祖父のあの表現はなんだったんだろう〜小さな個展と大きな個展・石岡瑛子展〜
私には珍しく、パフォーミングアート以外に立て続けに2つアートに触れた。
ひとつが、沙羅リカさんの個展。光の中の再会@経堂アトリエ。
もう一つが、石岡瑛子展@東京現代美術館。
どちらでもふと思い出したのが、私の祖父の作品だった。
祖父は画家ではなかったけれど、私が物心ついたころには油絵を描いていた。離れの一室が小さなアトリエになっていて、油絵の具の匂いがぷんぷんしていた。夏休みや年始に行くと、その部屋を覗きに行ったものだった。
いつも行くと私たち家族が寝る部屋にも大きな絵が飾ってあった。アフリカの黒人が3人で市場で籠を頭に乗せて、手に持って笑っていた。その肌の質感、歯の白さ、解放された自由な笑顔は未だにはっきり覚えている。
当時の自分の身長より大きな号数の絵だったから、部屋は油絵の具の匂いがした。
沙羅リカさんの個展の会場は小さなアトリエ。黒い布で光を遮断した小部屋に、一枚の油絵。渡された小さな小さなランタンをかざすと、絵の周りに広がる黒や白の壁に言葉が見えてくる。
ひとことずつ。
あちこちに。
目を凝らし、集中しないと見えてこない。
ひとつひとつが、そうそう!とか、こういうことに共感するのか、とか、余さずかみしめたくなるものばかり。
薄く漂う油絵の香りとともに、神経が研ぎ澄まされ、脳みその余白が広がっていく。
リモートワークになってから、でパソコンに向かって話しかけ、パソコンに向かってテキストでメッセージを送り、パソコンにむかってなにかを作る毎日。脳みそがパソコンに向かってどんどん濃密になって、凝り固まって、溶けない感じがある。
そんな脳みそがゆるんでいく。
同時に忘れていた祖父の油絵の表現が頭に蘇ってきた。
そして、昨日行った石岡瑛子展。
もともと資生堂アートディレクターであった彼女の功績をよく知らず、私が知っていたのは舞台美術や衣装(ブロードウェイの「スパイダーマン」が記憶に新しい)の人として。
展示の最初は資生堂のホネケーキの広告から。それ自体もだけれど、その色校への赤入れ展示に度肝を抜かれた。
細かい…。そして、具体的に見えて抽象的…。
マイルス・デイヴィスのアルバムのデザインでも
マイルスの顔のシャドウがないなら、この写真は写真として成立しない!
(うろ覚えなのでご容赦を)
との赤字。ものすごい圧の赤字。
赤鉛筆の軌跡がトレーシングペーパーの上で意志を持って存在していた。
この意図を読み取り、当時の印刷技術で出していかねばならない印刷屋さんの苦労と凄さ。
そして、「Mバタフライ」。
舞台に配置されたこの大きなスロープ、今では目新しくもなくなった美術だ。「ライオンキング」にもあるし、スロープの太さ高さを変えて、最近よくみる。
でもMバタフライのスロープ、置かれた赤い椅子のバランス。その中で演じる役者(古い映像ゆえにまったく鮮明ではないけれど)の気迫。ずっと観ていたい、何かを感じていたい。
何人もの人たちがその場に入っては出て行くのを感じながら、私はしばらく動けなかった。
あらゆる展示に凄みを感じて、出る頃には酸欠状態だった。
ただ、展示の中でひとつ、涙が浮かんだものがあった。
PARCOのポスターだ。青空の元、黒人の女性3人がそれぞれ子どもを抱いて砂漠に立つ「あゝ原点」。母としての自信に満ちた3つの眼差し。
祖父の絵がたちまち蘇ってきた。絵のもつ力強さが、40年近い年月を経て蘇ってきた。
間違いなくPARCOのポスターのほうが先に存在した。1970年代後半。
祖父はアフリカ(どこだったんだろう?)に行ってからこの絵を描いたと聞いている。おそらく描いていたのは1980年代半ばか。
もしかしたらこのPARCOのポスターの表現に影響されたのかもしれない。そうではないのかもしれない。あの絵を通して祖父はなにを表現したかったのだろう。日本では感じられない生命力だったんだろうか。
もうこの世にいないから尋ねることもできない。
そんな後悔と、懐かしさで、マスクに隠れて思わず嗚咽した。
パフォーミングアート以外のアートに興味を持たない私に、祖父が何かメッセージを送ってくれているのかもしれない。
石岡瑛子さんの展示をこのレポートで再び噛み締め、
石岡さんの生前の人となりを松岡正剛さんの文章で改めて噛みしめる。
そして、沙羅リカさんの展示にあった言葉を思い出す。
その言葉は、あの場所で感じたいもの、ネットで安易に検索で引っかかったりしてほしくないものだから、ここには書かない。
そんなバレンタインデーの朝です。
どちらの展示も今日までだなぁ。