクロールしていくと、目的の人物が見つかった。氏名は「新井湊斗」となっている。
顔写真を見ると、色が白くて唇がほんのり赤い。韓国の男性アイドルのような今風のイケメンだ。
(間違いない。この男の人だ。立花紫さんと話していたのも、天天フーズで見かけたのも……)
("R"が指南した複数の事業場に出入りする税理士――。こんなに偶然が重なるとは考えにくい。なんの証拠もないけど、おそらく新井税理士は"R"とつながっている……)
時野は、税理士法人のホームページをくまなく見ていった。
(事務所案内、業務内容、料金体系、新着情報……。ん? パートナー企業?)
「パートナー企業の紹介」というページをクリックすると、税理士法人と協力関係にあるらしい法人や事務所の一覧が掲示されていた。
(企業と取引をしていると、税理士業務以外のことを相談されることもあるのだろう。そういう場合は、協力関係にある士業の事務所を紹介したりするんだろうな)
スクロールしていくと、時野は見覚えのある名字を見つけた。
『……
柏倉労務管理事務所
柏倉経営コンサルタント事務所
……』
(柏倉労務管理事務所……もしかして、渡辺さんが言ってた事務所かな)
『柏倉先生? ああ、元同業者ですよ。柏倉労務管理事務所で勤務されていたんです。大先生が柏倉先生の叔母さまで』
「柏倉労務管理事務所」の文字をクリックすると、事務所のホームページが表示された。
代表社員として、「特定社会保険労務士 柏倉美羽」という氏名と共に大きな顔写真が掲載されている。
60代後半と思しきその女性は、白髪を丁寧になでつけたアップスタイルで上品に微笑んでいる。
(てことは、この人が柏倉さんの叔母さんてことか。叔母が経営する事務所で社労士として勤務していた……。とすると、その下の「柏倉経営コンサルタント事務所」というのは……)
「柏倉経営コンサルタント事務所」をクリックして事務所のホームページを開く。
(代表 柏倉――)
時野は頭の中で、高速で何かを検索した。
(ちょっと待って、もしかして……)
時野はスマートフォンを取り出すと、麗花が送信してくれた「陸川製作所」に関する書類の画像を開いた。
事業場名:株式会社陸川製作所
所在地:角宇乃市北区〇〇3丁目〇-〇
業種:金属製品製造業
労働者数:62名
『20××年1月13日、工場南側の中二階から労働者が墜落し、死亡――』
『20××年4月15日、陸川製作所及び代表取締役の陸川正樹を労働安全衛生法違反の罪で送検――』
(そして、送検から約2か月後に、陸川製作所の社長が無理心中で自殺……)
時野は、自殺を報じた新聞記事の画像を開いた。
『20××年6月7日未明、角宇乃市北区の陸川正樹さん(50)の住宅から出火しました。
火はおよそ2時間後に消し止められましたが、木造2階建ての住宅1棟と納屋およそ200平方メートルが全焼。焼け跡から男女3人の遺体が見つかりました。
この家には陸川正樹さんと妻、長男と長女の4人が住んでいて、長男の無事は確認されましたが、他の3人とは連絡が取れていないということです。
警察は、遺体は陸川さん家族の可能性が高いとみて身元の確認を急いでいます……』
(確か、社長の被疑者調書の中に、家族構成の記載が……)
司法処理において、被疑者からは被疑事実に関する供述を調書にとるが、加えて、被疑者として送検するにあたって定型的に聴取すべき事項が決まっており、その中に家族構成も含まれているのだ。
『……収入や資産は以上です。
私の家族について申し上げます。
私は4人家族で、
妻 亜由美 40歳、
長男 大樹 12歳、
長女 香菜 10歳
がおり、同居しています。
ほかに妹がおりますが、結婚して家を出ており、今の姓は柏倉といいます……』
(えっ? これって……)
スマートフォンを顔に近づけ、時野は画面を凝視した。
(もしかして、これが"R"の動機……?)
時野は目を閉じて腕を組んだ。
(全部僕の推理だ。いや、推理とも言えないかも。妄想レベル……)
時野は大きく息を吐いた。スマートフォンの画面を閉じようとタップしたつもりがスライドしてしまい、次の画像が表示された。
(あ、これは……麗花さんのお父さんの供述だ。この調書も、前読んだ時なんかひっかかったんだよな……)
『……その日、私は……浩二監督官と共に陸川製作所に監督に行きました。
午前中は、二手に分かれて工場内の安全衛生の確認を行いました。
私が工場の南側を、……浩二監督官が工場の北側を担当しました……』
(墜落災害が起こったのは、工場の南側にある中二階の資材置き場だったな……)
麗花が送ってくれた画像の中には、実況見分調書も含まれていた。
実況見分調書とは、災害発生状況を確認し、調査結果にまとめた書類だ。
時野は実況見分調書に添付されていた工場の図面を確認した。
(確かに、広そうな工場だ)
時野は画面をピンチアウトして拡大したり、スライドさせたりして図面を見ていった。
(工場の北側には溶接や塗装を行う作業場所、塗料の保管庫……南側には災害が発生した中二階の資材置き場のほか、材料の搬入口や搬入に使う天井クレーンが設置されている……)
図面の確認が終わると、時野は麗花の父の調書に画面を戻した。
『午後は、労務管理について書類の確認を行った後、指導文書を交付しました。
……有機溶剤の保管庫に鍵がかけられていなかったのを確認したのが私でしたので、安全衛生関係の指導文書を私が作成し、……浩二監督官は労務管理の問題点に関する指導文書をまとめました……』
時野は、行ったり戻ったりしながら麗花の父の調書を読んだ。
(うーん? え? あそっか! この部分のつじつまが合わないんだ! ということは、どうなるんだ?)
時野がスマートフォンを持ったまま固まっていると、紙地一主任が近づいてきて、時野の肩を小突いた。
「こら! 時野くん。業務時間中にスマホで遊んだらダメだよ」
(もしかして……!)
「一主任!」
時野は、バッと立ち上がって一主任の両腕をつかんだ。
「えっ! なになに、どうしたの?」
「職員の一覧表みたいなのって、ありますか?」
「え? 基準システムに職員録があるけど……」
時野は紙地一主任に教わりながら、基準システムの職員録で検索をした。
(やっぱり、この氏名の監督官はこの人だけだ……ということは、麗花さんのお父さんと一緒にいたのは……)
2
新井は事務所でパソコンに向かって事務処理をしていたが、集中力が途切れがちで全くはかどらない。
スマートフォンを取り出すと、LINEのトーク履歴を開く。
『大樹さん、おつかれさまです。次はいつ会えますか?』
昨夜送ったメッセージだが、午後になっても既読がつかない。
(会いたくなるのは、不安だからだ)
仕事関係の会合で知り合って2年――。
最初は酔った勢いが大きかったが、その後も関係を重ねるうち、大樹は圧倒的な引力で新井を虜にした。
だがここ最近の大樹は、新井と会っていても心ここにあらずと感じることが多く……。
(いや、大樹さんのことを信じるって、自分で決めたのだから)
新井は決意するようにスマートフォンの画面を閉じると、再びパソコンに向かって事務作業を始めたが――。
「新井先生にお電話です」
同僚が背後から新井に声をかけた。
「ありがとうございます。どなたからですか?」
「角宇乃労働基準監督署のトキノさんとおっしゃってますけど」
(労働基準監督署……?)
新井の脳裏に、最近複数の顧問先で起こった労働トラブルが思い浮かんだ。
「お電話代わりました、新井ですが……」
『突然お電話してすみません。角宇乃労働基準監督署の時野と申します。税理士の新井先生でいらっしゃいますね?』
(声にも聞き覚えがない。やはり面識のない相手のようだが、一体……?)
『折り入ってお話ししたいことがあります。どこかでお会いできませんか』
「それはどういったご用件でしょうか? 業務が立て込んでおりまして……」
『あなたの顧問先で労働トラブルが頻発しているのはご存じですか?』
ドキンと新井の心臓が波打った。
『"R"と名乗る人物が、法律違反まがいのやり方を事業主に指南しているのです。あなたなら、"R"に心当たりがあるのではないですか』
("R"? 顧問先で起こっている労働トラブルは、故意に起こされたものだと? まさか……)
新井は、受話器を持つ手が湿ってくるのを感じた。
「……申し訳ありませんが、何をおっしゃっているのかわかりかねます。この後予定がありますので、もうお電話を切らせていただきます」
『待ってください!』
新井は電話を切りかけたが、時野の声で思わず手を止めた。
『僕と賭けをしませんか』
(賭け……?)
*
「手を止めるなぁー! どんどん回れ、どんどん!」
角宇乃労働基準監督署の会議室にいるのは、安全衛生課の高光課長と専門官の永渡、そして時野の3人だ。
長机には、安全週間説明会で来場者に配布する予定のリーフレットや資料が並べられており、それを長机の周りを回りながら1部ずつ集めていって、1周を回り終わると資料が1セットできあがる寸法だ。
時野たちはせっせと長机の周りを回っているが、予備も含めて300部の資料を組むのは、3人がかりでも大変な作業だ。
(説明会は6日、7日の2日間開催される。撒き餌にうまく食いつけば、"R"はきっといずれかの日に安全週間説明会にやってくるだろう――)
時野が思わず立ち止まって考えていると、後ろから追いついた高光課長がどしっと時野にぶつかった。
「こらあー! 止まるんじゃなーい! 日が暮れるだろーがあー!」
「わわっ、すみません!」
(作業が多すぎて、高光課長のテンションが変になってる)
1時間後――なんとか作業は終了し、時野たちが回りに回って組んだ資料は、1セットずつ茶封筒に封入されて積み上げられている。
「いやー、ふたりともおつかれちゃん! あとはこの300部を段ボールに入れて運びやすく準備しておけば……」
その時、ガチャリとドアが開いた。
「あ、いたいた。悪いけど、資料の追加いいかな?」
「へっ?」
高光課長の声が裏返っている。
時野が振り向くと、法川署長が入ってくるのが見えた。
「いやー、開会の挨拶考えてたんだけどね。角宇乃労安協の会長から法改正の話に触れてほしいって言われて。で、話すなら関連するリーフレットも入れた方がいいと……どうしたの?」
(てことは、封筒300部に追加リーフレットを入れないといけない、と)
3人がついがっくりと肩を落としてしまったのを見て、状況が分からない法川署長は不思議そうな顔をしている。
「角宇乃労安協の会長というと……今はどこの事業場でしたっけ?」
角宇乃労安協とは、「角宇乃労働安全衛生協会」の略で、安全週間説明会を角宇乃労働基準監督署と共催で行う団体だ。
角宇乃市の事業場が会員として所属し、セミナーや研修、会合、行事を共同で開催するなどにより、地域の事業場の適正な労働条件確保や安全で健康的な職場を推進する活動を行うことを目的とした公益社団法人である。
会長は、会員事業場の事業主が交代で行うことになっていて、任期は2年だ。
「ああ、今は鐘島印刷さんとこの社長が会長だよ」
法川署長の答えを聞いて、永渡があっと声をあげた。
「鐘島印刷って……有機溶剤の認定申請きてるとこですよね。俺が先週実地調査に行って、課長に相談した件ですけど……」
有機溶剤などの有害物質を取り扱う場合、労働者の健康障害を防止するため、事業主には様々な義務が課される。
ただし、消費する有機溶剤が少量で許容消費量を超えないときは、所轄労働基準監督署長の適用除外認定を受けることで、規制を受けずに有機溶剤を使用することができるのだ。
永渡の話に高光課長が頷いた。
「あーあーあー、それな」
「え? 鐘島印刷になんかあるの?」
法川署長から訊かれて、高光課長は珍しく眉間にしわを寄せた。
「署長、実はですね。実地調査の結果、ちょっと認定が難しい状況で。近々署長に入っていただいて署内協議しようと思ってたところなんですよ」
労働基準監督署が行う許可や認定は、申請前の事前相談の段階で問題点をつぶしていることが多いため、申請を受理後は9割方許可や認定となる。
しかし、鐘島印刷の場合は、相談段階では出ていなかった問題点が実地調査によって判明したのだという。
「そうかー。不認定となると大ごとだから、事前に署内で協議をして、しっかり理由を詰めておく必要があるな」
署長の言葉に安全衛生課の2人が重々しく頷いた。
永渡が追加のリーフレットを受け取り、法川署長が会議室を出て行くと、高光課長が口を開いた。
「まあでも、正直ギリギリなところだよな」
(ギリギリ?)
「ですね。署長が『いい』と言ったら無理くり認定になってもおかしくないみたいな」
時野が不思議そうにしているのに気づき、高光課長が時野の肩に手を置いた。
「時野くん。法律ってさ、一から十まで細かいことは書いてないのよ。条文中に数値で定めてあれば判断しやすいけど、文章であいまいに表現している方が多いからね。そういうあやふやな部分を是とするか非とするかは、署長の鶴の一声で決まるわけ。『署長』ってすごい権限なのよ」
「なるほどー」
「ははは、課長語りますね」
高光課長の話に時野が大真面目に頷いているので、永渡が笑っている。
「……てかもう5時じゃん! こんな雑談してる場合じゃねーんだよおー! てめーら、さっさと署長のリーフいれるぞぉー!」
会議室に高光課長の雄たけびが響き渡り、時野たちは追い立てられるように追加のリーフレットを入れ始めたのだった。
3
『僕は、金曜日の夜空いてますが、どうですか?』
あれから大樹に追加でメッセージを送ったのだが、既読はついたものの返事がないまま、もう今日は金曜日だ。
(やっぱり、今日も会えないのか……)
新井が諦めかけた時、メッセージの受信音がポコンと鳴った。
新井は慌ててスマートフォンのロックを解除した。
『ごめん、今夜は会合があって遅くなりそうなんだ』
待ちわびた大樹からの返信だったが、返信を待っていた時よりも気持ちが重く、悲しい。
新井は事務所の近くのコーヒーショップに寄ってから出勤すると、自席でコーヒーを飲んだ。
熱くて苦い液体が体内を流れていくのを感じることで、少しは気持ちがリセットされるような気がした。
『僕と賭けをしませんか』
2日前に突然かかってきた電話。その内容は、新井にとってショックとしか言いようがなかった。
(だからって、大樹さんを裏切るようなこと、できるわけがない。僕は大樹さんのことを……)
新井は首を振ると、業務用のノートパソコンを起動した。
だが、仕事に集中しようとすればするほど、大樹のことを考えてしまう。
(最近、あまり会ってもらえない気がする。やっぱり……)
新井の脳裏に、大樹のそばに立つロングヘアの女の姿が浮かんだ。遠くから見ている新井の方に振り返った時、その美しい容姿は白い百合の花を思わせ――。
新井は深呼吸をすると、苦い液体を勢いよく口に流し込んだ。
*
「新井先生、がんばりますね。じゃ、私はお先に失礼します」
「ハイ、おつかれさまです」
同僚に声をかけられたので、新井は笑顔を作って挨拶をした。
時計を見ると夜8時を回っており、事務所に残っているのは新井だけだ。
(金曜日だもんな。さすがに、もう帰るか……)
新井は帰り支度をすると、事務所を施錠して外に出た。
事務所から家までは、電車と徒歩で30分ほどだ。
(おなかすいたけど……。買いに行くのも食べるのもめんどくさい……)
電車を降りた新井は、機械のように両足を交互に前に出して、ただただ自宅までの道のりを歩き続けていたが――。
急に、新井の肩にガッと誰かの腕がのってきた。
「いた! 湊斗はっけーん!」
大樹だ。背後から近づき、新井に肩を組んできたのだ。
「会合抜けてきたー。湊斗は今まで仕事してたのか? 腹減ったろ? 惣菜だけど、食いもん買ってきたから食おうぜ! 湊斗が好きそうなワインも!」
新井は呆然として大樹を見上げた。
酒が入っているからか、大樹の顔は血色がいい。
「どした? もしかして、もう晩飯食っちゃった?」
次の瞬間――新井はしがみつくように大樹に抱きついた。
「え、なになに? 湊斗どーした?」
(やっぱり、どうしても大樹さんが好きだ……)
*
新井は、大樹のグラスに白ワインを注いだ。
「おう、ありがと。湊斗も、もっと飲めよ」
新井からボトルを受けとると、大樹が新井のグラスにも白ワインを注ぐ。
新井の部屋に大樹が来るのは何度目だろうか。大樹はすっかり慣れてくつろいでいる。
大樹が買ってきてくれた惣菜は、唐揚げや焼き鳥など、特に珍しくもないものだったが、温めてふたりで食べると極上に美味しく感じた。
大樹がグラスを傾ける姿を、新井は横からじっと見つめた。
「ん? どした?」
「ううん、なんでも……。大樹さんと久しぶりに会えたから……」
「……」
大樹はグラスをテーブルに置くと、手を伸ばして新井の髪に触れた。
「ごめんな。最近仕事が立て込んでた」
「いいんです。今日こうして会いにきてくれたから……」
大樹は新井の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「なんか、いつもに増してかわいーこと言うな、湊斗は」
にこっと笑うと、大樹は再び白ワインを飲み始めた。
(大樹さん……僕はあなたをひとり占めしたい。どうすれば、それができますか……?)
新井はワイングラスを口に運んだ。
「そういやさ、最近はないの? 事業主のお悩み相談」
ごくり、と新井は白ワインを飲み込んだ。
「あ……そうですね、ありますよ」
「お、いいね、教えてよ。湊斗が聞かせてくれる話、事業主さんがどんなことに悩んでるか知れていつも勉強になる」
「……大樹さんのお役に立てたら、僕もうれしいです」
大樹は右手にワイングラスをもったまま、左手で新井の手を繋いできた。
「あの……顧問先の社長さんから聞いたんですけど。最近労基に適用除外申請してるけど、労基が認定に難色を示してるみたいで困ってるとか」
「へえー。なんの適用除外?」
「有機溶剤の規制だそうです」
「ふーん……」
「その事業主さん、角宇乃労安協の会長もされてるんですけど、今度、なんかの説明会に署長と同席するから、その時直談判してみるって言ってました」
「……」
考え込む大樹の横顔を、新井は見つめた。
(綺麗な輪郭だな。骨ばった頬もカッコいい)
大樹の顔が、ゆっくりと新井の方に旋回してきた。
「大樹さ……」
新井は大樹に口をふさがれると、そのままふたりの夜は更けていった。
*
「じゃあ、私はこっちから資料おいていきますね」
麗花がそう言って、資料が入った茶封筒をごっそりと持ち上げたが……。
「あっ、わっ」
多く取り過ぎたらしく、ばささっと何冊か落としながら麗花がよろめいた。
「大丈夫か」
加平が麗花を支えると、かがんで資料を拾い上げた。
「あ……加平くん、ありがとう」
麗花が加平を見上げると、加平も優しい表情で麗花を見つめている。
そんな2人を少し離れた場所から見ているのは……時野と高光課長だ。
「……なんかさあー、今日の加平、キャラ違くない? ちょっとキモいんだけど」
「うーんと、まあ、そーですね」
高光課長のディスり発言に、時野も頷かざるを得ない。
(麗花さんの前だとシラフで甘々モードだからなー)
時野たちは、角宇乃市民ホールの大会議室で、安全週間説明会の準備をしていた。
先日準備した資料入りの茶封筒を、手分けして会議室の長机に並べていく。
今日は6月7日。安全週間説明会の2日目だ。
麗花には、リハビリ勤務の名目で、説明会の手伝いに来てもらっていた。
時野から香坂基準部長に頼んで、麗花が角宇乃市民ホールに来られるようにしてもらったのだ。
麗花が安全週間説明会に来るとわかると、加平も当然のように説明会についてきた。
(「俺は行かね」って言ったのはどこのどなたでしたかね。ほんと、麗花さんのこととなると加平さんは……)
加平の様子を見ていたらだんだん腹が立ってきた時野は、ぷんすかしながら資料を配ったのだった。
*
「……といったことを、ぜひとも準備期間に実施していただき……」
演説台で話しているのは、高光課長だ。
ステージ上には演説台の他に主賓席が設けられ、法川署長と角宇乃労安協の会長が腰かけている。
角宇乃労安協の会長――つまり、鐘島印刷の社長の鐘島だ。
(法川署長も鐘島社長もスーツの色がグレーでかぶってる)
時野たちは舞台袖に待機して、高光課長の講演を聞いていた。
高光課長が1時間程度かけて実施要綱の説明を行った後、質疑応答や角宇乃労安協からのお知らせの時間を経て、説明会はお開きとなった。
時野たちがステージ上の什器類や客席に残った余りの資料の片づけを行っていると、法川署長が鐘島社長や角宇乃労安協の役員たちと控室に移動していくのが見えた。
そして――彼らを追いかけるグレーのスーツの男性を視界の端にとらえると、時野はニヤリと笑みを浮かべた。
4
『有機溶剤の適用除外認定でお困りだそうですね。認定するかしないかは、所詮署長の鶴の一声です。今年の署長は守銭奴だという噂ですよ……R』
数日前に、鐘島印刷の社長に送ったメールだ。
(実際に署長が金を受け取るかどうかは、どうだっていい。渡している瞬間さえ押さえることができれば、あとはいくらでも事実を捻じ曲げられる)
鐘島は、すぐに提案に食いついた。
『なるほど。控室で署長に袖の下を渡すことにします……』
(簡単すぎてちょっと拍子抜けだな)
角宇乃労安協の会長が、適用除外認定について説明会で直談判……。
新井の話から、角宇乃労安協のホームページを確認し、会長が鐘島印刷の社長であることはすぐにわかった。
角宇乃労働基準監督署の署長が出席する角宇乃労安協が催す説明会――これも、角宇乃労安協の行事予定を見れば、特定はたやすい。
新井湊斗は、仕事で交換した名刺をスマートフォンの名刺アプリで管理していた。
あの日も、湊斗がぐっすり眠っている間にこっそり名刺アプリを起動して、鐘島印刷の社長の名刺情報を盗んだ。
(これだけ湊斗の顧問先ばかり狙うと、湊斗に迷惑がかからないか心配だったが……。それも今回で最後だ)
大樹は思わずニヤリとした。
(署長の収賄というスキャンダル――これ以上の労働基準監督署の汚名はない)
角宇乃労安協の役員と思しき男たちが、ぞろぞろと控室から出て行った。
控室には署長だけが残っているはずだ。部下たちが片づけを終えて戻ってくるのを待っているのだろう。
しばらくすると――グレーのスーツの男が控室をノックし、入室した。
壇上に座っていた鐘島社長のスーツも、グレーだった。
男が大事そうに茶封筒を抱えているのを大樹は見逃していない。
室内にはあらかじめ隠しカメラを仕込んでおいた。手元のスマートフォンで映像を受信できるようになっている。
映像を確認すると、署長とグレーのスーツの男が何やら話している様子が映っている。
(会話の内容まではわからないが……)
急だったので、音声なしのカメラしか手に入らなかったのだ。
映像には、グレーのスーツの男の背中が映り、その正面には署長が立っているが――グレーのスーツの男の手から署長に茶封筒が渡る様子が見えた。
(よし……)
しばらくしてグレーのスーツの男がうつむきがちに控室から出てくると、足早に去っていくのを大樹は物陰から見ていた。
そのまま控室を見張っていると、角宇乃労働基準監督署の部下たちがやって来て控室に入り、すぐに署長と連れ立って帰っていった。
署長たちの姿が見えなくなるのを確認すると、大樹は静かに控室の中に侵入した。
仕掛けていたカメラを回収し、控室から出て行こうとすると――。
「やっぱりあなたが"R"でしたか」
「!」
突然背後から声がして驚いて振り返ると、控室の隅に積み上げた机の隙間から、若い男が大樹を見ていた。
(こいつ、いつから――)
「今出ていきますので、ちょっと待ってくださ……わっ」
積み上げてあった机が、ガラガラドッシャーンと崩れ落ちた。
「いてててて……」
時野は顔をしかめながら机の山から這い出した。
(こいつ確か、加平と一緒にいた――)
「すげー音したけど大丈夫か?!」
控室のドアが開き、加平が中に入ってきた。
「なんかひでーな」
崩れ落ちた机と、埃まみれになった時野を見て、加平があきれている。
「はは、狭いところに隠れてたんで、うまく出てこられなくて……」
「ねーねー、もう中入っていいのー?」
加平の後ろから控室にぞろぞろと入ってきたのは、先ほどから安全週間説明会を運営していた角宇乃労働基準監督署のメンバーと、そして――。
「れ、麗花さん……!」
「えっ? どうしてあなたが……」
麗花の視線に耐え切れず、男はカメラを握りしめながらうつむいた。
時野は、男の手にあるカメラを指さした。
「署長が賄賂を受け取るところを撮影しようとしたんですね?」
「……」
「えぇっ! 賄賂?」
賄賂と聞いて、驚いた法川署長が声を上げた。
「これまで、"R"として、法律違反まがいのやり方を指南して労働トラブルが起こるよう仕向けたのは、あなたですね?」
時野が、男の目の前に一歩出た。
「柏倉大樹さん」
皆が一斉に柏倉を見た。
「……」
柏倉はうつむいたままだ。
「ムラサキ工業の立花紫さんに賃金不払のままトンズラするよう指南したのも……天天フーズに有給休暇の時季変更権を濫用するよう指南したのも……高階家具に監督署保管分の就業規則の処分を指南したのも。もしかして、岩井酒店とCOLORFULスタッフもあなたの入れ知恵ですか?」
柏倉は顔を上げた。
「一体なんのことです? 私がそんなことをする理由がどこにあるというんですか」
「労働基準監督署あるいは労働基準監督官への恨み……でしょうか。労働トラブルを引き起こして労働基準監督官を困らせることが動機ですよね。違いますか?」
「馬鹿馬鹿しい。なぜ私がそんなことを……」
「なぜなら、あなたは……心中した陸川さん一家の生き残り……陸川正樹さんの長男の、陸川大樹さんですよね?」
「!」
柏倉が視界の端で麗花を確認すると、両手で口元を押さえているのが見えた。
「今『柏倉』姓なのは、ご家族が亡くなられた後、叔母の柏倉美羽さんに引き取られたからでしょうか。あなたは、社会保険労務士となって、叔母が代表を務める柏倉労務管理事務所で勤務した。経営コンサルタントの前に社労士の経験があったから、こんなに労務管理について詳しかったんですね」
柏倉は時野を睨みつけるが、時野は落ち着いた表情で話を続けた。
「お父さんが自殺する原因を作った労働基準監督署や労働基準監督官への恨みを募らせたあなたは、労働基準監督官を困らせる労働トラブルを数々引き起こそうと考えた。さらには――」
時野は麗花に視線を移した。
「お父さんの会社が送検される原因を作った人物――黒瀬陣平さんへも憎しみを感じていたあなたは、あなたの家族が苦しめられたように、黒瀬陣平さんの家族も苦しめようと、麗花さんに近づいた――」
「違う!」
柏倉は思わず叫んだ。
麗花を見ると、青ざめた顔で立ち尽くしている。
悲しみに満ちた麗花の視線が、痛い。
(違う。俺は、麗花さんを……)
柏倉はカメラを握りしめた。
(……とにかく今はこの場を乗り切って、後でこの動画をばらまいてやる。署長が鐘島から金を受け取っている現場はこのカメラにばっちり押さえたんだからな)
「ああ、ちなみにその動画は役に立ちませんよ」
「……は?」
「署長が鐘島さんから賄賂を受け取った、という動画ですよね? でも、署長と一緒に動画に映っていたのは――」
その時、ガチャリとドアを開ける音がした。
「あ、いたいた、時野さん! 言われたとおりやったつもりですけど、うまくいきましたかね?」
入ってきたグレーのスーツの男性は――。
「阿久徳さん! バッチリでしたよー」
(あくとく……?)
そこには、いつもの社名の入った作業着とド派手なスラックスではなく、きちんとスーツを着こなした阿久徳興業の社長、阿久徳大二郎の姿があった。
「阿久徳さんまで使ったのかよ」
「それが、連絡してみたら阿久徳さんも今日の安全週間説明会にいらっしゃるとのことだったので、グレーのスーツで来ていただくようお願いしていたんです。とあるルートから、鐘島社長には当日のスーツの色を確認済みでしたので」
「ははは、ほかならぬ時野さんのご依頼ですからね、喜んで協力させてもらった次第です。いやー、スーツなんて普段ほとんど着ませんから、肩がこっちゃいましたよー!」
阿久徳は、がははと笑いながら頭をかいている。
時野は柏倉の方に向き直った。
「というわけで、あなたの動画に映っているのは、鐘島さんじゃありません。鐘島さんは、角宇乃労安協のみなさんと一緒にとっくに帰りましたよ。僕がこちらにいらっしゃる阿久徳さんに、署長に封筒を渡すようお願いしたんです。しかも、その封筒とはこれですよ」
時野の手にあるのは、「角宇乃労働基準監督署」と印字された茶封筒だ。
「中身は、今日の安全週間説明会の資料です」
(な、なんだと……? くそっ。鐘島印刷との収賄を匂わせる動画の撮影は失敗した。だが、俺が"R"だという根拠はどこにもないはず……)
「さっきから聞いてれば、勝手な憶測を並べるのはやめてください。私がその"R"だって証拠がどこにあるって言うんです? 私はもう帰らせていただきます」
「おいてめえ、待てよ、ふざけてんじゃねえぞ」
帰ろうとする柏倉を加平が止めようとしたとき――ドアが開いて控室に入ってきた人物がいた。
「大樹さん……」
「湊斗?! どうしてここに……?」
入ってきたのは、税理士の新井湊斗だ。柏倉は信じがたい気持ちで新井を見つめた。
「新井さんは僕の共犯者です。柏倉さん、あなたをおびき出すためのね」
「!」
「新井さんから聞いた顧問事業場の困りごとをネタに、指南をしていたんですね……。今回も、新井さんから鐘島印刷が適用除外認定を受けたがっていることを聞いたあなたは、"R"として鐘島社長にメールを送った……」
時野は、ゆっくりと柏倉に近づいた。
「そうしたら、鐘島社長から今日控室で賄賂を渡すと返事がきましたよね? それ、送ったの僕です!」
(なに?)
「新井さんを通じて、鐘島社長に協力してもらったんです。つまり――」
時野が柏倉の前に立ち、正面から柏倉を見つめた。
「この控室にカメラをしかけて回収しに来るのは、僕の偽メールでおびき出された"R"しかいません」
(全てこいつが仕掛けた罠――?)
柏倉が新井の方を見ると、新井も唇をかみしめながら柏倉を見つめていた。
(湊斗……)
「それにですね。実は、鐘島社長が賄賂を渡さないといけないような理由は、もうないんですよ。なぜなら、適用除外認定の申請はすでに仕切り直しになったんですから。ですよね? 高光課長」
時野が高光課長の方を向くと、高光は頷いた。
「ああ、うん。適用除外認定のことなら、おととい一旦申請を取り下げてもらったよ」
(取り下げただと?)
「署内で協議した結果、こちらから指摘した点を改善してもらった上で、再申請してもらうことになったから。次申請し直してもらった時は認定できると思うよ」
柏倉は愕然として立ち尽くしていたが――。
「ごめんなさい……」
(え?)
声の主は麗花だった。いつの間にか柏倉に近づき、目に涙をためて柏倉を見上げている。
「私の父のことで……ごめんなさい……柏倉さん……」
「麗花!」
加平が出てきて、麗花の腕に手を添えた。
「私……父の死について調べていて、送検の一件書類を見て……。まさか、被疑者家族が一家心中までしたなんて、知らなかったの……。自分も労働基準監督官になったからわかる。労働者の命に関わる仕事なんだってこと。労働基準監督官だって完璧じゃないけど……父が手すりの未設置を見逃してしまったこと。それが、一連の不幸な出来事のきっかけだったことは否めない」
麗花がうつむくと、ぽとりと涙が床に落ちた。
「どう言ったらいいのかわからないけど……本当に、ごめんなさい」
(麗花さん、そんな顔をしないで……。確かに最初は、黒瀬陣平の家族だからあなたに近づいた。でも、一緒にいるうちに、俺は……)
「違うんだ!」
突然、男が大声で叫び、柏倉も他の面々も驚いて男の方を見た。
5
「麗ちゃん、違うんだ……陣平さんのせいじゃないんだ……」
男は、顔を歪ませながら、絞り出すように声を出した。
「中二階の手すりがないことを見落としたのは、私なんだよ……」
声の主の方を見ると、そこにいたのは――。
「え……?」
皆が一様に驚く中、時野だけが冷静に話し始めた。
「黒瀬陣平さんの供述は、こうでした。私が工場の南側を、もう一人が工場の北側を担当しましたと。墜落災害が発生したのは、工場の南側にある中二階ですよね。だから、これだけなら、南側を担当した黒瀬陣平さんが手すりのことを見落としたと思われた」
時野が男に近づいていく。モーゼの前で海が割れたように、皆が道を開けた。
「でも、そのあとの供述はこうなんです。有機溶剤の保管庫に鍵がかけられていなかったのを私が確認しましたので、私が安全衛生関係の指導文書を作成しました……と。でも、工場の図面をみたら、保管庫があるのは工場の北側なんです」
時野は男の正面に立った。男は、両手で顔を覆っている。
「つまり……本当は、災害発生現場のあった南側を担当したのは法川浩二署長、あなただったんですね?」
皆の視線が法川署長に集中した。
法川署長は、ゆっくりと両手を顔から離した。
「……その通りだよ、時野くん。陣平さんはその監督の主担当で、私は副担当だったからね。自然と、陣平さんが見落としたんだという空気になった。見落としたのは自分だと言おうとしたが、陣平さんがわざわざ言わなくていいと……」
いつも朗らかな法川署長の表情が、今は苦悶に満ちている。
「だけど、段々と事が大きくなっていって。まさか、社長一家が心中するだなんて……。そこまできたら、今更見落としたのは自分だなんて余計に言えなくなっていった。陣平さんの責任がどんどん重くなっていって、真面目だった陣平さんは……」
一同が、息を止めるようにして法川署長の話を聞いている。
「陣平さんは、失望したんだよ。一番かわいがっていた後輩が、自分の罪を陣平さんに被せてのうのうとしていることに」
法川署長は、苦しげな表情で麗花の方を向いた。
「私が陣平さんの心を追い詰めたんだ。麗ちゃん……君のお父さんの命を奪ったのは、私なんだ……」
法川署長は麗花に近づくと、麗花の手を握った。
「せめて麗ちゃんが監督官になった時に、全てを君に打ち明けるべきだった。そうすれば、麗ちゃんが謹慎処分になるようなことには……」
法川は、麗花の手を握りながらその場に崩れ落ちた。
「許してくれ、麗ちゃん……許してくれ……」
エピローグ
7月初旬の角宇乃労働基準監督署は、珍しく穏やかだった。
雨の日は比較的来客が少ない傾向にあるが、まだ梅雨が明けず今日もしとしととした雨天だからか、事務室に入ってくる客はまばらだ。
(あれから1か月経ったのか……)
時野が振り返って署長室の方を見ると、主のいない部屋の電気は消えたままだ。
法川浩二署長は、黒瀬陣平さんに被せられた汚名について説明をする声明を労働局内に発表し、責任をとって辞職した。
突然の署長の辞職によって、角宇乃労働基準監督署はもちろん、K労働局には混乱が広がった。
たくさんの人が法川署長を引き留めようとしたが、彼の決意は固かった。
「全ての法違反を見つけて、全ての労働災害の芽を摘むのは、誰にだって不可能だよ。労働基準監督官も人間なんだ。見落とすことだってある」
時野が署長室を見ているのに気がついて、紙地一主任が言った。
「陸川製作所の件では、確かに不幸が重なってしまったけども……。俺は、法川署長には退職じゃなくて別の方法で汚名挽回してほしかったな」
「……僕も、そう思います」
時野は、法川署長が控室の床に崩れ落ちている姿を思い出していた。
「時野さんにお客様でーす」
受付カウンターの方から、渡辺相談員の声が聞こえた。
「あ、はーい!」
時野が出ていくと、そこにいたのは――。
「お待ちしてました、柏倉さん」
「……」
今日の柏倉大樹は、ネクタイはしめていないものの、ジャケットを羽織ったきちんと目のスタイルだ。
時野が柏倉を会議室に案内し、先に中に入って柏倉を招き入れると、椅子に座っていた女性が立ちあがった。
「柏倉さん」
「!」
入口付近で立ちすくむ柏倉の方に、麗花は近づいた。
「麗花さん……」
「どうして、電話に出てくれないんですか?」
「それは……」
柏倉はなんだかシュンとした様子だ。
(加平さんにけん制しに来たときのイケイケな感じはどこにいった)
「LINEのメッセージだって送ったのに。既読スルーなんて性格悪いです」
「!」
麗花と柏倉の様子を、会議室の椅子に座る2人の男が見守っている。
そのうちの1人である加平は、なんとも険しい表情だ。
(麗花さんを柏倉さんに引き合わせるの、加平さんは反対だったもんな。だからって不機嫌を隠しもしないこの表情……)
麗花に顔を覗き込まれて、柏倉は目をそらした。
「だって、私は麗花さんを……」
「黒瀬陣平の家族として復讐の対象にしたから?」
「……!」
「だけど、法川さんがそれは違うと告白してくれたじゃない。もはや柏倉さんと私や母との間には、問題なんか存在しないんじゃないですか?」
「え……」
「それに、柏倉さんが来てくれなくなると、母の会社が困っちゃうんですけど」
「えっ……! 私に、お母様の会社のお手伝いを続けさせてもらえるんですか?」
麗花はにこりと笑った。
「さっきから、そう言ってますけど?」
麗花の寛大な提案と美しすぎる笑顔に、柏倉は心を鷲づかみにされた様子だ。
柏倉が"R"と称して事業主たちをそそのかした行為については、今後は一切行わないことを約束させて、不問に付すことになった。
(そもそも発端となった労働災害は、監督署にとっても脛の傷。その上、法川署長の辞職という新たな傷もできたことだしな……)
柏倉の様子を見て、黙っていない男がもう1人……。
「大樹さん!」
新井は椅子から立ち上がると、大樹の前に立った。
「僕の連絡にも答えてくれないのはひどいです」
「それは、だって……俺は湊斗のことを利用してたわけで、合わせる顔が……」
柏倉は、見つめてくる新井に耐えられず目をそらした。
「そうですね。顧客の話をあなたに漏洩した……もう僕は今の事務所にはいられないです。どうしてくれるんですか?」
「それは……。本当に、すまない」
すると、新井が柏倉の両腕をガシッとつかんだ。
「責任、取ってもらいます」
「え、責任?」
「そうです! 責任をとって、柏倉・新井経営税務コンサルタント事務所にしてもらいます!」
「え……? ええぇ?!」
新井は満面の笑みで、柏倉の腕に自分の腕を絡めたのだった。
*
新井が柏倉にしなだれかかりながら帰っていくのを庁舎の入口で見送ると、時野は2人の方に振り向いた。
「じゃあ、僕は先に事務室に戻ってますね」
「ああ」
時野が行ってしまうと、加平は麗花の方を向いた。
「麗花は、これからどうするんだ? 基準部長からは、なんか言われてんの?」
「うん、そのことなんだけど……」
2人は立ち話を始めたのだが、庁舎の入口だけに人の往来が多く、込み入った話をするには向いていない。
「さっきの会議室に戻るか」
「うん」
会議室の中に入ると、2人は座るでもなく壁際に並んで立った。
「私、監督官を辞めようと思うの」
「え……なんで」
「んー……。やっぱり私、父のことを知りたくて監督官になったんだと思うの。だから、父の死の真相がわかった今、もう監督官でいることに未練がないというか……」
「……」
「元佐賀巳職安への不法侵入なんかもやらかしちゃったしね」
加平は腕を組んで壁にもたれかかりながら、麗花の話を聞いていた。
「母の調子も不安定だから、もう少しそばにいる時間も増やしたいし、会社の方だって柏倉さんにお任せ状態ってわけにもいかないだろうし」
麗花も、加平の隣で壁にもたれて立っている。
「監督官になってから、父のことにばっかりとらわれてきたけど、父のことはこれで本当に区切りがついたし、これからはもっと、大事な人のそばにいようと思って」
「大事な人……」
「うん。母と、それから……」
麗花は、隣の加平の顔を見上げた。
「麗花……」
2人はしばし見つめ合うと、加平が麗花の耳元に手を添えた。
そのまま、加平が麗花に近づいて――。
次の瞬間、ドンガラガッシャーンと大きな音がしたかと思うと、会議室の奥に積み上げていた長机が崩れ落ちた。
「あっ! いいところなのに、すみません!」
積み上げた机の死角から出てきたのは、時野だ。
加平がゆっくりと時野に近づいていく。
「違うんです! 忘れ物チェックして施錠しようかなーと思って会議室に戻ってきたら、誰か入ってきたので思わず隠れたら……」
加平は時野を捕らえると、ヘッドロックをかけた。
「うぐっ!」
「時野てめえ……盗み聞きとはいい度胸じゃねえか」
(てゆーか、こんなところでいちゃこらする方がおかしいでしょ!)
苦しみながら加平を見上げると、凍てつくような視線が時野の眼球に突き刺さった。
(れ、冷徹王子……いや、インテリヤクザ……)
「か、加平さ……ギブギブ」
加平の腕をバンバンと必死に叩く時野を見下ろす冷徹王子の口元は、いつの間にか少しだけ弧を描いているように見えた。
ー終ー