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【No.103】情報誌にみる日本のインテリジェンスの衰退、そしてゾンビ政治による亡国現象

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「パームスプレングス」で行われた「日米サミット」の前に、ルメイダ油田の盗掘を巡る湾岸危機があり、それが湾岸戦争の序曲に相当し、そこに虚妄のロンヤス関係を解消したいブッシュの思惑があった。しかも、それにニクソンが果たした米中関係の改善が絡み、冷戦構造の終わりを告げた1989年問題が緊密に結びついていたことは、前回のコメントメール(102)で触れている。

激変していた国際情勢下で、サミット会談に訪米した海部首相は、組閣も未完成な状態で非常に弱い存在だし、日本の政府もメディアも準備不足で、「まな板の上の鯉」に似た危うい立場だった。しかも、日米貿易戦争が進行しており,既に炎上していた湾岸戦争に続く米国の中東制圧という戦略の中で、どんな形で日本の運命を狂うかに関して、誰も見通しを持っていなかった。

ブッシュが盛んに強調したのは、「New World Order(新世界秩序)」であり、胡散臭い印象を与えていたが、そこにネオコンの思想が潜み、米国の基本政策になるとは誰も予想しなかった。それほど世界情勢は混沌とし激動していたのだが、その背後には後になりDS(Deep State)と呼ばれ、政治用語になる存在があるとは誰も考えず、それを陰謀論だと冷笑していた。

小さな政府を掲げた共和党が、世界統一政府というグローバリズムを掲げ、その方向で政治のかじ取りをするは、矛盾だと考える常識に従い、私もブッシュの発言に違和感を抱いていた。だが、その誤りに気付いたのは、クリントン政権になってからで、ローズ奨学金を得て渡英しオックスフォードで訓練され、帝国主義の洗礼を受けた彼はグローバリストに変身していた。

そして、ウォール街の狙いに従い、米国の資本と技術を中国に転移し、製造立国の米国の産業を空洞化したが、これは英国流の「シチョウ戦法」であり、豚の子を太らせて処分する手口である。アーカンサス州知事時代にクリントンは「ポークバレル事件」に関与し、妻のヒラリーが背後から操り、濡れ手に粟の稼ぎをしたが、その手口はオバマ政権時代にも活用されていた。

それが中東のカラー革命で、リビアのカダフィ政権の崩壊から、バルカン半島の混乱を経由してウクライナ戦争にまで続くが、そこには石油利権が絡みイラクの石油との関連があった。その出発点に湾岸危機があり、パームスプリングスでのサミットに結びつき、二十世紀の最後に相応しい、油田をめぐる相克として石油権益が問題を起こすのである。

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コメントメール(103)で論じたイラクの石油に端を発し、湾岸危機から湾岸戦争に至り日米サミットの物語は、1990年夏り終わりから翌年の春まで僅か半年余りの期間の出来事だ。そして、これらの事件は年末に出た『湾岸危機』に、一連の記事として収録されているが、それは以下の「もくじ」を見れば、発表の時期と掲載したメディアがどんなものかが明らかになる。

『湾岸危機』(TBSブリタニカ刊)の「もくじ」と初出

◆ : プロローグ 
◆ 第1章: 「石油を武器にアラブの盟主を狙うサダム・フセイン」(『世界週報』1990年9月4日号、時事通信社)
◆ 第2章 : 「サダム・フセインに試されるアメリカの民主主義」(『世界週報』1990年9月18日号、時事通信社 。「タケヤマ・レポート」1990年8月28日号)
◆ 第3章 : 「軍事対決と石油戦略の見えない部分」(『ニューリーダー』1889年10月号、 はあと出版)
◆ 第4章 : 「砂漠戦における補給の経済学」(「タケヤマ レポート」1990年9月6日号。「ブッシュも海部も間違っている」『文藝春秋』1990年11月号、文藝春秋社)
◆ 第5章 : 「砂漠の備兵、アメリカのジレンマ」(『世界週報』1990年11月13日号、時事通信社)
◆ 第6章 : 「ルメイラ油田物語とペルシャ湾の石油戦略の行方」(「タケヤマ・レポート」1990年 10月7日号、「王様ビジネス連合と独裁者の私闘」(「文藝春秋』1990年12月号、文藝春秋社)
◆ 第7章 : 粗雑な外交が生む亡国の教訓(『飽食と奢りの外交』が生んだクウェート亡国の教訓」ニューリーダー』1990年12月号、はあと出版)
## 「タケヤマ・レポート」は泰山会(武山泰雄・元日経新聞編集主幹主催)のメンバーにのみ配布されるプライベート・ニュースレターであり、一般には人手が不可能。## 奥付け:1990年12月 15日 初版発行     著 者 ― 藤原 肇  
発行者 ― 堀出‐郎 発行所 ― 株式会社ティビーエス・ プリタニカ

 『文芸春秋』でトラブルを起こした二つの記事は、第四章と第六章にある通り、十一月号と十二月号に続けて出たが、第三回目の記事は『ニューリーダー』に寄稿し、「粗雑な外交による亡国」の題で活字になった。この時期に多くの記事を執筆し、私が如何に多忙だったかは、『湾岸危機』の「もくじ」を見れば、立ちどころに分かるが、『文芸春秋』以外の記事は情報誌で活字になり、情報誌の存在は実に貴重である。

 『湾岸危機』の記事の初出には、「タケヤマ・レポート」と『世界週報』の名があり、共に週単位で発行する情報メディアで、スピードと深い分析で知られ、インテリジェンスの高さを誇っていた。似たような情報誌としては、月刊の『Forsight』や『選択』があり、それに準じた月刊誌に『Themis』や『ニューリーダー』が続き、選ばれた読者を確保していた。

その他の情報源に週刊の経済誌が存在し、記事の内容の質の順では、『東洋経済①』、『エコノミスト②』、『ダイヤモンド③』が並び、当時の私の関係の仕方は、次のような具合だった。①とは匿名座談会だし②とは論考で、③とは対談で、舞台で役割を変えるのはプロに相応しいやり方だから、私はこのスタイルを選んで、大きな影響を期待する時に『文芸春秋』を選ぶことにしていた。

また、「タケヤマ・レポート」は、泰山会(武山泰雄・元日経新聞編集主幹|)が主催する、メンバーにのみ配布されるプライベート・ニュースレターで、一般には入手が不可能である。武山さんはサイマル出版会仲間だが、彼が1990年代にワシントンに送り、アンテナ役を演じた伊藤貫は評論家にと成長を遂げ、今ではU-Tubeで活躍していて、数少ない本物のアメリカ通に育っている。

だが、2002年に武山泰雄が亡くなり、泰山会は解散して「タケヤマ・レポート」は姿を消したし、2007年に『世界週報』は休刊で,1945年に創刊したのに、通巻4287号の名門誌は息絶えてしまった。この国際情報誌が消えて、記者魂を育て活躍させる貴重な場がなくなり、活字文化が終わってしまったことで、日本のインテリジェンスは衰え、世界に通用する情報感覚は解体し、亡国現象が著しく進んだのである。

奇妙な一致に驚くのだが、こうした地味なメディアが消え、金儲けを煽る実務書やサブカルチャーを礼賛する、色彩豊かな雑誌が氾濫して、享楽主義が蔓延したことは、新自由主義の跋扈を象徴していた。シンクロニシティとして混迷を呈した政治を反映し、これは世紀末の延長であり、失われた三十年と重なる点では、小泉から安倍にと続いたゾンビ政治の横行に、奇妙なことだが見事に一致していたのだ。

また、『湾岸危機』が出た後だが、湾岸戦争を総括する形でMTKダイアグラムを援用し、ロスの『加州毎日』新聞に、「MTKダイアグラムで分析した湾岸戦争」と題した記事を私は寄稿した。日本の新聞では考えられないが、海外ではこんな内容の記事が日刊紙に掲載されるし、そんな柔軟な頭脳の人が編集長としているのであり、この落差の存在を知ることは、平板化して硬直した日本とは一味違い、それは愚民政治の象徴でもある。

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『湾岸危機』の初出を見れば分かるが、僅か半年余りの短期間に私は七編もの記事を執筆しており、五十代初頭の壮年期とはいえ、今から思うと凄まじい活力で、とても再現できるものでない。しかも、こんな仕事を成し遂げたのは、世紀末というタイミングと共に、二十世紀の地上最大の産業で石油ビジネスの中で生き、現場で仕事をした私の体験が、素晴らしい威力を発揮した証明でもある。

シンクタンクで働いていた私が、飲料水の井戸を掘る現場監督として、サウジの国土開発事業に従事した体験を通じ、石油の持つ価値に目覚めたので、フランスに戻り石油業界へ転身を実現した。ピレネー山麓で天然ガスの掘削を体験し、アドリア海での海洋掘削の体験した後は、カナダに渡り国際石油企業で働き、十年ほど地質のプロの仕事をして、現場の体験を蓄積してから独立した。

米国に移って石油会社を作り石油開発をした模様は、『地球発想の新時代』に詳しいが、その頃に書いたのが『湾岸危機』で、私のオイルマン人生の最後の時期に1989年のKPI (Key Performance Indicator 戦略的分岐点)が訪れた。この1989年事件の体験は偶然というより天命に近いもので、もし現場体験がなかったらこれだけの仕事は不可能で、オイルマンとしての人生において、私の絶頂期を飾る仕事を残せなかっただろう。


現場体験の持つ重要性が如何に重要かは、日本の評論家や大学教官を始め、記者たちの評論の多くが教科書的で、他人の記事の寄せ集めであり、実際の現場体験がないせいだからだ。通産や財務の官僚の場合も、公務員試験に受かっただけで、現場で厳しく鍛えられて、体験を通じて磨いた直観力ではなく、頭の中で考えたに過ぎないものが、圧倒的に多い弊害のためである。

 幸運なことに私の場合は、中東を始め世界の石油開発の現場で、二十年近い体験を蓄積しており、日米サミットが開催されたパームスプリングスに住み、目の前に現場を持つ条件にも恵まれていた。しかも、檜舞台のランチョ・ミラージュでは、何度かロータリー・クラブで講演し、地元の有力者と知り合って、得難い一次情報を手にする機会があり、それを生かして記事を書いたのは確かだ。

だが、文明の次元で大変革が起き、パラダイムシフトと呼ぶべき変化が目の前で進行していたことに対して、私が迂闊だったことに気づいたのは、それから十年以上も後の二十一世紀になってからだ。それに関しての反省は、次回に触れることにするが、この日米サミットに同時進行する形で湾岸戦争が行われており、戦車隊の機動力を誇っていたのに、イラク軍は完璧なまてに粉砕され、戦争はあっけなく終了していた。

それは人工衛星で偵察しイラク軍の司令部の位置を見極め、そこをミサイル攻撃で破壊して通信機能をマヒさせた上で、掩蔽濠に潜む戦車隊に向け米軍はミサイル攻撃で撃滅した。この作戦で威力を発揮したのは、最新鋭の電磁装置の半導体であり、兵器に装備した精密なマイクロチップが戦争の内容を一変させたのだし、その民生品への大規模な利用で産業社会の内容が激変した。

私がサウジで仕事をしていた頃は、石油価格はバーレルが1ドル台で、同じ量のコカ・コーラの50分の1だから、石油の重要性を軽視していたが、産業にとっては活力源だから。その役割は無視される状態だった。だが、1963年の石油ショックで、石油価格が四倍になり、更にイラン革命で三倍に激増し、バーレル当たり20ドルを超え、石油価格に振り回されて、経済問題の主役に石油が君臨した。

二十世紀は石油の時代で、海上の船や陸上の車を始め、産業社会の全領域の原料だし、空では飛行機の燃料は石油製品で、石油産業の生産物は活力源だから、石油産業は地上最大のビジネスを誇った。だから、学位を取って社会人になり、水のシンクタンクに入って、サウジで井戸を掘った私は、そこで石油の価値に目覚め、地質のプロとして石油に転じ、石油探査の仕事で世界を飛び回り、油田開発の仕事に熱中し、人生の夢を石油に託していた。

だが、1980年代に状況が変わり、石油の時代は絶頂期を過ぎ、情報革命が進展する中で、産業のコメである半導体が、石油以上に産業界にとり活力源としての価値を持ち、生死を決定づける存在になった。この時期における半導体は、トランジスタが集積回路に代わり、高性能の集積回路の発達が、経済成長の燃料として炭化水素と同じで、重要な役割を果たし始めていて、有能な若者が電子産業に参入し始めた。
1950年代には真空管がトランジスタに置き換わり、ソニーがトランジスタ・ラジオを作って、それを池田首相がドゴールに贈り、ラジオ商人と軽蔑されたが、その後は集積回路が作られ、電卓やコンピュータ生まれた。石油探しの地震探査用に、集積回路を作ったTI (テキサス・インスツルメントも、1970年代の後ばからは軍事用と民生用に向け、集積回路の製造に取り組む体制を整えた。

ゼロックスやHPなどがシリコンバレーで育ち、1984年にマッキントシュが生まれ、コンピュータ時代が始まったが、その頃にカリフォルニアに行き、私はランチョ・ミラージュに家を買い、パームスプリングスの住人になった。1989年から1991年の時期は、未だ、マイクロソフトのOSも幼稚で使い道がないので、私はワープロを使っていたが、1991年の湾岸戦争の時に、集積回路の威力に目を見張っても、これは凄いと思う程度だった。

だから、当時の私は石油時代の男で、馬に乗り油田地帯を駆け回り、西部劇のカウボーイのように、そんな現場で生きていたが、それに続く時代を特徴づける、集積回路を積む自動車には無頓着だった。30年後の今にして思えば、当時の私はカンサスやテキサスで、油田地帯で仕事をする旧世代に属し、石油の問題に注意を奪われ、サイバー時代の到来に対して油断していたが、その後の三十数年で世情は変り果て、暴政で日本は没落してしまった。

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