授業公開でその先生と、子どもたちの状況を知り、対話をしていきたい。
先日校内の先生方に向けて授業を公開した。
今年度は、社会科部会に所属しているので、校内の研究テーマに沿って、社会科の授業を公開した。
社会の授業を公開したのは、おそらく20年ぶりぐらいだろう。
コロナ禍のため、参観人数を制限した中での公開だったけれど、何とか終わった。
これまで、何度公開したのか、もうわからないれけど、今回もやってみて分かったことがたくさんあった。
授業なんて、ボクの力じゃ、やっぱり思い通りに進まないし、子どもたちの思考は、ボクの想定を飛び越えてきた。
だから、授業をつくる力も、子どもたちのことを理解する力も、まだまだだと思うけれど、そのまだまだを楽しめるようにはなったと思う。
授業公開の時、「いつも通りに」という言葉を聞くことがあるが、ボクも、そうしたいとは思っている。
だって日常の授業を少しでもよくしたいと思って公開をしているわけだから、特別仕様の授業をして、見てもらって、意見してもらったところで、日常の授業にいきるのかって思う。
今回、スーツに着替えず、お気に入りのTシャツを着て、授業に臨んだ。いわゆる「いつも通り」だ。
それで、授業自体も「いつも通り」なんて言うと、カッコいいけれど、でも、それは、あくまでも教師の立場からの言葉。
子どもたちは、いつもと違って、多くの先生たちに自分たちの様子を見られる。子どもたちにとっては、「いつも通り」になんてならないという視点は、忘れないようにしたい。(いつもからたくさんの先生たち見られている教室もあるだろうけれど、それは特別中の特別)
それから、事前に板書を書き上げ、写真に撮って授業に臨むことや、黒板上部に印をつけておき、予定通りの板書にしようとすること、貼り物をいつも以上に準備して、貼り出すことなんてことを、今はしなくなった。
ボクも若い頃にしていたことがあるから、こうしたことが必要な状況もあるのだろうけれど、今は全くしなくなった。
ある時、そういう準備をすることで、指導案通りに進めることに縛られている自分に気がついたから。
子どもたちの思いを拾えていない。拾おうとしない自分に気がついたから。
もちろんそういう準備をすることで、安心して授業に臨めるなどの良さもあるとは思う。だから、さっきも触れたけれど、こうした準備が必要な状況もあるだろう。
でも、ボクにとっては、子どもの反応に応じながら進めるためには、そういう準備をしないことを選択することにした。
授業公開について触れる発信にいくつかあたってみると、「良い授業を見せなくちゃならない」「提案性のある授業を見せなくちゃならない」という意識がやっぱり強いんだなと思った。
授業公開や学校研究については、いろいろ議論があるところなので、いつかまた整理したいと思うけれど、ボクは、「良い授業を見せなくちゃならない」「提案性のある授業を見せなくちゃならない」という視点を変えたいと思っている。
もちろんそんな授業が必要な場合もあるだろう。
でも、今思っていることは、授業公開を通して、その先生のことを理解することを一番に考えるべきだと思っている。
授業を見ると、その先生がどんなことを考えて、どんな実践をしようとしているのかがわかる。そして、どんな子どもたちと向き合っているのかがわかる。
そこを手掛かりにして、対話をし、その先生も、ボクも、目の前の子どもたちのために仕事をしやすい場を作っていけたらと思っている。
今日のアルバム。ポストロックが多いな、最近。
このアルバムも曲も最高。