それが人を傷つけた代償だよ
「人がおかした大きな過ちを許す」という行為は非常にやるせないものである。
例えば友達に傷つけられた時の話でもしよう。
「謝っているんだから、あなたも許してあげなさい」「みんな仲良くしましょう」
小学校の先生に嫌というほど言われることである。ひどい場合は「された側にも理由があるんだから」とか「こんなに謝って『くれて』いるんだから」とまで言ってくるのもいる。
なんで部外者のお前にそんなこと言われなきゃならんのだって感じだった。
なんと言われようが私はこんなに傷ついたんだから絶対に許したくない。許して相手が楽になってその瞬間全部忘れるっていうのがもう本当に無理だった。
でも先生はされた側が許して「仲直り(笑)」するまでその場をどかなかったりする。黙ってその場をどいてほしいのに、許して仲直りが社会性みたいな押しつけをしてくる。
何故された側が社会性だの何だの言われて屈辱的な気持ちになりながら折れなきゃならんのだ。
かといって今更怒る気にもならない。もうこの人のために多大なエネルギーを使うことがバカバカしいからである。それに、怒ったらそれはそれで自分の度量の無さに自己嫌悪しそうだからである。
許すのも怒るのも嫌なのだ。
こういう嫌な思い出を時々思い出して気づいたら何年も経ってしまうのだ。
ここまではされた側の話だけをしてきたが、人を傷つけてしまった経験だって当然ある。
やっぱり謝りたくなる。もちろん本当に申し訳ないことをしてしまったからだが、多少なりとも許してもらって自分のモヤモヤから解放されたいから、という部分もあったりする。結局人間とはそういうものだ。
昔はどうしていたか忘れてしまったが(した側はされた側が思っている以上にすぐ忘れてしまうのが恐ろしい)、「自分が謝って全部チャラにして関係を再構築しよう」とは今は流石に思わない。された側を経験したことがあるからだ。
された側は許しても怒っても結局嫌な思いをするのに、した側は謝って許してもらえれば楽になるのだ。理不尽な話である。
こういう理不尽を表したシーンがある「宇宙よりも遠い場所(通称よりもい)」というアニメの11話「ドラム缶でぶっ飛ばせ!」の話をしたい。11話までの概要を以下にざっと述べる。
何かを始めたいがいつも一歩踏み出せない玉木マリが、あることが理由で南極を目指す小淵沢報瀬と出会う。最終的にマリ、報瀬、日向、結月の4人で南極を目指す。無事に彼女らが南極に着陸し、南極と日本でテレビ中継をすることになった。そこには日向が高校へ通えなくなった原因を作った元友達が映っており、ぜひ日向と話したいと言ってくる。日向はもう過去のことを許してしまおうと思った時に・・・
元友達らは申し訳ないと謝りつつも、テレビに映れるからと平気で日向と話そうとしたのだ。日向は感情の整理がつかず中継直前に報瀬とこう会話と交わす。
日向「なあ。許したらさ、楽になると思うか?」
報瀬「許したい?」
日向「それで私が楽になるならな。けど、それでほっとしてるあいつらの顔想像すると腹は立つな。」
報瀬「ざけんな?」
日向「だな。ちっちゃいな、私も。」
された側はこういう葛藤をしながら妥協するしかないのだ。そう思っていた時に、報瀬が中継先の元友達らにガツンとこう言ってやった。
「日向はもうとっくに前を向いて、もうとっくに歩き出しているから。私達と一緒に踏み出しているから。」
「私は日向と違って性格悪いからはっきり言う。あなた達はそのままモヤモヤした気持ちを引きずって生きていきなよ。人を傷つけて苦しめたんだよ。そのくらい抱えて生きていきなよ。それが人を傷つけた代償だよ。私の友達を傷つけた代償だよ!」
「今更なによ。ざけんなよ!」
めちゃめちゃに泣いた。神回どころの騒ぎじゃない。
許すことも怒ることもしたくない本人の代わりに友達が怒ってくれたのだ。
された側が許して丸く収めることこそ最善だと幼少期から刷り込まれてきたからこそ、この一連のセリフに私は随分救われた。
された側だって負の感情を嫌でも抱えて生きているのだ。だからした側が今更許されようとか甘ったれたことを考えるんでない。
一生会うこともないだろう相手に今更伝えられないが、それでも報瀬が自分の気持ちを代弁してくれた。
逆に、自分が謝りたいと思った時も、「それは単なるエゴではないか?楽になりたいだけではないか?」とこのセリフを思い出して自問していこうと思った。
このモヤモヤは代償なのだ。人を傷つけておいてナメたことを考えてはならんのだ。自分の過ちをずっと抱えていく責任が必要である。
自分がずっと考えてきた理不尽に対してこうもガツンと言ってくれたアニメである。
私はこのアニメをいつまでも忘れないだろう。