苦しんで書き、書いたものを疑う
自分だけのことなのか、わりと多くの人がそうなのかわからないが、心のささくれや怒り、疑問がなければものが書けない傾向がある。落ち込み、苦しみ、悩み、劣等感があって、人生に矛盾を感じるからこそ、心の安定を求めて書いているらしい。
忙しいときは苦しみも募る。身体が疲れれば、自分の生き方がこれで良いのかと疑問をもつ。よって書きたい欲求は高まるが、書く時間がとれなければフラストレーションになってくる。思考を刺激するために読書する時間もない。積読、と、積ん独白。そうして嘆いているうちに独白もだんだんと黒く濁ってきて、独灰色、独黒と移り変わって、やがて色がなくなったら、今度は独だったものが毒ばかり吐くようになって独白が毒吐くになるのだからたまらない。いや、たまらないどころではない。貯まっているのだ、noteの下書きがいくつも。世に出ていない思念の欠片が20も30も、「公開設定」をクリックした先の一覧に鎮座ましましているのだ。けれども、なかなかに気難しくあらせられて、容易にご尊顔をお伺い奉ることかなわぬのであります。
よろこびを書けることは素晴らしい。自分の場合、幸福感があるときは、その幸福感を全身に満たすことに精神力を使いたいから、書いている余裕なんかない。よろこびを書く場合は、後からその感動を思い起こして書くしかないけれども、それを書いている時点では幸福には包まれず毒っぽくなっているわけだから、実に虚しい作業になる。よろこびを即興で書き表せる人は、なんと羨ましく素晴らしい人であるか。その人こそ真の詩人である。あな、うれしや。
でたらめを書いてはいけないと思うが、かといって、完全に嘘を書かないことは難しい。ある言葉である感情を表現した場合に、それが適切なのかどうか、いつも疑わしい気がする。ある現象が起きる、現象を受け止める、受け止めて、感情が湧き上がる。思ったことは、すでに経験ではなくて、いったん心理のフィルターを通して概念のカタに当てはめられてしまっている。美味しいものを食べて、一瞬我を忘れて、あ、美味しい、という時の、その「あ、」の瞬間、あるいは「あ」の前に置かれた「、」に相当する瞬間を捉える言葉は、どこにもない。こういう瞬間のことを哲学的には「純粋経験」などというのかもしれないが、とにかくもの書く人にとっては言語化不能領域をどうするかという問題が、常に引っかかる。しかし、にもかかわらず、この言語化不能領域を直接概念にしてやろうと、無謀な挑戦を繰り返す。そうやって無駄な努力をしているうちに、いつか、もしかしたらこの表現は経験の領域を超えたと思う瞬間に到達するかもしれない。錯誤でもいいから、そういう快感がいつかやってくることを無邪気に信じているがために、書くことをやめられぬ。
日本の文壇において、明治の終わりから大正にかけて、自然主義という文学流派があったことはよく知られている。生活の実相をありのままに書くことを是として、何もかもありのままに書こうとした。自然主義の代表作とされるのは田山花袋の『蒲団』であって、その作品の著者の性欲を暴露するような表現ぶりには眉を顰めた向きも多かった。しかし、あんなものは俺でも書けるとバカにしながら、鴎外はその影響を強く受けて『ヰタ・セクスアリス』を書いたのだと、自身も自然主義文学者のカテゴリーにくくられる正宗白鳥は指摘している。白鳥は、花袋以降は「小説を書くほどの者はだれでも、必ずというほどに、多かれ少なかれ実生活の自己暴露小説をやらかすことになった」と言って、漱石の『道草』も花袋の影響を受けて書かれたものだと主張する(『文壇五十年』より)。
先日、小説講座的な動画を何気なく見ていたら、ある売れっ子の現代作家が、自分の性の問題に向き合えないのは小説家ではないという趣旨のことを言っていたが、このような発言は、白鳥に言わせれば花袋イズムが文学界隈に溶け込んでいる証左だろうか。
さて、何が書きたいのかわからないのに、一生懸命書こう書こうとする悩みをひたすら、自然主義的に暴露してやっとこのくらい書き進めてきたけれども、結局何を書こうとしていたのだったか。自分は何を悩んでいる?書けないことだろうか。書けないならば書かなければいいのだが、なぜそうしないのか。書くことは麻薬のようなもので、一度心地よい表現の快感を覚えてしまったが最後、容易に筆を折ることができない。みっともない自分をさらけ出して、苦しんで一文字一文字吐き出して、そこまでしたのはいいけれど、この記事もやはり美しい完結には至らず、終わる。
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