
消える駅弁文化
〜シンプルに考えよう〜:〜:〜:〜
テクノロジーや政治や専門知識を省いて、難しいことを誰にでも分かりやすく!
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駅弁に限った話ではなくて、希少性や地域性があるからこその価値がコモディティ化によって奪われてしまうのは当然のこと。詰まるところ駅弁も廃れる街と同じ運命を辿っています。
個性を売りにする駅弁が、コモディティであるコンビニ弁当と同じ土俵で比較されてしまう時点で、すでに価値を失っているということなのでしょう。
マス市場に挑むことを考えた時点で、駅弁は無味な都市再開発と同じ道を辿る運命にあったのでしょう。かつては個性をもって多くの人々を魅了した街が、都会の便利さを取り入れた再開発によって廃れていったのです。
◆不便を楽しむことも体験価値
便利/快適を追求した結果、魅力を失うという事象はなににでも起き得ることです。
例えば栄養摂取で考えると食事という行為自体は不便な訳で、完全食やサプリメントで置き換える方が圧倒的に効率的なわけです。それでも不便な食事を取るのは、効率ではなくて食べるという体験価値を求めるから。体験価値には不便なことも含まれている訳で、本来ヒトはそれも含めて楽しんでいるのです。
駅弁は(通常)冷めた状態で提供されています。もちろん温かいほうが美味しいのかもしれません。それでも冷めていても出来るだけ美味しく食べることが出来るような工夫がされていて、それを楽しむのも体験価値なのです。
その駅弁を温かく、そして提供場所を地元から拡張した時点で、それは駅弁ではなく "駅弁風弁当というコモディティ" になってしまうのでしょう。そこには本来の駅弁が持つ体験価値は存在しません。
伊勢名物に赤福という餅菓子があります。一見だたのあんこ餅。確かに老舗としての美味しい銘菓であることは間違いないのですが、それが長く銘菓としての価値を維持し続けるのは、西日本限定での販売に固執したことも大きいでしょう。一部の販売会を除いては地元に行かなくては手に入らないという価値観がブランドの体験価値を維持したのです。