途中に選挙があったせいで、その関係で話が脱線してしまい、自民党と維新の会の関係から、背後に控えている統一教会問題にまで触れたが、統一教会の機関紙の『世界日報』内部に潜入していたのが舎人だった。この舎人を相手に聞き書きをして、纏めたのが『皇室の秘密を食い荒らしたゾンビ政体』で、その対話を通じて引き出したのが、次のような舎人の正体である。
この二枚のコピーは大蔵省の公用便箋を使い、三兆八千億円の金額が償還資金として、大平自民党総裁や閣僚たちの捺印や、財界人の印鑑証明付きで構成されている。堤清二や佐藤寛子までが出資者総代として名前を連ね、政府関係者の裏金として、動く資金だと推察でき、その取扱い担当が大蔵省でそれが権力の源泉だと分かる。
こうした文書は極秘書類に属し、本来は門外不出の資料として、絶対に外に漏れない性格を持つはずのに、どうして手渡されたか分からないまま、私は米国に持ち帰り長らく保管していた。後になって気づいたのだが、これらの資料を検討して、M資金についての記事に纏め、私が本を書くことを期待し、渡されていたのかも知れないが、私にはそんな気持ちはなかった。
日本の記者はマルドメで、第一次資料の価値が分からず、忙しくて勉強不足だから、私の本を読む人は少なく、せっかく本で公開したのに、それに気づいた者はいなかった。鋭い情報感覚の記者がいたら、新聞や雑誌が取り上げて、大スクープになる情報でも、「猫に小判」の日本では、貴重な宝でも見過ごされ、歴史の闇の底に沈んで百年後まで眠り続ける。
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それに気づいたせいか、舎人は新世紀の初期頃に、私から離れ疎遠になったが、それは小泉政権が海外派兵し、自衛隊がイラクにPKOとして、駐留した時期のことだった。その頃は『ニューリーダー』誌に、落合莞爾が「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」を連載して、それが注目を集めた頃で、落合が白頭狸の名で書くNoteブログに以下の証言をしている。
落合は野村證券が中途採用した社員の第一号で、彼は解析学に強くデリバティブに詳しかったし、東大法学部卒で大蔵省に人脈が多く、それまで二流だった野村証券をトップにした功労者だ。彼はTOBや「飛ばし」を考案し、野村の業績を高めたのであり、違法行為に近い領域の達人で、表に出してはいけない人物だのに、金融の対談記事を雑誌に連載したら、それがメディア登場の刺激剤になった。
しかも、幾ら働きかけても話に乗らなかったので、舎人は私より使い具合が良い、落合に白羽の矢を当てて切り替え、国体の機密情報を提供して、壮大な落合史観の完成を実現した。有職故事に詳しい落合は、事実関係を熱心に調べて、皇国史観を確立する能力の持ち主としては、日本が誇る最高の人物であり、彼に注目した舎人の眼力は流石に凄かった。
そこで気になるのは落合との出会いで、どんなものだったか記憶にないが、落合の著書の『金融ワンワールド』の中に、次のような記述があるから、水谷民彦と言う人が連れて行ったのだろう。彼は日系二世のアメリカ人で、米軍の諜報関係に属していたらしく、有楽町の外国特派員協会で知り合い、肩書はウェスチングハウス日本の副社長だし、ダイエーの中内社長の顧問だった。
この水谷民彦に関して落合は、同書の中に次のように書き、この謎に満ちた日系アメリカ人が、如何に日本の経済界と裏社会について、精通しているかについて詳しく報告している。
当時の私は日本を訪れた時には、特派員協会を仕事場にして、特派員を相手に取材をしていたので、外国人記者を沢山知っており、その中には諜報関係者も多く、その中に水谷さんもいた。彼らは日本人記者よりも、日本の政治や経済に関して、大局観で捉えている人が多く、情報を与えると教えてくれ、相手にして興味深いので、彼らを私は情報源に活用した。
その中に水谷さんもいて、噂では暗殺されたらしいが、1980年代の東京には、世界の優秀な記者が集まり、かなり良質な取材活動をし、帰国して編集長になった人も多い。だが、1989年に冷戦構造が終わり、日本の政治と経済が劣化し、ポテンシャルが急速に衰えたので、優秀な記者は日本から去って、香港や北京に移り東京の情報空洞化が始まったのである。