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【No.108】落合史観と「舎人」の正体

途中に選挙があったせいで、その関係で話が脱線してしまい、自民党と維新の会の関係から、背後に控えている統一教会問題にまで触れたが、統一教会の機関紙の『世界日報』内部に潜入していたのが舎人だった。この舎人を相手に聞き書きをして、纏めたのが『皇室の秘密を食い荒らしたゾンビ政体』で、その対話を通じて引き出したのが、次のような舎人の正体である。

<・・・この京都皇統の舎人は、これまで正体を伏せて来たが、あえて公表するならば、本名は栗原茂と言って高松宮の付き人だったし、皇室のお庭番の一人でした。彼は1990年代初期から読者として私に接近し、情報を交換し合ったが、記憶力の凄さにおいて、私が世界で知り合った記憶力を誇る人の中で、「ピカ一」と呼べる人物です。
特に「有職故事」は抜群で、家督継承や閨閥に関しては、まるで稗田阿礼のように、人名や続き柄が泉の如く、湧き出すように出てくるから、私はいつも唖然としました。『皇室の秘密を食い荒らしたゾンビ政体』で、第一章と第三章を読めば、それは推察できますが、歴史についての知識では、大学の歴史学教授以上に事象に精通していました。また、幅広い人脈を誇っており、渋谷の金沢工業大学の東京研究室に案内して、私を清水博教授に紹介し、神田の朝堂院大覚の事務所にも、連れて行ったりしました。
 彼の祖父は侠客であり新門辰五郎と杯を交わし、父親は石鎚山の修験者で彼自身はお庭番を務めていて、『世界日報』の編集長参与が潜入した統一教会での肩書です。彼の正体を隠すため二人の記者に分割して記したが、情報を執るために記者になり、時には右翼を装って街宣車を乗り回すほど、彼の変身術は忍者流で変幻自在した。
 彼と会うホテルの喫茶室は半蔵門のグランド・パレスで、公安畑の臭いが強かったし、彼の池袋の事務所では、明電工事件で知られた中瀬古巧がお茶を入れてくれ、不思議な感じが濃厚です。闇世界や右翼に精通し五輪誘致やカジノ計画について、石原都政の裏話を物語り、外形標準課税までに触れ、私には興味のない世界まで教えられたものでした。
 彼との対話をした時に最も盛り上がった話題は、ヨーロッパの現近代史で、教科書にない秘話には興味尽きないものがあり、時間が過ぎるのを忘れ意見を交換し合いました。そんなある日のこと、金融に関して纏めたから、読んでみて下さいと言って渡されて厚い草稿には、ウィーン会議の頃から続く、スイスが果たした役割が詳細に記述され感嘆しました。
 別のファイルも渡されて、帰宅して読んだ後は米国に持ち帰り、保管して欲しいと預かった分厚い資料には、大量の公文書が含まれ「本圀寺関係文書」とあり、M資金絡みのコピーでした。大蔵省の便箋に記された、「還付金償還誓約書」や「還付金支払保証書」には、首相や蔵相の捺印があり、印鑑証明も添付されて目を見張るほどの代物でした。
 そこに記された名前は財界人や政府高官で、膨大な量の印鑑証明は本物と疑いようがないし、三兆円八千億円の数字も只ならない金額だから、なぜこんな物がと思いました。そこには自民党のボスが軒並み名前を連ねるし、驚くべき内容だったので、ジャーナリストの話に仮託して、コピーを『夜明け前の朝日』に公開してみた次第です。
しかも、彼の正体は発覚せずに落合本では舎人の記憶が、文章力に富む落合莞爾の手で編集と統合がされており、落合史観が今様「盟神探湯」と読者は気づかないのです。・・・>

『皇室の秘密を食い荒らしたゾンビ政体』


この二枚のコピーは大蔵省の公用便箋を使い、三兆八千億円の金額が償還資金として、大平自民党総裁や閣僚たちの捺印や、財界人の印鑑証明付きで構成されている。堤清二や佐藤寛子までが出資者総代として名前を連ね、政府関係者の裏金として、動く資金だと推察でき、その取扱い担当が大蔵省でそれが権力の源泉だと分かる。

こうした文書は極秘書類に属し、本来は門外不出の資料として、絶対に外に漏れない性格を持つはずのに、どうして手渡されたか分からないまま、私は米国に持ち帰り長らく保管していた。後になって気づいたのだが、これらの資料を検討して、M資金についての記事に纏め、私が本を書くことを期待し、渡されていたのかも知れないが、私にはそんな気持ちはなかった。

日本の記者はマルドメで、第一次資料の価値が分からず、忙しくて勉強不足だから、私の本を読む人は少なく、せっかく本で公開したのに、それに気づいた者はいなかった。鋭い情報感覚の記者がいたら、新聞や雑誌が取り上げて、大スクープになる情報でも、「猫に小判」の日本では、貴重な宝でも見過ごされ、歴史の闇の底に沈んで百年後まで眠り続ける。

*****

それに気づいたせいか、舎人は新世紀の初期頃に、私から離れ疎遠になったが、それは小泉政権が海外派兵し、自衛隊がイラクにPKOとして、駐留した時期のことだった。その頃は『ニューリーダー』誌に、落合莞爾が「陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記」を連載して、それが注目を集めた頃で、落合が白頭狸の名で書くNoteブログに以下の証言をしている。

<・・・落合が「吉薗周蔵手記」に巡り合ったのは平成八(1996)年の元旦であります。前年九月に吉薗周蔵の遺族から画家佐伯祐三作品の真贋鑑定を依頼された落合の所に、佐伯絵画の時代的背景を理解するための参考資料として「吉薗周蔵手記」の冒
頭の部分が送られてきたのです。
 結局、佐伯作品の真贋鑑定依頼は、落合が想像もしなかった巨大勢力が、落合に「吉薗研究」をさせるために仕組んだものであることが、次第に判明してきました。その勢力の目的は、「吉薗周蔵手記」の解読作業により、日本史の真相を理解した落合が、それを世間に公開することに在ったのです。    
 その勢力は、当然のことながら日本史の真相を知り抜いていて、しかもそれを厳重に封印してきたのです。そして、今になってその一部を公開する必要が生じたので、その公開係として落合に白羽の矢が立った、というわけです。
・・・平成八年から、有名な洋画家佐伯祐三を調査することになった白頭狸は、佐伯祐三のパトロンであった陸軍特務吉薗周蔵が、元帥上原勇作の特務(諜報員)であったこと、また「大杉栄殺害犯」として知られる憲兵大尉甘粕正彦が、上原の秘密の女婿であったことを知ったのです。折しも旧知のジャーナリスト藤原肇さんの推薦で月刊情報誌『ニューリーダー』に「吉薗周蔵手記」の解説を連載し始めたところ、なぜか一面識のないジャーナリスト藤原作弥さんの推薦によって、『「天才画家」佐伯祐三真贋事件の真相』を時事通信社から出版することになりました。
・・・落合に接近してきた巨大勢力は二つあり、大元は一つであったものがWWⅡ後に分裂したと察られれます。その大元を「國體勢力」と命名した落合は、一貫して使用してきて今に至ります。・・・>

落合は野村證券が中途採用した社員の第一号で、彼は解析学に強くデリバティブに詳しかったし、東大法学部卒で大蔵省に人脈が多く、それまで二流だった野村証券をトップにした功労者だ。彼はTOBや「飛ばし」を考案し、野村の業績を高めたのであり、違法行為に近い領域の達人で、表に出してはいけない人物だのに、金融の対談記事を雑誌に連載したら、それがメディア登場の刺激剤になった。

しかも、幾ら働きかけても話に乗らなかったので、舎人は私より使い具合が良い、落合に白羽の矢を当てて切り替え、国体の機密情報を提供して、壮大な落合史観の完成を実現した。有職故事に詳しい落合は、事実関係を熱心に調べて、皇国史観を確立する能力の持ち主としては、日本が誇る最高の人物であり、彼に注目した舎人の眼力は流石に凄かった。

そこで気になるのは落合との出会いで、どんなものだったか記憶にないが、落合の著書の『金融ワンワールド』の中に、次のような記述があるから、水谷民彦と言う人が連れて行ったのだろう。彼は日系二世のアメリカ人で、米軍の諜報関係に属していたらしく、有楽町の外国特派員協会で知り合い、肩書はウェスチングハウス日本の副社長だし、ダイエーの中内社長の顧問だった。

<・・・水谷さんが連れてきた地質学者の藤原肇博士が、ある時「ユダヤにはシオニストと国際派ユダヤがある」と口走ったのを聞き咎めて、「国際派ユダヤとは何者か?」と尋ねると、「実はイギリスがそれだ」とだけ答えられました。これが理解できずに水谷さんに教えを請うと、「国際派とはコスモポリタン・ジュウだろうね。オランダ人はスペインから逃げてきたユダヤなんだよ。そんなこと外国人は皆知っているが、誰も口にせんだけだよ」と教えてくれました。・・・>

この水谷民彦に関して落合は、同書の中に次のように書き、この謎に満ちた日系アメリカ人が、如何に日本の経済界と裏社会について、精通しているかについて詳しく報告している。

<…私はウエスチングハウス・ジャパンの副社長の水谷民彦さんと知り合いました。三洋証券副社長の土屋陽一君から頼まれて、相場師の是川銀蔵氏に会った時、同時に紹介された方ですが、さっぱりした人で気が合い、直ぐに親友になりました。
・・・水谷さんは当時ダイエイの最高顧問も兼ねていて、同社のためのヘッドハンティングと機密事項に携わっておられました。私を中内会長に引き合わせて、直ちに同社の顧問にしてくれ、日本警備保障の飯田会長の顧問もしていて、親しく宴席を催してくれました。更に、消費者金融会社のプロミスの神内良一会長にも引き合わされ、その席で「ぜひ顧問に」と依頼されましたが、私には消費者金融のやり方に多大の疑問があったので、そのままとなりました。結局水谷さんの紹介で私が顧問になったのは、ダイエイだけでした。水谷さんは数年前に急逝されましたが、あの時何で急に私に接近して来たのか、また私に有力会社の創業者を紹介して来たのか、今では思い当たるものがあります。親しくなってから、水谷家に伝わる祖父の掛け軸を判読して欲しいと言われ、どうやらお答え出来ました。水谷さんの祖父も民彦という名で、人名事書にも載る有名人です。…水谷さんの父の瀧蔵さんは、単身渡米して実業に携わっていたのですが交通事故に遭い、加害者女性が見舞いに来ているうちに親しくなり、1938年に水谷さんが生まれたとのことです。
母の名は確かイザベルで、先祖は東欧当たりと聞いたように思います。…日本人を父として米国で生まれたために、二重国籍となった水谷さんは、米軍に入隊して韓国に駐留し、インテリジェンスに携わったそうです。学歴は南山大学とカーネギーメロン大学を出ていました。・・・>

当時の私は日本を訪れた時には、特派員協会を仕事場にして、特派員を相手に取材をしていたので、外国人記者を沢山知っており、その中には諜報関係者も多く、その中に水谷さんもいた。彼らは日本人記者よりも、日本の政治や経済に関して、大局観で捉えている人が多く、情報を与えると教えてくれ、相手にして興味深いので、彼らを私は情報源に活用した。
その中に水谷さんもいて、噂では暗殺されたらしいが、1980年代の東京には、世界の優秀な記者が集まり、かなり良質な取材活動をし、帰国して編集長になった人も多い。だが、1989年に冷戦構造が終わり、日本の政治と経済が劣化し、ポテンシャルが急速に衰えたので、優秀な記者は日本から去って、香港や北京に移り東京の情報空洞化が始まったのである。

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