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白い明日

これは、私自身の言葉というより、何かの感覚への答え。

知らない人に体を許せたのは自分の輪郭が曖昧だったからだったのだと思っている。
必死に言葉を紡ぐのは自分の心が掴めないから。
書いても書いても指の間から零れ落ちる砂のように、行間から意味が溢れていく。
誰か私の心に触れてほしいとどこかでずっと思っていたような気がする。

特殊な性癖と性行為の奔放さには関連がないように見えるけど、特殊な性癖を持った人の多くが約束を守らない性行為をしているのを私は見てきた。
約束を守る人も、つまるところ何かを狂信して盲目的に一本道を突き進んでいるだけで、そこに人間的な営みを私は感じられなくて、共感することがどうしてもできなかった。
それでも、そこでしか生きられない自分がいた。そして同時に、一般的な幸せなんて漠然とした希望に縋らなければ生きて来れなかった自分が岩のように居座って、行く手を見る目を曇らせていた。
今になって思う。その夢を諦めた私にはもう生きる意味がないのではないだろうかと。
逃げる意味すら失って途方に暮れる。
自分の部屋にいる時さえも何かが私を追い詰めて出口を塞いでいくのを感じる。
布団の中で蹲り耳を塞いでも追ってくる。
この悪寒の正体は何だろう?

幼少期のトラウマが癒しがと様々な本が語り、SNSでは様々な感情的な自分史が後から後から吐き出され書き出され続けている。
御伽話のようにとあるひとりの悪者をやっつけたら救われるんじゃないかなんて、かつては夢見ていたなと思う。そしてどうやらその御伽話を信じている人は多いようにも思えるのだ。
白馬の王子様なんて現れなくても生きていかなくてはいけない人間を救ってくれる物語はどこあるのだろうか。
そのような人は生きるのに精一杯で体験を語る暇なんて持たないのだろうか。

こんなに何もかも手に入らないほど酷い仕打ちを受けないといけないほど私は悪いことをしたんだろうか。
そんな風に感傷に浸ってしまうこともある。
表面的には幸せなんて言うのなら、全員全部嘘は捨てて、何もかも捨ててしまえばいいんだよ。できないしやらないのなら、そこに留まる意味を見出してるっていうことなんだよ。
そんな風にぶつける当てのない怒りを心の中で吐き出しても耐えきれない夜もあった。
頭を麻痺させるように目の前の作業に打ち込んで時間だけが流れていった。
このまま何ひとつ叶えられず何も成せずに私は死ぬんだろうか。
そこには何も見えないと思うのだ。

一度でいいから死ぬ前に誰かに愛されたかった。
そう思う時の自分は何かを酷く思い詰め、自分の苦しさ以外の全てが見えなくなっているのだった。
あと一体何を削って何を与えたら誰か何かを返してくれるのだろうか。そういう時は続けていつもこう思う。
もう何も残っていない。動けない。ぶつけるあてのない怒りを通り越したら体が動かなくなってしまった。
寝るか涙を流すかしかできなくなってしまった時、寝ても悪夢にうなされて飛び起きる時、頭の中をぐるぐると同じ言葉が巡る。
動かなければ私はもう誰にも何も与えられない。つまりこれから先何かが返ってくることも望めないのだ。
その感覚が真実味を帯びて自分の身に迫ってくるのだ。
人の話を聞くこと。共感すること。親身になること。手助けをすること。笑うこと。心理的にも肉体的にもサンドバッグになること。見下される対象として居続けること。都合のいいスポンジみたいに全て吸い込んで濾過して吐き出すこと。ここにいること。何もかもに疲れてしまった。
私は大抵いつも酷く疲れているのだ。

まだ書ける。と思う。
書くことができれば心は死んでいない。だから書く。いつかこの小さな箱庭のような自我の中から抜け出して、広い世界に出ていく為に。
そう思いながら言葉を紡ぐ。
外の見えない檻の外に、見えなくとも世界はある。不在の証明は容易ではないという。それならば、絶望することだって本来はやりようのないことなんだと思う。

たったひと言、伝えるだけでいい。
たったひと言、素直になるだけでいい。

自分の心に自分で触れることができたのなら、やっと相手の顔が見えるようになってくるのかもしれない。
そうして、返してもらっていたものの存在にも、触れられるようになるのかもしれない。