見えない世界との出会い(ほぼ千4)
とある交流会に参加した時のことである。私の右隣に座っている人が全盲のTさんという人だった。彼は60代なのだそうだが、見た目は40代後半。そして声がとても通る人だった。眼球もこちらをしっかりと見据えて話しかけてきたので、最初は全く目が見えない人だとは気づかなかった。
会が始まって、みんなでお弁当を食べ始めた時のことである。私は自分が恥ずかしくなった。右隣の彼に向かって座っていた女性が、その全盲の人にお弁当の説明をし始めたのだ。「12時の方向にあるのがポテサラで、10時の方にハンバーグがあります。」とか、「右下にあるのが白いご飯です。」といった感じ。
なぜか私は自分がちっぽけな存在に感じて、恥ずかしくなってしまった。不思議なことだが、全盲のTさんに私の一番ピュア?な部分を触れられた様な感覚に陥った。
Tさんはこうも言っていた。「見えない人に対して何でもやってやろう、という態度は、人を人として見ていない。お人形扱いしてるようなものだよね。」
我々は、視覚障害者に限らず、障害者は特別な存在だという意識が強い。それが悪い方に偏れば「差別」にもなると私は思う。
ところが、このTさんとの出会いの後、書店に入って見つけた本で、結構いいことが書いてあったので紹介したい。
本は、伊藤亜紗『見えない人は世界をどう観ているのか』だ。本文の主張の一つを要約すると、「「特別視」ではなく、「対等な関係」ですらなく、「揺れ動く関係」」を目指していくというものである。そしてこの先の文句もとてもいい。「福祉的な見方ではなく、「面白さ」でつながる関係」といったことを書いておられる。
これには単純に目からウロコが落ちた。ちょうど私が恥ずかしくなって得た感覚が新鮮な状態だったからかもしれないが、「揺れ動く関係」とはまさにこのことではないか、と思ったのだ。そして私は、その関係を面白がるという感性の部分も気に入った。
福祉的に真面目に捉えすぎると窮屈になる場合が往々にしてある。それが「対等な関係」という感覚に近いかもしれない。だが、伊藤さんはそこをひっくり返して「揺れ動く関係」を目指して、面白さへと昇華させている点も脱帽だった。
話は本の方に逸れたが、Tさんとの出会いは、私を少し変えた様に思う。それは「ありのまま」でいいんだという様な感じだろうか。それと自立とは何だろうということについても考えるきっかけになった。
Tさんに感謝して今回は終わります。ありがとうございました。