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「自分は役立たずだ」と思っている、若い研修医さんへ


臨床に立っていると、無能感に苛まれることがある。
自分はなにもできない。なんて無力なんだ。いても役に立たない。同期は、上司は、あんなに優秀なのに。それに比べて自分はどうだ、と。

実は私もその一人で、とりわけ、医師になってから最初の5年間、初期研修医から後期研修医にかけて、その意識が強かった。だが、そのことを相談する相手もおらず、相談するという発想もなく、悶々とした無力感を抱えながら年次を重ねてきた。

そこで今回は、「自分はだめだ」と思っている若い研修医さんに向けて、この文章を書いている。とはいえ「元気出せよ」といった励ましをするつもりはないし、「もうちょっと時間が経てば楽になるから」みたいなアドバイスをするつもりはない。そんなことを伝えたところで、今まさに潰れそうになっている研修医さんは「こっちの事情なんて何も知らないくせに」と思ってしまうだろうから。だからここでは、若い先生が無能感を抱いてしまう原因と、私なりの対処法を紹介したいと思う。



なぜ「自分は何もできない」と思うのか。

自分には能力がない。医師として不適格だ。いてもいなくても同じ、むしろいないほうがいい。

その考えは「無能感」と表現することができる。

「無能感」は、個人の能力ではなく職場や働く環境によって大きく左右される



無能感をなくすためには、次の2つが大切だ。

1.「正確な実力の認識」
2.「能力にあった仕事の配置」

そして初期研修医や若手医師が働く環境には、この2つが著しく欠けている


卒後間もない研修医さんを取り巻く環境は

1. 「正確な実力を上司に認識されておらず」
2. 「能力にあった仕事の配置をされない」

という、まさに無能感を作り出す悪条件が揃っているのだ。



スーパーローテートという修行


医師は卒後二年間、初期研修医として様々な診療科で研修することになっている。どこか特定の診療科に所属し「○○医」と名乗ることはできず、「医師でありながら何の医師でもない」ふわふわとした立場に立つことになる。

複数の科をローテーションするので「ローテーター」とか「スーパーローテート」などと呼ばれる制度だが、これは、人によってはかなり過酷な働き方だ。

ある日突然、知らない職場に配属される。「今日からここでお世話になります、研修医の○○です」と挨拶をして顔を上げても、そこに知った顔はほとんどいない。初めての職場、初めての上司。誰が誰かもわからず、人間関係も見えず、困ったときに誰に何を相談したら良いのかさえわからないまま、仕事が始まる。

仕事が始まれば、「一人の医師」として扱われる。まだほとんどなにも知らないというのに、責任だけはのし掛かる。あるいは「医師でありながら責任すら取れない研修医」という身分でもがくことになる。

「どうせ研修医だから知らないよね」という眼差しを受けるし、肝心なところで「医者なのにどうして知らないんだ!?」と詰められたりもする。医師なのに医師じゃない。医師じゃないけれど、それでも医師。責任も立場も不安定な状況で、それでも仕事は続く。患者さんは毎日入院してくるし、なにかしらの急変が起こる。慣れない夜間当直業務、翌朝になればいつも通りの病棟当番が始まる。労ってもらえることもあれば、もらえないこともある。怒られ、指摘され、でもそれはすべて正しいことだから言い返すこともできず、ただじっと、自分の言葉を飲み込むしかない。

スーパーローテートというのは、経験の浅い医師にとって、とても過酷な制度だ。

職場の上司は誰も研修医の能力を正確に把握していない。そしてそれゆえに、適切な仕事が与えられない。


それでも、研修医全員が同じ状況で悩んでいるのならば、傷は少ないのかもしれない。苦しいのはここで、頭ひとつ飛び抜ける同期が存在する、ということ。

どこの世界でも、「優秀で要領がいい同期」というのは存在する。人当たりがよく、上司から信頼される立ち居振る舞いができる。体力があり、多少の残業や当直明けでも仕事ができる。話し方は落ち着いていて、理路整然とした話ができる。上司や他科へのコンサルトやプレゼンが上手く、いつの間にか「あの研修医はよくできる」という噂が病院内にひっそりと漂う。

簡単に言えば「できる」研修医だ。

働き辛い、成果を発揮しにくい環境である一方で、それらを難なくこなしてしまう同僚というのも確かに存在するのだ。得てして、そういう人は外見が整っていることも多く、文武両道・眉目秀麗。そんな彼らと比べて、何も持っていない自分自身が惨めになってくる。



研修医が無能感を感じるのは、環境が原因かもしれない。


あなたが持っている「自分は役に立たない」「自分は医者としてダメなんだ」という考えは、環境が原因の可能性がある、ということだ。

「いやいや、そんなことないよ。本当にできていないよ」と思うかもしれないが、ちょっと待ってほしい。

医師になって数年で、仕事が完璧にそつなくこなせるというのは珍しい。必ずどこかに「できない部分」が存在する。そしていわゆる「できる」「完璧」な天才医師ですら、できない部分がある。それを外から見えないようにしているだけというだけだ。

ある程度の年次がすぎた医師は、自分の苦手分野を認識して、それを避けたり、他の人にお願いしたり、あるいはそれらの欠点をカバーする別の能力を発揮する。そうすことで日々の業務を「問題なく」こなしているだけなのだ。だから卒後10年、20年の医師でも完璧なスーパーマンは存在しないし、今のあなたが出来ないと思うのは至極真っ当なことだ。



医者は自らの失敗を「語らない」


もう一つ、自分はダメだと思う要因に「他の医者がミスをしない」という点がある。

だが、これも覚えていてほしい。あなたを指導している上司も、頭一つ飛び抜けた動機でさえ、ミスをしないということはない。ただ、己のミスを語らない、あるいはミスをミスだと認識していないだけだ。


医者というのは、自分の失敗を語りたがらないものだ。


ここで「失敗」というと、語弊があったり勘違いが生まれたりするので「出来事」と表現しよう。医療従事者の誰しもが「あのとき、なぜあんなことを」「もっとこうしていれば」と感じる出来事を経験している。教科書に名前が載るような臨床医でも、職場で恐れられている鬼のような上司でも、完全無欠に見える組織のトップでさえ、きっと。だが、それを大っぴらに語らない。

なぜ語らないのか。

それは、語れないからだ。


語ることで、口にすることで、自分がこれまで行ってきた臨床すべてが否定されるかもしれない。信頼性が揺らぐかもしれない。そう考えると、口にできない。

かくいう私も、誰にも明かしていない、忘れられない出来事がある。事情を知っている上司や同僚を除いて、家族にも友人にも打ち明けたことのない、おそらく墓場まで持っていくであろう経験がいくつかある。さらに言えば、ここで「忘れられない出来事がある」「墓場まで持っていく話がある」と書くことにも、最初は躊躇していた。なぜならこれを読んだ全く関係のない人が私に対して不信感を抱き、それが医療全体の不信へと繋がっていく可能性があるからだ。


医者というのは、得てして完璧を求められる。医療行為はもちろん、医者という人間そのものに対しても、完璧さを要求される。


少し前まで「医者がうつ病で休職する」というのは、口に出すことができなかった。今ではtwitterやSNSなどで「病気になった」「休職した」「離職した」と公にしている先生も増えてこられたが、それでもまだ「医者なのに病気になるなんて」とか「病気になった医者に診てもらって大丈夫なのか」という、無言の圧力を感じている。

私は医師5年目の時に抑うつ状態と診断され、休職した。その後、別の職場に復帰して働きながら投薬治療を継続した。妊娠中に内服を終了し、その後1年の経過観察の末、通院終了となっている。

そのことが、私の仕事の質を下げたとは思っていない。だが、もしも患者さんが私の精神科通院歴を知ったら、素直に私の麻酔を受けてくれるだろうかと考えることもある。


医者は自分自身の失敗や弱さを明かすことに躊躇する。だからこそ、あなたの近くにいる医師たちが「完璧」で「ミスをおかさない」ように見えてしまう。



無能感に負けそうになっているとき。試して欲しい対処法3つ。


もうだめだ、自分なんていないほうがいい。

そう感じて煮詰まった時は、ぜひ、次のことを試して欲しい。


①誰かに話す
②誰かに話してもらう
③職場を変える
④職業を変える


①誰かに話す

苦しかった出来事を誰かに話す。自分の中に溜め込んでいるものを外に出すことで、冷静にそのことを振り返ることができるかもしれない。聞いた人から、客観的な意見や感想をもらえるかもしれない。

話をする相手は、できれば自分に近い人がいい。たとえば同じような悩みを抱えていた同期とか、少し上の先輩とか。

おそらく、「臨床研修センターの責任者」とか「職場の上司」という人たちは適していないと思う。なぜなら、彼らは「辛かった若い日のこと」を忘れてしまっていたり、あるいはそういう経験をしていない「頭ひとつ飛び抜けた人」だったりすることが多いからだ。

それでももし、あなたがどうしても辛くて、今の環境では生きていけない、やっていけないと思うのならば、その時は遠慮なく組織や職場の責任者に話をしよう。


身近に話せる人がいない。医療と関係のない友達や家族には、守秘義務があって話せないという人は、カウンセラーを頼る、というのも手だ。

カウンセリングルームというものが、実は意外といろいろな場所にある。心理カウンセラーたちには守秘義務があるから、秘密は守ってくれる。時間は1時間あたり5,000円〜1万円程度。合う合わないもあるし、予約の取りやすさも違う。それでも一度、試してみる価値はあると思う。



かくいう私も、カウンセリングを利用していた時期がある。どうしても上手く対話できない上司がいて、その対処法について色々と教えてもらっていた。妊娠中につわりが辛くて中断して、出産後は通っていない。それでも時々、また予約を取ろうかと考える時もある。



②誰かに話してもらう


①の延長になるが、誰かの経験談を話してもらう、というのもひとつだ。こちらが驚くような経験をされている人は、意外と多い。その人たちが何を考え、何を飲み込んで、今も臨床に立ち続けているのか、あるいは現場を去ることにしたのか。知ることができれば、あなた自身の支えになるかもしれない。

ただ、これが難しいのは「医者は自分の失敗を語れない」ということ。そして語る側もまた、話をする時に苦痛を伴うことが多いということ。だから、あなたと心を許しあえる相手がぽつりと胸の内を明かしてくれた時は、それを静かに受け止めて欲しい。


余談だが、私は後輩さんと話をするときに、時々、自分の過去の出来事を話している。あの時、こんなことがあった。だから今はこうしている。だから今はこれをしていない。あるいは、あの時は自分の力じゃどうにもできなかった、などなど。平凡な医師の呟きが、若い先生たちの何かの役に立てばいいなと思いながら、ぶつぶつ呟いている。



③職場を変える


①や②をしても上手くいかない。あるいは①や②ができない。そんな時は、職場を変えるというのも、方法としてありだ。


医者というのは「どんな環境に置かれても120%の能力を発揮しなければならない」「与えられない環境に適応できないのは能力が足りないからだ」という、不思議な思い込みがある。若い頃は特に、そんなふうに考えてしまいがちだ。

だが、ちょっと立ち止まって考えて欲しい。

理想の環境を求めて、職場を変える意思は少なくない。卒後10年目で転科したり、違う専門性を求める医師がいる。上司と掛け合って、勤務地を変える医師がいる。病院を辞めて、開業してやりたいことをやっている医師がいる。


すべての環境に適応すべきなんて、ただの幻想だ。


「自分が楽に生きられる場所を求めたからといって、後ろめたく思う必要はありませんよ。サボテンは水の中に生える必要はないし、蓮の花は空中では咲かない。シロクマがハワイより北極で生きるほうを選んだからといって、だれがシロクマをせめますか
——江國香織『西の魔女が死んだ』


有名な一節だが、まさにこの通りなのだ。シロクマがハワイで生きられなかったとして、それはシロクマのせいではない。誰しも、自分に心地よい環境というものがあるし、それを求めることは罪ではない


難しいのは、人間はシロクマではないから、どんな環境が適しているかが外側からはわからない、ということ。シロクマの着ぐるみを着たコアラかもしれないし、ペンギンのように毛深いカメレオンかもしれない。「ここが良さそう」「ここなら大丈夫だろう」と第三者が判断しても、実は間違っていることはある。たまたま配属された場所が丁度いい場所かもしれないし、そうじゃないかもしれない。


冒頭に戻ると、研修医というのは能力に応じた職場配置というものがない。スーパーローテートという制度は、若い先生に無能感を植えつけやすいようにできている。

だからあなたが今「自分なんて」と思っているのは、環境が原因かもしれないし、逆に環境を変えれば、より気持ちよく、その能力を発揮できる可能性がある。

事実、職場が変わった瞬間に表情が明るくなり、元気に楽しく働かれている先生方を、私は何人も知っている。それは卒後1年目や2年目ではない、後期研修医や、専門医や、あるいは指導医と呼ばれる年次の先生方だ。



④職業を変える


最後に、この選択肢について考えてみる。

正直言って、私はこれについてはよくわからない。うつ病で休職したとき、医者を辞めるという選択肢もあったが、結局、私は医者を辞めなかった。麻酔という専門もそのままで、違う職場に復帰した。

たぶん、私は「医者以外で働いている自分」というものが全く想像できなかったのだ。自分が持っているのは医師免許だけで、他の人ができる仕事は何もできないと考えていた。だから医者として働く以外、他に方法はないと考えたのだと思う。


でも、本当に辛くて苦しくて無理かもしれないと思うのならば、医師という仕事をやめてしまう、というのもアリだと思う。実際にそうされた方もいるはずだし、これからは医者が余ってくるはずだから、医師免許を持ちながらも医療現場以外で働くという選択肢も広がっていくだろう。ただ、ここで具体的な方向を示すことができず、申し訳ない。



立ち止まってもいい。進んでもいい。狼狽えてもいいし、迷いを振り払ってもいい。ただひとつ、生きることをやめないでほしい。


若さというのは、それだけで弱さでもある。特に医師歴30年、40年といったベテランがうようよいる臨床現場では、年次が浅いというだけで理不尽な目に遭うこともある。いつか時間が解決してくれることもあるし、時間しか解決する方法がないこともある。だから迷うのは当然だし、苦しむのはごく自然なことだ。

あなたは限られた資源と知識と能力を駆使して、その時できる最善の判断を行い、そしてその責任の一端を自分で背負ってきた。それだけでもう、十分に役目を果たしている。


辛くなったら、立ち止まればいい。立ち止まるのが嫌なら、思い切って進んでもいい。わけがわからないと叫んでもいいし、どうしたらいいかわらないと狼狽えていい。あるいは、「これは絶対にやり遂げる!」と気合いを入れ直してもいい。仕事を休んで温泉巡りをしてもいいし、愚痴をこぼしてもいい。

ただひとつ、自分自身は大切にして欲しい。自分を傷つけることはして欲しくないし、悲鳴を上げている体を労って欲しい。必要ならば専門家に受診してほしいし、病院にすらかかれないほどの多忙な職場ならば、さっさと辞めた方がいい。




私も気がついたら医師8年目。専門医にもなってしまった。

そんな平凡な医者からの、ささやかな経験が誰かの役に立っていたら嬉しい。








スキ2


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