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【ADHD長女の不登校#4】激しい自傷行為から入院まで。

前回の続きになります。

実は、ここから先の話が、うちの家族にとって最も辛い歴史になります。

なので、書くと思い出して辛くなってしまい、何度も書いては削除を繰り返していました。

重たい話で、長い文章になっていますことをご了承ください。

苦手な方はスルーして頂いた方がいいかもしれません。
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初診から3週間ほどが過ぎ、長女は私の田舎に行きたがった。医者にも許可をとり、薬も滞在時に困らないように処方してもらい、2人で私の田舎へ向かった。

私は実家に滞在中もリモートワークになり、日中は長女もゴロゴロしたり、祖母とクッキーを焼いたり、のんびり過ごした。その間、薬をあまり飲もうとしなかった。気にはなったが、飲めるときに飲ませた。

今、思えば、娘が一番薬が自分に合っていない事に気付いていたのかもしれない。

10日ほど滞在し、再び家に戻ると、その日からアームカットが始まった。

それも、以前とは比べ物ならないくらい深い傷のようだった。

たまたま長女の部屋を覗いたときに、まさに切っていた。

「何してんの?」と声をかけたが、明らかに、悲愴感漂っていたと思う。

「いや、別に、何も」

「っていうか、傷、消毒しよう」

「いや、いい。治らなくていい。」

「え?」

「ずっとうつ病でいい。治したくない。」

「えええ??」
(もう、どうにもこうにも悲しい顔をしていたと思う。涙が出ていたと思う)

「お前らが異常。私が正常。だから、このままでいい。」と言って、鋭い眼光で、しっかり私の目を睨んだ。

「あ、、そう・・」(わからない。何を言っているのか、わからない。)

娘が壊れた、そう思った。不安しかなかった。翌週、診察に行くと、

「まだ遠出は早かったかな〜。うつ病は気分転換も疲れるんですよ」と言われ、さらに薬が増えた。だったら、止めてくれよ、と思った。

そして、実家へ連れて行った自分を責めた。毎日、涙ばかりが出た。

そして、処方通り薬を飲ませ続けた。

娘は「自分の体がどうなっていくのかわからない。怖い。」と漏らしていたこともあった。

娘はどんどん壊れていった。日々のアームカットはどんどん傷の数が増え、

最初は隠していた傷も、いつの間にか、隠さなくなった。血がダラダラ垂れている状態で食卓につくこともあった。

長男はその頃、寮に住んでいたので、一番ひどい時の長女を知らないが、当時、妹も、私もみんなそれをみて、食事をするのが困難で、食欲は減退していった。

せめて妹の前では傷は隠すように言って、アームカバーも買ってきた。最初の頃はつけていたが、それもだんだんしなくなった。

長女のアームカットは、夜中にリビングで行われた。切る前か切った後に、睡眠薬をまとめて何錠か飲み、寝る、という感じだった。カッターもそのまま、当時つけていた自傷日記というノートも開いたまま寝落ちしていた。

当然、リビングは血だらけ。ソファーも血だらけ。カッターの刃は最大限に出された状態でそのまま。

毎朝、急いで起きて、次女が起きてくる前にきれいに片付けた。

自傷日記も開いたままだったりしていたので、読むと、

「今日も無意味に生きた。ゴミみたいな日。

早く死にたい。どうやって死のうかな。OD(オーバードーズ)かな。

首吊りかな。あ〜楽しみ。早く死にたい」

ノートにも血がたくさん付いていた。

こんな日々が10日ほど続いた。私も深夜のカッター音で眠れなくなっていた。

ある日、買い物に行く、と行って出かけてきたが、帰ってきたら、

「ひも、カッター、カミソリ」を買ってきていた。

さすがにひもはヤバイと思った。医者に相談したら、カウンセリングしましょう、となり、数日後にカウンセリングを行ったが、見事に失敗した。

親がひもなどを購入してきたのを見つけてしまった、ということを、出だしに話してしまうという凡ミスをしてくれた。

愕然。しかも、リストカットはいけないとか、命は大事だとか、自分の体を傷つけるな、とか、、、多分、逆効果になることばかり言っていた。そもそも私の同席だった。途中で私が気を遣って席を外した。

本当に、最悪なカウンセリングだった。

帰りに、長女は言った。

「カウンセリングなんて2度とやらない。リスカやるなって言ったよ、あいつ。最悪だよ。そんなことより、ODできる薬買って」

返す言葉なんか何も見つからなかったけど、

「それは買えない」とだけ言った。

私は毎日、泣いていた。でも、リモートワークは毎日やった。

もう、どうやって精神を保てばいいのかもわからなかった。

毎晩のように聞こえるカッターの音。明け方の荒れたリビング。
もう、私は精神が崩壊しそうだった。寝れないけど、次女は普通に学校へ行くという日常生活を同じ家で行っていた。バランスが保てなかった。

そんなある日の深夜、とうとう事件が起きた。

家の階段を急いで降りる音が聞こえた。なんだろう、、と思った。
しばらくすると、旦那が
「長女のうめき声が聞こえて部屋に行ったら、首吊ってた。ひも切ってなんとか助けた。」と言って、辛そうに泣いていた。

もう限界だと思った。それから3日間続けて同じことが起きた。3日目は日曜だった。月曜にはいつもの病院へ連れて行こうとしていた。なので、この日までは生きていて、という必死の思いだった。

その間も、激しいアームカットは続いた。骨まで見えている傷もあった。
深夜に睡眠薬を頓服までまとめて飲んで、泥酔したような状態でよく誰かと話していた。聞きたくもない内容も話していた。私の寝室まで聞こえてきた。

薬の管理は親がするべきだったが、それを長女に話したら、激昂した。
暴れて大変だったので、1日分だけ置いておく、というやり方にしていた。

夜間の精神救急にも相談した。でも、その後の行く末を考えたら、救急で病院へは連れていけなかった。最悪は、警察に電話をするように言われた。

深夜に、長女に泣かれた。

「早く、死にたい。もう死にたい。殺して。早く、殺して。」

「できない。そんなことできるわけない」と私も泣くしかなかった。すると、すぐに顔色が変わり、鋭い目つきになり、

「じゃODできる薬早く買えよ。死んでほしくないんだろ?じゃ、早く買えよ」

「それもできない。買えない。」

今でも、あのときの顔が頭にこびりついて離れない。

なんとか、死なずに週末を乗り切り、事の顛末を話した。ようやく医者も、

「入院する?」と娘に切り出した。

「絶対、いや!」

断られた。本人の同意がないとねぇ、、、と言われた。

さらに頓服まで処方されたが、もう薬は取りに行かなかった。

薬局に行くたびに、ODの薬を買うように娘に怒鳴られた。
その日の病院の帰りも、旦那の迎えの車を待つ間に、何度も怒鳴られた。

病院から家に帰ると、長女がキッチンで包丁を探していた。

包丁はこの頃は、料理するときだけ出して、あとは隠していた。

包丁がないとわかると、今度は上の階へ行った。

なかなか降りてこないので、胸騒ぎがして、上に行くと、ベランダから飛び降りようとしていた。

必死に、体を掴んで、部屋までひきづり込んだ。そして、暴れた。

ちょうどそのときに、コンビニに行っていた旦那が戻ってきた。

暴れる長女の体を旦那が掴んで、「警察電話して」と言った。

私ももう、これ以上は無理だと思い、警察へ電話した。

警察が来て、1時間ほど説得し、警察署に行き、その後入院できる病院を探すことになった。娘は警察の車で警察署へ向かった。

私たちは自分たちの車で警察署に行った。何時間待ったんだろう。。

慣れない警察署の片隅で2人で泣いたり、過去を振り返ったり、泣いたり、泣いたり、だった。唯一の救いは、この出来事が、次女が学校へ言っている間の出来事だったことだ。

そして、とうとう入院できる病院が決まった。

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やっぱり、書いてると辛くなりました。

旦那は、あの3回の行為によって、今でもPTSDのようになっています。
私も実は、未だにそれに近い状態です。思い出して過呼吸になってしまったりするので、あまり思い出さないようにしていますが、無理な時もありますよね。

私の病院選び、どうしてセカンドオピニオンを求めなかったのだろう、なぜ、薬を使わない選択をしなかったんだろう、、。自分の体が怖い、と言っていた娘のあの訴えを、行動に起こせば良かった、、結局、入院した病院で、あの希死念慮、自殺企図は、薬の副作用によるものの可能性が高いとわかりました。特に、特性のある小児の年齢の長女には非常に危険な薬だったようです。

※薬の効果や副作用に関しては、個人差があります。あくまで特性のあるまだ13歳だった娘に対して、という事です。

今でも、それを考えると自分を責めずにはいられません。娘の腕にできている無数の傷や、病院で受けたトラウマ、を思うたびに、どうしても自責の念でいっぱいになってしまいます。私自身も消えたくなります。私はまだ自分のその部分と、どうやって向き合ったらいいのか模索中です。

長い文章、最後までお付き合い頂き、ありがとうございました。





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