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概説・零式艦上戦闘機 その1

早朝から、プロフィールを更新して一応はライティング案件の募集を始めたわけですが、それが理由ではありませんが一つ朝から書くことにします。今日は皆さん語っておられるように1941年にパールハーバーの奇襲攻撃が行われた日で、それについて改めてここで書く必要もないと思いますので、今回は「零式艦上戦闘機」について軽く書くことにします。

零式艦上戦闘機、略称はゼロ戦または零戦ですが、実は当時の海軍ではゼロ戦の呼称が一般的だったようです。皇紀2600年(西暦1940年)に制式化されたため零戦となっています。試作開始は、昭和12年に出された「十二試艦上戦闘機」の開発計画から始まり、三菱重工では堀越二郎が設計開発を担当しました。

要求諸元の細かいことまで覚えていませんが、当時としては極めて過大と言える高性能を要求され、時速500km/hおよび20mm機関砲の装備、加えて先代の96式戦闘機に相当する格闘性能、および台湾から中国大陸への飛行が可能となるような長大な航続距離、などでした。これらを実際に担当する堀越二郎は大変苦悩しましたが、先代の96式戦闘機を完成させた経験から開発を進めることとなりました。

1939年に試作一号機が完成しますが、これに至るまでには各種の紆余曲折があり、当時の欧米の趨勢を踏まえて速力優先にすべきか、現地の戦闘員や将校の見解に基づき格闘戦指向にするか、など様々な問題が提起されました。武装についても運用目的から20mm砲が本当に必要かなど各種の議論がなされましたが、その過程を踏まえて堀越二郎によりほぼ諸元を満たす試作機が完成となりました。

特徴は、96式戦闘機から継承する機体全体に及ぶ枕頭鋲の採用などによる空力的な徹底した洗練、要求諸元の航続距離を満たすための翼内タンク、流線型の増槽、そして翼内装備の20mm砲二門に機種に7.7mm機関銃二丁、といった感じで、加えて機体全体に徹底的な軽量化加工を施されました。具体的には、機体強度に影響しない箇所は徹底的にくり抜かれ、重量は確かグラム単位で管理されたと思います。

これにより完成した試作機は、速度で若干要求を下回りましたが、その後のエンジンの換装などにより諸元をほぼ満たすこととなり、指摘事項を踏まえた各種の措置を施した結果、先述の通り1940年に制式化されました。先だって、12機の試作機による実戦投入が中国大陸で行われ、この時迎撃に来た国民党政府軍の27機のソ連製戦闘機を一機の損失もなく全て撃墜し、戦力としての有効性が大きく示されました。

制式化後、まずは一定数の量産機が生産され、空母に搭載して艦隊戦力として実用化されました。こうした部隊が、83年前のパールハーバーで実際に戦闘に参加し、そこでも米軍機を圧倒してその有効性を示しました。

その後、フィリピン、東南アジアなどの各地で空母および陸上基地に配備されたものが日本海軍の中心戦力として活躍し、米側から「Zeek」の呼称で恐れられ、太平洋各域で日本側が制空権を保持する原動力となりました。

長くなりましたので、今回は「前編」としてここまでといたします。実はミッドウェー海戦とほぼ同時期に行われたアリューシャン方面での作戦で、不時着機が米軍により鹵獲され、それに基づいた研究の結果米軍側は有効な対零戦での航空戦の戦い方を編み出しました。また、米軍側が投入する戦力の内容も変化していったことから、その後の顛末はやや悲劇的な展開となっていきます。それについては、機会あれば別稿で改めたいと思います。以上です。

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