りりちゃん氏に如意輪観音の片鱗を見出す試論とも呼べないなんか直感
※この記事は試運転中のFANBOXからの転載です
血の池地獄っていうのは、血の障りによって女だけが落とされる地獄だ。
血の障りっていうのは、生理の血とお産の血だ。
女が血で汚れた衣類を川で洗ったがため、下流の人はその汚れた水で茶を入れ、それを神仏に供えてしまい、すなわち女は神仏を穢したことになる…という理由で女は成仏できないと言われていたのだ。
ひどいよね。
時代が下り、あまりにもひどすぎる、って意見が出たのかどうかはわからないけど、紀伊国(現在の和歌山県と三重県の一部)では熊野比丘尼たちが「女でもちゃ〜んと救われますよ」って話を、絵解きという方法で女たちに教えた。
まだまだ民衆レベルだと文字が読めない人が多かったから、『熊野観心十界曼荼羅』というストーリー仕立てに描かれたいちまい絵を解説しながら、地獄とはどんなところか、なぜ地獄に落ちるのか、どうすれば救済されるのか(=篤く信仰に帰依しよう!というプロモーションになるというわけだが)そんなことを教えて解く。それが絵解きの活動である。
じゃあ血の池地獄に落とされる女を救ってくれるのはいったいだれなのか。それは如意輪観音さまである。
如意輪観音は血の池地獄から咲き出た蓮の上に乗った姿で描かれる。
そもそも如意輪観音というのは線が細くてしなっとしたその御姿は妖艶ですらあり、ほんらい仏さまに性別の区別ってないんだけど、なんとなく女性っぽいよねこの観音さまは、と思われていた。
そんな女性っぽい如意輪観音が、血の池地獄から咲き出た蓮の上に乗ったりなんてしているから、「血の池地獄に落ちた遊女が如意輪観音に転生(化生)して、血の池地獄に落とされた女人を救っている」的な説が出たりしたらしい。
わたしはこのように聖と俗が逆転する説にすごく惹かれてしまうのだ…。
で、なんとなくだけどずっと「救われたい側」の切実な気持ちがこういう説を生み出したんだろうって、なんの根拠もなくそう思っていた。でも、もしかしたら逆かもしれない。つい最近、いま獄中にいる「頂き女子」ことりりちゃん氏が公開している日記を偶然目にしてそう思った。
りりちゃんは自分と同じように風俗で働いてて心も身体もボロボロになって死んじゃいたいくらいつらいと思っている女の子のことを救いたい、と書いていた。
今までは助けてって思ってたけどこんどは救いたいって。
それ読んでなんかこれはもう如意輪観音の話じゃん、って不覚にも思ってしまったのだ。
おとぎ話のテンプレで、お姫さまを救うのは王子さまだった。
でもほんとうにそうなの?と少女革命ウテナは疑問を投げかけた。わたしは小6でウテナに触れてしまったためか「女を救うのは女」という精神構造はふつうに受け入れられる。というか決して抜けない楔みたいに心に打ちつけられている。だからアナ雪を見た際も全然アリ、というかついにD社も呪縛から解放されてウテナに追いついたか…というなぞの感慨すらあった。
女であることの傷みを理解できるのは女であることを思うと、女を救うのは女というのは自然の摂理なのかもしれない。
熊野比丘尼による絵解きも「女による女のための救済」と書物には書かれていて、20そこそこのとき読んで、うんうんそうだよねって納得した気になっていた。今になって、りりちゃんという存在によって「女による女のための救済」の解像度が上がるとは。自分の中で腑に落ちる、血肉となって実感するまでは何年もかかるからやはり簡単に自分の中のテーマは手離さないほうがいい。それはそうと、りりちゃんは、聖へ転じたらカタルシスが溢れ出てそこらじゅう水びたしの大洪水になるくらいの俗要素が揃ってまくっているし、本人も救済に関して自覚的なので、本当に如意輪観音になるんじゃないかって気がした。でね、こんな視点で見てる自分が、ほんとに一番ろくでなしだろうとも思う。それは自覚ある。
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