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セカイガタリ読書(戯言13)
日曜、体調が良いので音読読書。
松岡正剛『擬』(春秋社)の、第六綴「レベッカの横取り」を読む。
ルネ・ジラールが『世の初めから隠されていること』で暴いた、レベッカの横取り。
これが、「模倣」にもあたるのではないかという指摘。(模倣≓擬?)
なるほど、横取り資本主義、レベッカの資本主義がユダヤ・キリスト教圏で繁栄した経緯が読むことで分かってくる。
とすれば他方、経済ではなく、芸能で繁栄した東洋の文化のうち、(松岡さんも書いているけど、)世阿弥の「物学」(ものまね)が模倣を基本としたこともなんとなく合点がいく。
模倣や擬は、世の初めから隠されてきたものだったのだ。
つまり、横取りすることで我々は経済発展してきたし、文化伝承も技術継承も次の世代への財産としてきたのだろう。
では、なぜ、東洋は文化伝承や技術継承を隠す必要があったのか。これが次の謎である。
そして、なぜ完全には隠さずに、一部の人は知っていて、松岡さんのような人がいて、こういった機会にオープンにしていくのだろうか。
それが何か社会的な意味を持っているのか、なにかの機能であるのか、隠されたものってどんな影響を及ぼすものなのか。
それとは別だが、遺伝子を完全にコピーして次世代へ継承できない人類の生物的宿命をおもう。
それは、横取りをせざるを得ない宿命とでも言えそうだが、本質が「奪うこと」って人類同士の争いからしても、ちょっと悲しいというか。
生物的事実はそうだということか・・・。
今日の読書、続きを読んで考えを深めたいと思う。消極的落とし所ではなく、積極的理解を掴み取りたいし、考える「手すり」がもっともっと欲しい。
それでは、今回の戯言はこの辺で。