
【300字小説】人さらいの季節
春はひとを連れ去る。あまりに容易に、その風の強さに任せ、次々と連れて行ってしまう。
残されたわたしたちは突然のことに泣いて泣いて、あまりに泣いて涙が枯れて、ただ呆然とするばかり。ぼんやりしたまま天を仰いで、春に消えたあの人を想う。
するとやがて流した涙のお返しみたいに、春の雨が降り注ぐ。それはあたたかくやわらかく、地上のわたしたちの頬をなぜる。何かしなくてはと、ほんのり甘いお茶を淹れて、喉を潤し息を吸う。
戻らねばならぬ生活が、ほらまたすぐそこに在る。ほんのひと時の感傷の後、繰り返す日々に向き直す。そうやってやっと正気に還る。そんな風にしてわたしたちは涙降る春を超え、また続けることを続けていく。