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海のむこうのはるか彼方

地球が丸いとか、大陸が6個もあるんだとか、そんなこと誰も知らなかった時代。
海のむこうに浄土があるんだって想像することはべつにそんな不思議なことでもなかった気がする。

補陀落渡海は南の海の果てにあるとされた観音浄土を探す旅。
船の上にひとがひとり入れるくらいの小部屋を設け内側からは開けられないように外から釘を打ちつける。
小部屋の中にあるのは30日分の食糧とわずかなすきまから漏れてくる光。
たぶん五感が遮断されて第六感みたいなものと一切の浮世的な邪念を取り払った極限の状態になっていたんじゃないかな。
その極限に有を取り払ったまっさらな無の状態で人はなにを見るのかって、そもそもハードな修行であることには変わりないけど。

現代の感覚でいえばそんな無茶な出航してどこかへ辿り着くなんて可能性、皆無に近いってわかってるけど。
でも昔はもしかしたら本当にたどり着けるんじゃないかって希望もあったと思う。

知らないことがあるから人は夢を見る。

捨身行からだんだん儀式としての性格が変わっていったし、その残酷とも捉えられる面が取り上げられて怪談話と結びつけられたりすることも多いし、科学が普及する前の蛮行でしょうって思う人もいるかもしれない。
でもわたしは怖い話にするのも、未開の時代の忘れ去られた慣習だと切り捨てるのも違和感があって。
現代人がぜったい見れない光景を昔の人は見たがった。そして見ていた人もいた。
櫂が無いから戻れない、行きっぱなしの航海。
そこに人間の根底に流れてる祈りとか畏れとか憧れとか、すごいたくさん、忘れたくないことが詰まってる気がして。

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