2024-05-16: 最近読んだ本
ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたか。
私は仕事か、家族と(比較的)混まなそうなレジャー施設を訪れたりしていました。いつもの、ってかんじ。
バタバタしててあまり本は読めてない。
慢性的な疲労感より、この備忘録もなかなか着手できなかった。
音楽と人 編集部『別冊 音楽と人 チバユウスケ』
雑誌『音楽と人』を中心として、昨年逝去したミュージシャン・チバユウスケへのインタビューを多数収録した本。『音楽と人』編集長の金光が責任編集を務めている。
チバは決して雄弁・多弁なタイプではなく、インタビュアーの質問を躱したり有耶無耶にすることも少なくない。それは彼の不誠実さでなく、語るなら楽曲で、というスタンスの現れだと感じた。
それでもTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT時代から、ROSSO、そしてthe birthdayやサイドワークを経て、チバの中で変わっていくもの、また変わらないものが、金光らとの対話の中で少しずつ鮮明になっていく。
本誌中でも、またラジオ(Podcast)等でも、チバは「雑誌なんてクソだよ。分かったフリしてさ……」と、諦観とも嫌悪ともつかない嘆息を隠さない。
確かに、本誌所収のインタビューにおいても、しばしばインタビュアーによって「チバが言いたいのは、こういうことだろ?」と言質が誘導される局面がある。これはインタビューであればよくあることだ。
それに対し、チバが振る舞う「そうじゃねぇんだけど……わかんねぇ」と一見投げやりな態度から、「お前がそう思うならそれでいいよ。でも他のやつはまた違った受け取り方をするだろうし、正解は決めないでよ」という彼の思いが感じられる(これも私の勝手な思い込みに過ぎないが)。
金光は、本誌を「(チバユウスケを)終わらせるためでなく、忘れないために作った」と編集後記に記している。
私の頭の中にも、チバによるとんでもない歌が今なお鳴り響いている。
チバユウスケという破格で(本人の意に沿わず)交換不可能な男の音楽を、私はこれからも忘れない。
千葉雅也ら『ライティングの哲学』
4人の書き手が「書けない悩み」について対話・共有し、「書けなさ」の深堀りから「いかにして書くハードルを下げられるか」を探求していく。
文章の書き方についての指南書はきっと数多いだろうが、文筆家が抱える赤裸々な「産みの苦しみ、書き出すハードル、書くことの苦痛」を伺う機会は多くないだろう。
執筆の心理的ハードルを下げるため、アウトラインツールの活用方法や執筆テクニック、マインドセットなど様々な話題が横溢し、プロの文筆家以外も興味深く読める一冊だ。
学術論文やレポートを抱える学生や、資料・ドキュメント執筆に悩む社会人など、文章を書く人ならぜひ一読をおすすめする。
渋谷直角『ゴリラはいつもオーバーオール』
漫画『奥田民生になりたいボーイ…』や『カフェでよくかかっている…』で知られる、漫画家・コラムニストの渋谷直角によるエッセイ集。
渋谷の作品はメディアミックスも少なくないため、昨今では漫画家としての顔が有名だと感じるが、元々は雑誌『relax』のライターとして社会人経験をスタートしている。
本書収録のエッセイも、肩の力がかなり抜け「relax」した内容が多く、疲れた頭に染みる一冊だ。
漫画『デザイナー 渋井直人の休日』的なテイストが好みの渋谷ファンはぜひ。
中島らも『今夜、すべてのバーで』
小説家や劇作家、コピーライターなどいくつもの顔を持っていた中島らもは、飲酒後に転倒し脳挫傷が原因で逝去した。享年52歳。酒にまみれた人生だったようだ。
本作は小説であるが、中島が過剰飲酒によって入院した際の経験が執筆の動機であり題材となっている。
ストレスから逃避するために酒を飲む日々。
アルコール中毒者を題材とした作品といえば、吾妻ひでおの『失踪日記』シリーズを彷彿とさせる(『失踪日記2』では中島への言及もあったと記憶している)。
『今夜』はアル中が生理的・人間的に恢復していく物語と読めるが、現実の断酒治療は死ぬまで続くし、その苦しさを吾妻はユーモラスかつシリアスに描いた。
私は本書を、『失踪日記2』的な飲酒依存患者の治療譚かと思って手に取ったが、実際には町田康が解説で整理しているように、複数の縦の筋が入り乱れる物語小説である。
本作の主人公と異なり(彼も結局どうなるかわからないが)、結局中島の人生は酒に飲み込まれてしまうところに、酒の怖さが表れている。
中島らも『僕に踏まれた町と、僕が踏まれた町』
こちらは中島のエッセイで、『今夜』と通じる内容も多い。併読すると結構楽しめると思う。
中島は尼崎出身で宝塚に邸宅を求めたことから、彼に縁のある兵庫県を中心とした生活圏でのあれこれを、キレのある短い文章で面白く描写している。
ゆるいエッセイなので休憩時などにちょっとずつ読むのに最適。
濱口竜介『カメラの前で演じること』
『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー国際長編映画賞を受賞した濱口監督が2015年に撮影したドラマ映画『ハッピーアワー』について、その制作方法やノウハウ、およびスクリプト全文を掲載している。
『ハッピーアワー』は上映時間が300分に及ぶ大長編である。
インタビュー等でカサヴェテスの作品を愛好していると発言している濱口は、カサヴェテス『ハズバンズ』の脚本構造を援用し、夫でなく妻を主体とした謂わばワイヴズと呼べるような(実際に仮題は『BRIDES』だったそうだ)映画を構想した。それが本作である。
『ハッピーアワー』は撮影の前段として実施された、演技未経験者を多く含む「即興演劇ワークショップ」活動の系譜として用意されていた映画作品だ。劇中にも登場人物たちが参加するワークショップが用意されており、濱口は演者たちの現実的な体験を延長するような脚本構想によって、演者らの作品没入効果を高めているとも言えるだろう。
濱口はカサヴェテスの言葉を引用し、演者たちが自由に演技するための環境設計の重要性を説いている点からもそれは明らかだ。
濱口がジャン・ルノワール監督の演技指導プロセスを採用した点も見逃せないが、こういった諸要素は否応なく、濱口の論理的・言語的な作家性を私たちに印象付ける。
濱口は自身が脚本を担当した『スパイの妻』の監督・黒沢清と繋がりが深く、黒沢といえば東大総長だった映画評論家の蓮實重彦の門弟である。映画に関する著書の豊富な蓮實・黒沢の系譜を嫌でも意識してしまうのは私だけではないだろう。
恥ずかしながら、私はまだ『ハッピーアワー』も『ドライブ・マイ・カー』、そして最新作『悪は存在しない』も未見である。
私は上映時間が長い映画が生理的に苦手なのだが(『ドライブ…』も179分とかなり長く、ギリギリ2時間台だ)、『悪…』は106分と長編にしては小品だ。
まずは『悪…』から鑑賞してみようと思っている。
福岡真之介『AI・データ倫理の教科書』
AI・データ法務に詳しい弁護士の福岡が、機械学習とその利用データについて法律家の観点から諸般の問題を論じる本。
後半はマイクロソフトやメルカリなど、所謂ビッグテックや大企業におけるAI倫理に関する取り組みの紹介も掲載されている。
機械学習を巡る技術的・社会的な動向は2024年現在も目まぐるしい。本書が上梓されたのは2022年で、当時はいわゆる生成AIもまだブームではなかった(ChatGPTのプロトタイプ公開が2022年11月である)ため、現在のAI事情を網羅的に扱う内容ではないが、射程する問題は普遍的である。
AIを巡る開発者や企業、そして利用者の倫理感はその技術革新に応じて更新されていくべきだが、こと2024年に及びその倫理的問題は複雑性を増大し続けていると感じる。
たとえば、「AIに人種差別的なアウトプットをさせるべきでない」というテーマは多くの現代人に賛同される倫理的命題と言えるだろう。
これはそもそも、「人種差別は倫理的によくない」というかねてからの社会的な共通理解に準じているからだ。
しかし、昨今の生成AI発展がもたらす「AIに自然言語で指示を与えて出力した芸術作品(音楽や絵画など)は、AIに指示を与えた操作主体の創作といえるか?」といった議論や、「汎用モデル学習のためのデータセットはいかに準備・利用されるべきか」といった話はAIの急速な社会実装・受容とともに生じた新規的な問題である。
これらは新しい哲学的・倫理的な論点を少なからず含み、私見では現行法や既存の諸規範とハレーションを生じている。
そうでなければ、そもそも各国において議論の俎上には上らないだろう。
議論の紛糾には必ず文脈と理由がある。
本書は「教科書」を表題に冠するとおり、AI倫理への誘いとして最適の一冊だ。
SNSで奔流するこの手の議論にめまいがしたら、まずは足元は少しずつ固め、ゆっくりと考えてみる時間も大切である。
Nemuki+編集部『伊藤潤二大研究』
最近、個人的に伊藤潤二ブームが到来し、『富江』をはじめとする伊藤作品を乱読していた。
勢い、本書も手に取ったが、和山やまや諸星大二郎との対談など貴重かつ興味深い内容が多く大変良い。
私は、伊藤作品がかなり多くの作家に影響を少なからず与えていると考えている。
たとえば『チェンソーマン』の藤本タツキは沙村広明や宮崎駿からの影響を公言しているが、伊藤作品の時間的・空間的な「間」をしばしば藤本作品にも感じることがある。
藤本が好んで描く「S気質な女性」はまさに富江そのものであるし……とまで書くのは筆が滑りすぎか。
伊藤の作品はほとんどがホラーだが、実は「あだち充ショック」に影響を受けた一人であり、『めぞん一刻』のようなラブコメを愛読の上、実際にデビュー時にはラブコメ(?)のネームも切っていた。この事実だけでも驚愕だ。
伊藤の美少女キャラクターはタイムレスで本当に愛らしい(どのような影響下で画風が確立されたかは定かでないが、当時のあだちと江口寿史の美少女画には触発されているはずだ)。本当に、こんな絵が描けるようになりたいものです。
森村誠一『新版 悪魔の飽食』
関東軍防疫給水部。またの名を満州第731部隊。
日中戦争時、満州ハルビンにおいて石井中将率いるこの部隊は、外国人捕虜に対して大規模な、筆舌に尽くしがたい人体実験を実施していた。
第二次大戦中の人体実験といえば、医師ヨーゼフ・メンゲレを中心としたナチスの実験とニュルンベルク裁判が有名だが、日本もまた同様の轍を歩いたのだ。
私が731部隊について知ったのは、おそらく何らかの創作物においてであった(吉田秋生の『夜叉』あたりだっただろうか)。
本部隊の活動については、戦後石井による米国への研究資料提供による関係者の助命・放免取引や、関係者の多くが口を閉ざしてきたことで長年不明なことが多かった。
森村の本書に至っても、刊行時の掲載資料不備(『続 悪魔の飽食』)や演出過剰が各方面から指摘されており、内容への批判も少なくない。
それでも、731部隊が満州において捕囚に対する戦争犯罪を繰り返したことは客観的事実であり、ハンナ・アーレントが『エルサレムのアイヒマン』でいみじくも喝破したように部隊関係者は「陳腐な悪」そのものであったと言える。
森村もまた、本書は石井中将などの個人的・悪魔的側面の追求でなく組織的悪に対するジャーナリズムが目的である旨を強調している。
私たちは戦争のような例外状態に陥った際、容易に倫理感を欠いた悪魔的行為に手を染める。
特別な、悪の因子を孕み平時から粗暴で邪悪な人間だけがそうなるのではない。
「誰でも」そうなるのだ。
今、ここで呑気にnoteを書いているこの私が、あの時代にあの場所にいれば、やはり同じことをしたのではないか。いや、きっとするはずだ。ここに言い知れぬ恐怖があり、引き裂かれるような思いを感じる。
森村が書くようにに、このような愚行、ひいては戦争を繰り返してはいけない。私たちには、731部隊の活動、ひいては戦争の犠牲者に対して報いる方法はない。
私見では、戦争の契機は当然のような顔をして正門から訪れる。
人間が人間である以上、闘争はきっと廃絶しないし、戦争の因子は拡散しつづける。
それでも決定的な契機を回避し続けるための努力、そして過去に学んだ悲劇の再演を二度と起こさないよう、我々は不断の倫理的・理性的努力を継続しなければならないと強く思う。
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