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【No.101】私の体験談:70-80年代の人工衛星による写真解析、多国籍企業、コンサルタントとしてのエピソード等

前回【No.100】はインテリジェンスを扱い人工衛星写真に触れたので、今回は衛星写真の解析について論じ、45年ほど前の日本状況や私が体験した昔話を紹介し、技術の変化と発展の驚異を示したい。その頃はケイタイもなくパソコンは試作の段階でアップルが Lisa を開発したが、一台が何と一万ドルもし庶⺠には高嶺の花であリ、IBM-360 とパンチカードが君臨していた。

今から見ると昔話だし驚く若者も多いだろうが、アポロ11号が月面到着に成功し、米国が宇宙に乗り出して10年後だから、資源衛星の写真の活用は最先端の仕事に属していた。そんな体験談については、コメントメール6として、『日本のゾンビ政治の病理』に収録したが、その時の情景一端を紹介すれば次のような記述になる。

<・・・1970 年代末の頃ですが、人工衛星を使った探査に関し、関⻄経済同友会で 講演し後で、同じ話を自衛隊の陸将から防衛大学校の学⻑に話して貰えないかと頼まれ、私はて浦賀に行きました。そして、二時間ほど解説した後で昼食を食べて欲しいと言われ、「わが校の学生たちには、三割の⻨飯ご飯や柔道と剣道の訓練により、厳しく鍛えている」と言われたが、人工衛星が飛び交う時代に、何たる時代錯誤かと呆れた話は、『教育の原点を考える』に書きました。 その時の土田国保校⻑は警視総監をやった人で、真面目な性格で知られ剣道七段の達人だったが、自衛隊が「ポリ公発想に支配されていた』のでは、日本の安全保障はダメですね。・・・>

『日本のゾンビ政治の病理』


1970年代の末の日本は経済大国と評価され、ハードの面では実力をつけ、「Japan as Number One」と褒められて、いささか得意になったがソフトでは脆弱であり、多くの弱みを克服できなかった。また、1980年代には経済摩擦が経済戦争に移行したから、布陣に日航123便事件を使いプラザ合意を仕立て、日本にバブル経済を仕掛け中曽根内閣がそれに乗せられていた。


そんな頃に独立した私は十年勤めた多国籍石油企業を辞め、コンサルタントとして独立した後でカナダから米国に移って、石油開発会社を立ち上げたが、パートナーの一つがサントリーだった。それには妙な因縁があり、事情を物語っている記事が『地球発想の新時代』の中にあるので、脱線するがエピソードとして、その件についてお喋りをしてみよう。

<・・・今ならばもう時効みたいなものだから、公表してもかまわないと思いますが、ある時期 から日本のサントリーが、石油開発ビジネスのパートナーになっています。そのきっかけをお話  しましょう。一九七十年代末のことです。
ロッキー山脈の景観で有名なバンフには、スプリング・ホテルの対岸にバンフ高等芸術学が あり、北米全域から選抜された奨学生を対象にした、夏季講座が毎年開催されているのです。 当時オンタリオ州の大学で教えていたチェリストの堤剛さんは、夏になるとこのバンフに講師として教えに来て、よくわが家にも泊まりがけで来てくれました。その堤さんがサントリーの佐 治会長のお嬢さんと結婚したのです。
そんな関係もあり、佐治さんの家族とバンフで会食したとき、日本の政治的混迷と経済界の 不見識をかなり痛烈に批判しました。家族的な雰囲気で過ごす食卓なのに、場違いの議論が始 まったものだから、佐治さんも辟易したのでしょうね。「そんな話は私にだけしないで、大阪に来て皆に聞かせてください」と言われて、私は次に帰国したときに連絡をすることを約束し、そ れが翌年の関西経済同友会での講演として実現しました。
そのときの縁でサントリーが石油開発に関心を持ち、パートナーになりましたが、私がやりかけていたベンチャー・ビジネスは、機敏な行動力と素早い決断が生命力であり、サントリーの ような大組織には不向きです。・・・>

『地球発想の新時代』


こんな具合で計画は始まり、50本ほと石油井戸を掘って、私は渡米した夢を実現するために、カンサスからテキサスに移り新しい体験をした話は、『アスペの三奇人交遊録』の中に書いた。共同事業の前段階で「関西経済同友会」で講演したのが、人工衛星の写真解析の話題であり、当時の日本人のレベルでは、私は宇宙人と思われたに違いなかった。それは防衛大学での反応に、如実な形で表れていたからだ。


サントリーとの共同計画により、当時の日本の産業界が持つ組織的な問題点について、私は多くの教訓を学んだが、就職希望者が最も多いしユニーク経営を誇る会社でも、組織的な問題が山積みだった。

それは私の視点と立場はシリコンバリーで創生中だった、ベンチャービジネス精神で新時代を作る挑戦だから、問題の一端を『アスペの三奇人交遊録』に、私は以下のような忘備録として記した。

<・・・サントリーの石油開発への参加は佐治社長の思い付きであり、役員のほとんどが反対の立場を表明して、社長と国際本部長だけが支持をし、ゴルフ場投資に反対した件で国際本部長は窓際族になった。
 その後に国際本部長は社長としてTBSブリタニカ出版社に転出し、事態は鎮静していたが、経営陣は鳥井一家が占め、私が余計なことを言えば養子に出た佐治社長は、立場的に苦しいという。そこで遠慮した私はサントリーには行かずに、子会社のTBSブリタニカの社長室に堀出社長を訪問して、相手側の内情を調査し全体像を理解する努力をした。
 サントリーの創業者は寿屋を作った佐治信治郎で、次男の敬三は養子として名古屋の佐治家に行き、長男の吉太郎の妻春子が小林一三の娘だから、寿屋は鳥井家が支配していた。寿屋に入社した佐治敬三は、軍艦の設計と「平賀粛学」で知られた平賀譲東大総長の三女好子と結婚し、そんな家庭の事情もあり、佐治敬三はストレス解消に文化路線の推進を試みた。
 だが、長男の信忠を出産して佐治好子は21歳で死去し、幼児を抱えて困った佐治敬三は、住友銀行の大平賢作頭取の娘で、GHQに勤務していた大平けい子を後妻に迎えた。大正時代の後半になり、阪急電車の小林一三が神戸線を完成してからは芦屋に豪邸が立ち並び、高級住宅地の代名詞は芦屋になった。
 だが、それ以前の段階だと商業都市を誇る大阪では、大商人や実業家が選ぶ邸宅地の代表は帝塚山で、お屋敷町の筆頭として押しも押されぬ横綱だった。大平けい子は富豪が住む帝塚山で生まれ、そこで育った頭脳明晰なやり手のお嬢さんで、戦後の苦境に喘いでいたサントリーとGHQを結び、事業の再建に大いに貢献した。
私はコンサルタント役で多くの人に知り合ったが、成功した人の背後には賢夫人が存在し、賢明さでは御主人の数倍であり、脇が甘い亭主を支えて手綱をきちんと引き締めていた。ピーター・ドラッカーのDoris夫人、チャルマーズ・ジョンソンのSheila夫人、森暁夫人の柴田早苗さん、佐治敬三のけい子夫人などのように、例外なく微笑の下には智慧の眼光が輝いていた。
将来計画の交渉は難航したので日本に出かけ、ベンチャー路線の説得を試みたが、サントリーの取締役会は鳥井一族で固められ、この壁の堅固さを前に私は自分の無力さを痛感した。1980年代半ばのサントりーは電化製品のソニーと並び、大学生の人気の的であり、就職したい若者が行列し希望を託す会社だったが、重役の頭脳は古色蒼然で、浮利を追う儲け路線だったので諦めた。・・・>

『アスペの三奇人交遊録』
ドラッカー博士夫妻
ジョンソン博士夫妻


数年間やった共同事業で、最初の一年間は国際本部長として、堀出さんと一緒に仕事したが、本好きの彼は子会社に移り、TBSブリタニカの社長に栄転する形で活躍の場を移した。京女を嫁にしたいと思い関西に都落ちしてから、若き日の海外行きの夢で大阪商船に就職したのだが、経理担当では船に乗れず、そこでスカウトされた機会に堀出さんはサントリーに転職した。

メセナに熱心な佐治社長は、百科事典の出版に興味を抱き、TBSブリタニカを買収して、出版文化の事業化を試み、次々と外国企業を買収して堀出さんを社長に送り込んだ。脇の甘い佐治社長の好みで、『ワシントン・ポスト』の名声に惹かれ、「ニューズ・ウィーク」を買収し日本語版を編集したが、私が不用心だと見たのは、この雑誌はCIAのカバーで、かつてハリー・カーンが社長だった。

堀出さんが社長になり、一番奥の社長室に行くにはTBS・Bの編集部を通るが、隣には「N・W」の編集部が並んで、ガラス越しに人の動きが見え、NICの情報官だったEzra Vogelの姿があった。堀出さんの親切心もあり、『湾岸危機』と『脱藩型ニッポン人の時代』が出たが、『間脳幻想』はTBSで出版が決まっていたのに、友人の落合莞爾が出版社をやりたがり、私の一存でそちらに回し、TBSに迷惑をかけた珍事もあった。

その件に関しての記述は、落合莞爾に触れる時に回し、ここでは取り上げないが、私の愚行で迷惑をかけてしまい、出版局長が責任を取り平の部員になる破目で、とても謝り切れない過ちを犯した。こうした愚かなミスは気の迷いから起きて、多くの人に迷惑をかけたが、1980年にはクウェートにイラク軍が攻め込み、湾岸戦争が起きており、実に波乱に満ちた時代だった。

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