労働Gメンは突然に season2:第3話「17時までの労働者」〈中編〉
登場人物
*ひとつの話は前編・中編・後編で構成されています。
本編:第3話「17時までの労働者」〈中編〉
§1
中学に入学した年に、花音の母親は死んだ。乳癌だった。
見つかった時には既にステージⅣ。
まだ30代で若かったこともあり、あっという間に癌は母の命を奪っていった。
一人っ子の花音は、父親と2人暮らしになった。
子供の頃から父は毎日帰りが遅く、あまり親子らしい時間を共にした覚えがない。
母親が亡くなってもそれは変わらず、父は朝仕事に行くと夜遅くに帰ってくるので、花音はほとんど1人暮らしのような生活になった。
母親が亡くなって3年後。花音は高校に入学した。
高校生になると、多少は夜更かしもする。
このため、父が帰宅する時間に、花音が起きていることもあった。
夜11時。花音がトイレに行こうと1階に下りてきた時、玄関に座り込む父親を見つけた。
「お父さん、帰ってたの?」
「ああ……」
返事はしたものの、父は動かない。
「お父さん? どうして上がらないの? お風呂、まだ点けてあるけど」
花音にそう言われてやっと、父親は身体を重そうにしながら立ち上がった。
「お父さ……」
花音の声が聞こえていないかのように、父はのろのろと風呂場に歩いて行った。
通り過ぎる横顔を見た時、黒いような青いような父の顔色に花音は驚いた。
(なんてひどい顔……すごく疲れているのかな)
高校生になって、楽しいことが増えた。友達との会話、彼氏とのデート、推しのおっかけ。
正直言って、今の花音にとって、父親と言えば生活費を稼いできてくれるだけの存在だ。
一緒に住んではいるものの、顔を合わせることも会話をすることもほとんどない。
毎月決まった日に、台所の机の上にお金が置かれている。
お金を受け取ると、代わりに「ありがとう」と書いたメモを置いておく。
月に一度のそんなやりとりだけが、花音と父をつないでいたのだが……。
*
その日は、珍しく授業が昼までだった。
そういう日は大抵、友達か彼氏と遊びに行くのだが、友達はみんな予定があったし、彼氏とは最近別れてしまった。
自宅に着いて、玄関の鍵穴に鍵を差し込んで回したが、手応えがない。
(開いてる……?)
泥棒だったらどうしようと、おそるおそるドアを引っ張ると、上り口に父親が倒れていた。
「お父さん!」
「あ……う……」
花音の呼びかけに対し短い言葉を発したものの、明らかに様子がおかしい。
「お父さんしっかりして! すぐに救急車呼ぶから!」
父親は縦浜市内の総合病院に搬送されたが、意識を取り戻すことなく3日後に死亡した。
享年51歳。
(そんな……お父さんまで死んでしまうなんて……)
ほとんど顔を合わせることも話をすることもなかったのに、ただ存在していると言うだけで、父が心のよりどころとなっていたことを、初めて花音は自覚した。
花音の祖父母は父方も母方も亡くなっており、母は一人っ子で、父の年の離れた兄姉もすでに死亡していた。
親族らしい親族もおらず途方に暮れていたら、遠い親戚だという黒瀬麗花が訪ねてきてくれた。
花音の母親と麗花の母親が従姉妹同士らしく、麗花は花音にとって『はとこ』ということになる。
麗花と共に、近所の葬祭場で父の通夜と葬儀を執り行った。
制服を着て父の棺のそばに座っていると、父の勤務先の社長という男が話しかけてきた。
「石山さんの娘さんですね?」
ボストン型の眼鏡をかけた福田というその男は、スタイルがよくて父よりもずっと若いので、花音は驚いた。
「この度は突然のことで……本当にご愁傷さまです。石山さんにはいつもがんばっていただいていたのに、私どもとしても痛恨の極みです」
福田は、懐から分厚い封筒を取り出した。
「お嬢さんお1人では、これから何かとお困りでしょう。お父様の退職金代わりと思って、どうぞ受け取ってください」
花音は差し出されるがままにその封筒を受け取った。
「ちょっと待ってください。そのお金は、一体どういう……?」
隣に座っていた麗花が問いただそうとしたが、福田は立ち去ってしまった。
「ねえ、花音ちゃん。それ、もらっていいお金なのかな? もし本当に退職金としてもらうべき金額なら、こんな形じゃなくて正式に……」
麗花が心配して花音にそう言った時、別の男が話しかけてきた。
「それ、もらっておいていいと思いますよ」
花音と麗花が同時に男の方を見ると、男もさすがに驚いた様子で、慌てて自分の素性を説明した。
「あっ、すみません! 俺、青池っていいます。石山さんの職場の後輩っス」
青池は25歳。3年前に今の職場に入社した時に、仕事を教えてくれたのが花音の父なのだという。
「うちの会社、退職金なんかないんスよ。それが、あのケチな社長が金を出そうと思うほど、石山さんは本当に働き詰めでした」
青池は、福田が去って行った方に目をやりながら言った。もちろん、福田の姿はもう見えない。
「石山さん、心筋梗塞だったんですよね? それってもしかして、働きすぎでなるやつじゃないですか?」
「つまり青池さんは、石山さんが心筋梗塞を発症したのは長時間労働が原因だとおっしゃりたいんですか?」
麗花が問うと、青池は声を潜めた。
「俺はそうだと思ってます。石山さんは、会社に使い倒されて殺されたんスよ」
(父が会社に殺された――?)
§2
事業場名:株式会社FortuneFields 角宇乃営業所
所在地:角宇乃市中央区〇〇町〇〇-〇
業種:飲食チェーン
労働者数:8名
時野は監督対象の事業場基本情報を印刷すると、内容を確認した。
株式会社FortuneFields――花音の父親が勤めていた会社だ。
(角宇乃営業所の労働者数は8名だけど、関東を中心に10の営業所があって、全社的な労働者数は300名。割と規模の大きい企業だ)
株式会社FortuneFieldsの本社は都内のようだが、花音の父親――石山健三は、角宇乃営業所の所属だった。
労働基準監督署には管轄が決まっており、管轄エリア内の事業場でなければ指導する権限はない。
管轄は、事業場の所在地で決まる。
このため、本社が管轄エリア外でも、事業場――今回のケースでは角宇乃営業所――が角宇乃労働基準監督署の管轄であれば、指導するのは角宇乃労働基準監督署ということになる。
加平は、花音と麗花から相談を受けた内容を、すぐに紙地一主任に報告した。
『死亡した労働者は、朝7時に自宅を出て夜11時頃に帰宅していたそうです』
あくまで推定だが、通勤が1時間程度だったとして、仮に朝8時から夜10時まで働いていた場合、休憩1時間を除いても労働時間は13時間。
1日あたり5時間の時間外労働をしていたことになる。
『平日に月20日出勤したとしたら、それだけで時間外労働は月100時間です。その上、土日もほとんど出勤していたそうです』
『それが事実だとすると、かなりの過重労働だな。じゃあ、来月の監督計画に……』
そう言った紙地一主任に対して、食い気味に加平が提案した。
『一主任、今月、俺に行かせてください! 同僚だという"青池"の話では、死亡労働者以外の労働者も同じ状況のようなんです!』
『わ、わかった。じゃあ、加平、行ってきてくれるかな?』
加平が身を乗り出して懇願したので、紙地一主任はのけぞっていた。
(もう! 加平さんは、麗花さんが絡むと前のめり過ぎるんだってば)
普段は『冷徹王子』と呼ばれるクールな加平だが、意中の相手である麗花についてだけは、冷静でいられないらしい。
「準備できたか。そろそろ行くぞ」
「あ、はい!」
加平が官用車の鍵をとって事務室を出て行ったのを、時野は慌てて追いかけた。
「もしかして、今から例の事業場? 帰ってきたら、情報教えてね!」
廊下ですれ違った労災課の若月が、加平にそう言ってウインクした。
若月が『例の事業場』といったのは、もちろんFortuneFieldsのことである。
加平の取次ぎで、花音は労災課で労災申請の相談もすることになった。
石山健三が発症した心筋梗塞などの心臓疾患や脳疾患は、本来、生活習慣などに起因して加齢とともに発症する私病だ。
しかし、長時間労働を行うことによって、自然経過的な発症時期を早めることが医学的に認められており、一定以上の長時間労働を行った労働者が脳・心臓疾患を発症した場合、労働災害として認定される場合がある。
脳・心臓疾患の労災認定基準はいくつかあるが、認定となるケースの大半は、認定基準の1つである『⻑期間の過重業務』に該当する場合らしい。
(『⻑期間の過重業務』と認められる労働時間数は、確か……)
時野は労災課でもらったリーフレット『脳・心臓疾患の労災認定』の内容を思い出していた。
単月で100時間以上の時間外労働
または2~6か月平均で80時間以上の時間外労働
これは、発症前6か月間の時間外・休日労働時間数を評価することになる。
(花音さんの話が事実ならば、労災認定になりそう)
加平が労災課の若月に取り次ぐと、『加平から話しかけてくれるなんて珍しい!』と若月は大層喜んだが、花音のそばにいる麗花を見て、その喜びが吹っ飛ぶほどに驚いていた。
『ねえ、あれって黒瀬麗花よね? 一体どういうこと? ていうか、結局加平とはどうなってるわけ?』
若月は時野の腕をつかんで小声でそう聞いてきたのだが……。
加平は、これまでに2度、同期の麗花にプロポーズしたらしいのだが、返事を保留されているらしい。(season1・第6話)
(確かに、結局のところ2人は今どうなってるんだろう?)
時野は、運転席の加平を見た。
「なんだよ」
加平が、前方を見たまま不機嫌そうな声を出す。
(気になるけど、とてもじゃないけど聞けない!)
「いえ、なんでも……」
時野がおとなしく前を向くと、加平は官用車を加速させて、一気に国道を走り抜けた。
§3
建物の外観を見ただけで、元々なんの店であったのかがわかる場合がある。
1階建ての四角い建物で、上部は四角い帽子を被ったように取り囲まれた、店名やロゴの表示跡。壁はレンガ調――そう、コンビニエンスストアだ。
FortuneFields角宇乃営業所の外観はまさしくコンビニだ。どうやら、閉店した店舗を安く借り上げて入居しているらしい。
「……それが突然来られて、僕もわけがわからなくて。……はい。それなら、提示してほしい書類の一覧というのをもらいました。わかりました、すぐにFAXします。……了解です」
時野と加平がFortuneFields角宇乃営業所を訪問すると、所長の押元が対応してくれた。
ただし、『所長』というのは名ばかりの様子で、労働時間の記録や賃金台帳などの労務管理書類を提示するよう加平が求めたが、何一つわからないと言う。
「所長として従業員の業務のとりまとめはこちらでやっていますが、労働時間とか賃金とか総務的なことは全て本社でやってまして……。今連絡したら、本社から担当者が来るそうですから、少々お待ちいただけますか」
本社からは1時間ほどでやってくるとのことなので、時野と加平は待たせてもらう間に所長から業務の概要などを聴取することにした。
「会社としては飲食業ということになってまして、営業所によって取り扱っている商品は違いますが、うちの営業所では、たこ焼きの製造・販売をしています」
「たこ焼き?」
「ええ。主に、他社さんの店舗前スペースをお借りして販売を行う形態です。スーパーマーケットの入り口とか、ショッピングモールの駐車場の一角で、屋台が出ているのを見たことはありませんか? 『くるりんタコ焼き本舗』というんですけど」
「『くるりんタコ焼き本舗』? あっ、署の近くのディスカウントストアの前で見たことがあります!」
時野が言うと、加平も思い当たった様子だ。
「労基署の近くのディスカウントストアと言うと……もしかして、アトラスさんですか?」
「そうそう、そうです」
角宇乃労働基準監督署の裏手から少し歩くと、『アトラス市場』というディスカウントストアがあり、総菜や弁当の取り扱いもあるので、時野はよくそこで昼ごはんや飲み物を調達していた。
「ええ、アトラスさんでも『くるりんタコ焼き本舗』の屋台を出させてもらっていますね。確か週2回だったかな」
(アトラス市場でたこ焼き屋が出ているのを何度か見たけど、昼ご飯を買いに行ったときはもちろん、帰り際に寄ってもまだ屋台は出ていたような……)
「その屋台というのは、何時から何時までしているんですか?」
加平が質問すると、所長は後頭部を触りながら答えを考えている。
「そうですね……。出店先の開店時間にもよりますけど、大体お昼に間に合うように屋台を設置しますから、11時ぐらいには販売できるようにしますね。終わりは……まちまちです」
「まちまちと言いますと?」
「それは……担当者本人の都合もありますし、出店先のご希望もありますから……」
(ん? どうしたんだろう)
所長は、どうも歯切れの悪い物言いだ。
「それでは、アトラス市場の場合はどうですか」
「えっ、アトラスさんですか? えーと、確か担当は青池くんだから……」
(『青池』って確か……花音さんのお父さんの同僚として、葬儀に来ていたという男性だ)
加平も気がついているはずだが、ポーカーフェイスを保っている。
「アトラスさんは閉店が夜10時ですから……閉店頃までは屋台を出していると思いますが……」
「朝は? 屋台を出すまではどうしているんです?」
「ああ、朝営業所に出勤したらたこ焼きの食材の仕込みです。8時か9時ぐらいから始めます。うちは他の営業所の仕込みも受け持っていますから、2時間ぐらいはかかりますね」
(8時または9時が始業で、夜10時頃に終業するとなると、やはり花音さんの話のとおりの長時間労働だ)
「先ほど、終わりの時間はまちまちという話がありましたが、大抵は出店先の閉店時間まで屋台をするのですか」
「まあ、そうですね……。出店先の方から、閉店まで屋台を開けてほしいと要望される場合が多いので……」
所長は、軽くため息をついた。
「夜ご飯のおかずとか、晩酌のアテとか、夕方から夜にかけてのたこ焼き需要は意外とあるんです。それに、辺りにたこ焼きのいい匂いが漂うと、客を呼び寄せる効果もあるみたいでしてね。ついでに店内で買い物するお客も増えるらしくて」
「平日だけじゃなくて、土日も屋台を出すんですか」
「まあ……そうですね」
「休みは月に何日ですか?」
所長の歯切れが悪いが、加平はどんどん切り込んでいく。
「ええと……それは……」
その時、ガチャリと入り口のドアが開いて、男性1人と女性1人が営業所内に入ってきた。
「押元くん、待たせたね」
男性がそう言うと、押元所長の隣に立った。
「しゃ、社長……」
(えっ! 社長?)
「代表取締役の福田と申します」
40代だろうか。いや、ボストン型の眼鏡がよく似合い若く見えるが、50代かもしれない。
(担当者が本社から来るというから、てっきり総務とか人事の担当者かと思ったけど、社長が直々にやってくるとは……)
さすが、こういうケースにも慣れているのか、加平には動揺が見られない。
「まずは36協定からお願いします。次は、労働時間の記録を」
名刺交換を終えると、加平はさっそく労務管理書類の提示を求めた。
本社から来た女性の方は、実際に労務管理の実務を担当している担当者のようだ。
加平の求めに応じて、36協定や労働時間の記録を持参した鞄から取り出した。
時野も加平と共にまずは36協定に目を通した。
36協定は、時間外労働の最大時間数をあらかじめ労使で協定しておく書類だ。
通常は、月45時間・年間360時間を最大時間として協定できるほか、『特別条項』を締結すれば、月100時間未満・年間720時間以内を上限として特別な延長時間も設定することができる。
FortuneFields角宇乃営業所の協定内容は、次のとおりだ。
(通常)月45時間・年間360時間
(特別条項)月99時間(年6回)・年間720時間
休日労働:月5回
(特に問題はないけど、協定可能な最大時間で締結したって感じだな)
次は、労働時間の記録の確認だ。
FortuneFieldsの労働時間の記録は、専用のアプリによるものらしい。
労働時間記録アプリに社員IDでログインし、出勤ボタンや退勤ボタンを押下すると、その時間が記録されるというものなのだという。
「必ずしも終業時刻に営業所に戻ってくるとは限りませんのでね。時間の有効活用のために、当社では積極的に直行直帰を認めていますから」
社長の福田は、眼鏡をくいっと押し上げた。
口元にはほんのり笑みを浮かべているようにも見える。
時野と加平の前には、角宇乃営業所所属の労働者8名の直近6か月分の労働時間の記録が置かれている。
(えーと、花音さんのお父さんのは……)
加平が他の労働者の分を確認している合間に、時野は石山健三の記録を探し出して手に取ったのだが……。
(え……? これは……)
時野が見ると、加平の眉がピクリと動いた。
「全ての労働者の終業時刻が、毎日17時になっているようですが?」
加平が福田社長をまっすぐに見てそう言ったが、福田社長に動じる様子はない。
「ええ。それが何か?」
「たこ焼きの屋台は、出店している店の閉店時間頃まで出しているのでは? 毎日17時に終えるということはないでしょう」
時野が確認した石山健三の労働時間の記録も、連日17時頃終業という記録になっていたのだ。
(明らかに、おかしい。だけど……)
すると、福田社長はわざとらしく肩をすくめた。
「労働者が自ら勤怠管理アプリを操作しているのですから。それで正しいと思いますが?」
「……」
加平と福田社長はにらみ合うように視線を合わせたままだ。
時野が押元所長を見ると、押元所長は脂汗をかいて小さくなっているように見えた。
「先月、こちらの労働者が亡くなりましたね?」
黙っていた加平が、口を開いた。
「え? ああ……石山くんのことですか?」
福田社長は少し虚を突かれた様子だ。
「ええ。石山健三さんです。その石山さんが、過重労働で死亡したという情報提供がありました」
「情報提供……? なるほどね、そういうことか。こんな小さな営業所に突然労基が来たと言うから、一体何事かと思ったら……」
福田社長は、女性担当者と一緒に合点がいったとばかりに頷きあっている。
「石山さんは、連日遅くに帰宅していたそうです。だけど、この労働時間の記録を見ると、終業時刻はほとんど17時前後。おかしくありませんか?」
加平の言葉を聞いた福田社長の目の奥が、キラリと光ったように時野には見えた。
「ああ、彼が労働者なのは17時までですから」
(えっ? 17時までの労働者……?)
ー第3話〈後編〉に続くー
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