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自己紹介

はじめに

迷走を続ける本アカウントでは、まともに自己紹介もせず、小説家気取りの回顧録や、謎の行動記録を垂れ流しており、よくわからない状況になっています。執筆者である私がその状況なので、読者が定着するわけがありません。今までのように適当に駄文を垂れ流していてもしょうがないので、改めて自分が何者なのか時系列でまとめようと思います。どのような方に読んでいただき、そして応援して欲しいのかペルソナを明確にするためにも、いま一度気合を入れて書きたいと思います。よろしくお願いします。

基本情報

  • 名前:MasaO(まさお)
    https://www.instagram.com/themasao1129/
    本名は別にありますが、関わるみなさんのほとんどがこの愛称で呼ぶので、マサオで覚えてください。Oが大文字な理由はこだわりがあるっぽい雰囲気が出ているからです。正直MasaoでもmasaoでもMASAOでもいいです。というより自分でもその時の気分で書き分けてます。でもnoteではMasaOがいいな、なんて思っています。

  • 出身地
    熊本県熊本市

  • 生年月日:1988年11月29日(いい肉の日で覚えてね!)
    食肉関係のセールやキャンペーンと重なることが多く、肉好きの身としてはとても嬉しい誕生日です。宮崎県高鍋町出身のRAPPER、GADOROさんやシンガーソングライターの尾崎豊さんと同じ誕生日です。

  • 年齢:35歳

  • 職業
    DANCER / DANCE INSTRUCTORがメインの仕事で、妻と共にダンススクールを運営しています。そのほかPhotographer / Videographerとしてダンス舞台の撮影やダンス映像の制作を行なっています。

  • 趣味
    DANCE / 写真 / 映像制作 / 寺社仏閣巡り / 博物館、美術館巡り / 食べること / 景色を眺める / 歩く / トレーニング / 古いものを見る所有する / 車全般

  • 特徴
    短気 / 感情的 / 気分屋 / 飽き性  

  • 家族構成
    妻 / 娘 / 息子/ 私

  • 好きな食べ物
    カレー / 豚バラ / さつまいも / ジャガイモ / 妻の料理

  • 座右の銘
    前言撤回

ダンスとの出会い

小学生の時に見たDA PUMPの「Rhapsody In Blue」に衝撃を受け、ダンスのかっこよさにのめり込む。ただ、当時自分の足元が見えないほどの肥満で、ダンスを踊れるレベルの体型ではなかった。

いやいや回し蹴りとか確実無理だし。今見てもいろんなジャンル混ざってて結構動き激しいからやばいな。

と思っていたら、シッキンのKAZUKIさんたちが踊ってた。これにはびっくり感動した😭

とにかくDA PUMPかっけーって思って小学生時代を過ごし、ダンスを習ったり踊ったりすることはなく、憧れ抱き続けてました。

学祭でダンスを踊ることに!?

なんと進学した中学校の同じクラスに、DA PUMPのヘアメイクを担当する親戚がいるというT君がいたのだ。ダンスは習っていなかったがDA PUMPの踊りを完コピしまくっていて、かなりの完成度で踊りこなしていた。私の通った中学校では3年生になると学園祭で大きな出し物をやって良かったので、映画「天使にラブソングを」のJoyful,Joyfulの構成をオマージュし、振り付けは彼を中心に作って発表した。

この時に初めて人前で、ストリートダンスを踊った。
声援も嬉しかったが、何より憧れ続けたDA PUMPみたいな踊りをできたことに心から感動したことを覚えている。その後EXILE、W-indsなどダンスボーカルグループがどんどん人気になり、PVが映る番組をビデオに録画しては、家族に隠れて夜な夜な見ていた。
特に見ていたのはこの3曲

song for youでめっちゃボディーウェーブを練習した。

Paradoxでシェイクやりまくった。

ifでタットが理解できなくて泣いた。

少年チャンプルが始まる

中京テレビの制作でDA PUMPや鈴木紗理奈さんが司会を務める「少年チャンプル」なる番組がスタートした。テレビの視聴可能時間がハウスルールで21時までと決まっていたが、私がダンスが好きなことを知っていた母親がいつも深夜にも関わらず、この番組を視聴することだけは認めてくれていた。
ありがとう母ちゃん。
今思い返すと、三浦大知、クリスブラウンなど信じられないゲストも出演していたし。今をときめく有名ダンサーたちがKIDSの時に出演したりしていた。もちろんBe Bop Crewの坂見誠二さんもご意見番として登場しており本当にレジェンド級の番組だった。

特にこの回はぶち抜けてやばかったし、本場のダンスを初めて見たって衝撃が大きかった。少年チャンプルに多大な影響を受けながらも、やっぱ男ってぐるぐる回れたほうがカッコいいやん?っていう単純な理由でブレイキンをコツコツ練習し始めるのであった。

ウィンドミル回れるようになった

高校時代にはインターネットの掲示板とかでブレイキンをやっている人を探しては連絡をとり、部活が休みの週末を狙って時には自転車で片道1時間半ほどかけて練習場所に行っていた。やはり人に習ったり、一緒に練習をすると上達が早いもので、半年ほど全くできなかったウィンドミルが2ヶ月程度でできるようになった。学校外での交友関係が広がったことで、日常がとても豊かになった気がした。この頃少しいじめられたりもしていたが、そんなこともあまり気にならないほどダンスは私に力をくれていた。

ダンスサークルに入る

大学に進学が決まり、サークル紹介でダンスサークルのパフォーマンスがあるというので見に行っみた。いろんなジャンルを踊る先輩たちに感動し、すぐに入ることを決意。同年代のダンサーに刺激を受けながらLOCKI’N,BREAKI'N,HIPHOP,HOUSEを学び練習した。この頃特にハマったのは90年代HIPHOPとNew Jack Swingだ。大学内外でチームを組んだり、県外のバトルやコンテストにチャレンジしたり、ダンス三昧の毎日だった。
ダンス三昧しすぎて、ダンスで生きていくことを志始めた。そして、3年生に上がるタイミングで留年が確定したので、大学からフェードアウトした。
この時代はYouTubeも出てき始めの頃だったので、少し動画が残っている。

卒業していないが、卒業パーティーを主催した時の動画C.I.MというNew Jack Swingのチームを組んでいた。見えにくいが赤っぽい衣装が私だ。
C.I.Mのメンバーも入っている若手で構成された、South Side Selectionというチームにも所属していた。

時代を感じる。この時期までは踊る肉団子というダンサーネームで、太っているのに動けることを売りに名前を売っていたが、純粋に太っているとカッコ悪くね?と思い痩せることを決意。この時のMAX体重が90Kg。痩せるきっかけとなるできごととは。まだまだ続く。

MasaOロサンゼルスに行く

大学をフェードアウトして数年、HIPHOPといえばNYだろ!と思いNYに行く準備を進めていたところ、ロサンゼルスに行かないか、と誘われたことがきっかけにLAに行くことにした。この頃はミレニアムとデビーがメインで、私はミレニアムに入り浸ることになる。いわゆるコマーシャルHIPHOPのような踊りや曲はなんとなくミーハーな感じがしていたし、太っている自分には合わないと思っていた。しかしそんな思いは秒で覆される。時は2013年このアルバムが出た頃だ。

どうしても動画が見つからないのだが、このアルバム7曲目「That Girl」を使った、JR.Taylorというダンサーのレッスンを受けた。

キレのあるシンプルで無駄のない動き、さりげなくセクシーさを醸す体のライン。どれをとっても新しい発見しかなく、とにかく90分のレッスンを貪るように受けた。ただ、どんだけ頑張っても鏡に映る自分の姿が、テケテケ動く子豚のようにしか見えず、情けない気持ちがとてつもなく押し寄せた。この時決めた。「まじで痩せよう」と。一週間程度の滞在の中で受けられるだけ彼のレッスンを受け、とにかく記憶に焼き付けた。そしてその情熱を元に、帰国後2ヶ月で10キロ減量、半年で20キロ減量させることができた。人生で本気になったのは、あれが初めてかもしれない。痩せると体への負担も減り、ダンスが今まで以上に楽しくなり上手になった。もっともっと上手になりたいと願うようになり、次の年も、2年後も4年後もダンスの勉強をしにLAに行った。メンターと呼べるダンサーにも出会い、地方に住んでいながらでも最先端のダンスを学び、自分のスタイルに取り入れ活動することができた。LAに行くようになり、日本だけではなく海外にも友人ができたことは、言葉を超えたダンスによるコミュニケーションがもたらした最大の恩恵である。ダンスはいつも私の人生を豊かにしてくれている。

ちなみに私のメンター(勝手に私がそう思っている)はTony Tzarというダンサーで、映像作品にも少しだけ参加させてもらった。体の使い方や表現に対するインスピレーションは今でも彼の影響を受けている。

妻との出会いそして結婚

妻とは同じダンススタジオでインストラクターとして働いていた。
私とは違い、小学生からダンスを習っており、この道20年越えの大ベテランである。ジャンルはJAZZとHEELSが専門である。感受性豊かな人柄から生み出されるダンスは、人の心を動かすものばかりで本当に尊敬してやまない存在だ。私が2回目LAに行く時に一緒になり、そこから少しずつ互いに意識し始めて交際期間2ヶ月を経て結婚に至った。時期を同じくして妊娠もわかり、私が27歳と妻が24歳という若さで親にもなった。当時も今も変わらず話の中心は子どものことかダンスのこと。ダンスに対する考え方では、お互いが譲らず喧嘩になることもたまにあるが、妻の感性と女性としての視点は学びが多く、いつも感心させられる。愛情と同時に尊敬の気持ちもあるのでこの先も私にとってずっと必要な存在である。

コロナと独立

コロナをきっかけに、ダンススクールなどの人が集まる場所は大いに規制された。自分たちの意思ではどうにもならない状況に追い込まれ、私たちは疲弊した。さらには家族全員がオミクロン株流行のタイミングで感染し、10日ほど外に出ることもできなかった。この出来事がきっかけに、自分たちの力で生活できる基盤を作ることに真剣に向き合った。今までお世話になった場所を離れることはとても勇気のいるものだったが、自分たちでコントロールできる人生を求め、独立を決意した。

法人設立とその決意

私たちはダンススクールを運営する夫婦として法人を設立した。個人事業主でも問題ない規模であったが、今までたくさん助けられてきたダンスの力で、法人として利益をあげ、その利益を社会に還元していきたいという思いがあった。妻は出産後自身の体型やマインドの変化についていけず、心が弱っている時期があった。そんな時HEELS(ヒールを履いて踊るダンスのジャンル)に出会い、女性としての強さや誇りを取り戻すことができた。HEELSを通して同じような悩みを持つすべての女性を救おうと活動している。また、妻自身が幼い頃からしっかりとダンスを指導してもらえたことで、やりがいのある仕事として20年以上もダンスができている。こちらも同じように子ども時代からしっかりとダンスが学べるダンススクールとして、KIDSの育成にも力を入れ、これからの世の中を自分らしく生きていける子どもたちを育てる活動も行なっている。一方で私は、ダンスを通して人生の全てが良い方向に進んでいると感じている。人生を決める大きな決断も、QOLの向上も、ダンスがなければ全て成し得なかったことである。心身を健康的に成長させ、人生を豊かにするダンスは、誰からも制限されることなく、誰もが学び楽み、共有できるものだ。「ダンスを通して生活を豊かにする」このビジョンを実現するために、私たちは法人を設立した。

最後に

自己紹介と言いながら、またも思い強めの文章になってしまいました。少しは私のことが伝わったでしょうか。MasaOはこんな背景でダンスを始め、こんな思いで妻と一緒にダンススクールを運営しています。これからもっと多くの方に届くように、これからの活動も頑張ってまいります。応援をどうぞよろしくお願いいたします。







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