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弱者が強者を阻む社会

 弱者に優しい社会というのは素晴らしい。でも行き過ぎでしまうと、弊害の方が大きいのかも。


◆エスカレーターで立ち止まる事が正義なのか?

 弱者に優しい社会を作るというのは、いかにも日本的な発想で素晴らしい事なのですが、その反面で思考停止を招く怖しい世界が迫ってきているのかもしれません。

 本来的に目指すべきは、弱者と強者が共存する世界であって、弱者のために強者を抑える世界ではないし、強者のために弱者に犠牲を求める事でもない

 ただ現実を見ると、実は世の中は競争社会。仮に地球上に日本しかなくて、日本人しかいないのであれば、別に競争なんてしなくても良いかもしれませんが、現実はそんなに甘くないのです。
 こんな世界でのんびりと構えていても生き残れるのかを考えた方が良いと思います。

 エスカレーター問題で言えば、全員立ち止まる他にも選択肢がないか考えてみる必要があります。

◆なぜか誰も議論しないエスカレーターの幅問題

 社会インフラの物理的サイズというものは時代と共に変化します。公共交通機関の座席幅や扉の高さなど、生活習慣の変化とともに大きくなった日本人の体格に合わせて大型化しているのが事実です。

 エスカレーター然りであって、そもそもの左右の干渉問題というのは、エスカレーターの幅が狭いことに起因します。そして、将来に向けて設置されるエスカレーターは拡幅すれば良いのではないかと考えるのもありではないかと。

 そうすれば、歩く人も立ち止まる人も同時に幸せになる環境が作れますね。

◆エビデンスの呪縛

 この様な話をしていると必ずでてくるのが、エビデンス云々の話。最近特にエビデンスと言う言葉に弱い人が増えたような気がする。

 元々、日本文化ではエビデンスを求めずに人の感覚が優位だった訳で、それがここ十数年で変わったような印象を受けます。
 エビデンスを参考にすること自体は良い事なのですが、エビデンスの有効性まで考える人はまだ少ないように見受けられます。

 事象の分析には仮説を立てて、それを支える論拠を持って論理的に証明していく。そしてエビデンスは結論ではない。あくまでも仮説を支える証拠に過ぎないのです。

 この辺りの考え方は、初等教育からLogic(論理)を教えている欧米に一日の長ありかもしれません。

 仮説やロジックについて理解をしないと、すぐに似非科学に騙されてしまいます。

◆ 立ち止まった方が大量運搬可能なのか?

 海外を含め、エスカレーターは立ち止まったほうが多くの人を運搬できるという仮説を元にしたシミュレーションが色々あります。
 立ち止まり支持者層は、このようなシミュレーションをエビデンスとして挙げて来るのですが、このエビデンスが本当に信頼できるのでしょうか?

これも前提条件を見ると?なものもあります。

 例えば、この実験の前提条件の中には:

  1. 「歩く人」は30%(駅のエスカレーターを利用する人の行動を研究した論文を参考に30%と設定)

  2. 2列停止(誰も歩かない)の場合は1段に2人が乗る。さらに前後の間隔を1段空ける

  3. 歩く人は前後の間隔を2段空ける

という3つの条件が含まれています。

 1番目の歩く人の率30%については一応計算根拠が示されていますが、2番目の一段2名で前後一段空け、3番目の歩きは前後2段空けるという条件については、作為的に歩き利用を不利に扱っているようにも取れます。

 個人的な感想を言えば、2列停止の事例で全段に2名というのは不自然な設定で、実際の生活シーンにおいて知らない人と横並びに乗るケースは多くないとも思えます。
 歩く場合だと、実際に前者のすぐ後ろに着いて行くことも多く、一段ならまだしも、二段空けると言うのは極めて不自然な設定です。

◆弱者とは誰なのか?

 そもそも誰が弱者かと言う視点で考えないといけない。弱者と言うのは必ずしも肉体的弱者ではなく、抑圧され縛られるものと考えれば、それはエスカレーターを歩くことを禁じられた人も弱者であると言えめす。

この記事、そもそも誰が弱者かと言う視点で良記事です。

 誰も彼もが一つのルールに縛られる必要はない。でも日本の横並び主義は、低い方に尺度をあわせたい。こんなことを続ければ日本の競争力はさらに下がる。横並び主義が成長の芽を摘むのです。

 得てして為政者と言うのは、何か新しいレギュレーション(法令)さえ作れば、自分が仕事をしたと思ってるのではないでしょうか?
人のため、国のためになる法令なら良いのですが、過去の法令との整合性や未来の環境変化を考えずにやってしまうとロクなことになりません。

 そのうち歩行者もヘルメットを被って外出しなくてはいけなくなるかな?

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