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2023-01-24: マジの単なる日記

バタバタしていて23日の日記をSkipしてしまった。これをもって純粋な日記としての性質はこのnoteから喪われた。
いや、もともとそんな性質を付与してはいなかったんだけど。

無理やり23日の日記を書くこともできるんだけど、義務っぽくなるとイヤになっちゃいそうなので、今後はほぼ日システムでぼんやりやっていこうと思う。


24日夜はちょっとした台風みたいに風が吹き荒れてて、コンビニの旗が倒れたりしていた。
夜間に車で外出する用事があって運転していたのだけど、直線道路走行中に突然大きなObjectが飛び出してきて心拍数が跳ね上がった。計測してないけど149bpmくらいになったと思う。

鳥かな、と思った。しかしObjectはサギくらいの大きさで、そんなもんが街中をひょいひょい歩くほど自然豊かな場所に住んではいない。
軽井沢とか走ってると、たまにキジが飛び出してきたりするけどさ。

オチを言うと、普通にObjectはどっかから飛ばされてきた、ぶっ壊れた蝙蝠傘だった。冷静に停車し、ウィンカーを出して、そいつを迂回する。
ああいう大きいゴミ、最後はどうなるのだろう。
近所の人が片付けているのか、自治体がどうにかしているのか、はたまた河川に飛び込んで汚泥に埋没するのか……。


日常会話において、私はしばしば口語的でない言い回しをしてしまう。
たとえば、「先日XXの方々と連座した際に」みたいな。こういうの、普通は「同席」みたいに表現するんだろうけど。
こういう人、あまり身の回りにはいないのだが、「ナポリの男たち」のhacchiさんの語り口を聞いていると、たまにポロッと出ていて、「あっ、わかる」と思う。

難しい言葉を選んでドヤったり相手を煙に巻きたいわけでなく、脳内で「A」を意味する言葉を走査した際にわりと選択肢があって、一番最初にヒットした言葉を無批判に持ってきた、って感じかなと思う。
活字に触れる時間が多い人は、抱えている語彙が比較的多くてこういうことになるのかな。
本当は、口に出す前に「これ、適当かな?」と検討すればいいのだが、それはそれで面倒なのだよな。


パブリックな場で自分のことを話す機会があったんだけど、不特定多数の人が聴衆であることを想定すると、なんか語り口がカタくなるし、「俺本当にそんなこと思ってるか?」って感じながら話してしまう。
意識が言葉を御してるのでなく、言葉が私の意識を御する感じというか。

2011年の震災のあと、作家の東浩紀さんがたしかTwitter上で、日本のメディアの取材に日本語で応答する場合と、海外のメディアに英語で応答する場合では応答の内容を変えてしまう自分の存在に対する認識について述べられていた。
同じように震災についての所感を語っているのに、英語で語ると日本語の時よりも力強い語り口になる、みたいな。これは英語がもつ力のなせるところなのだろうか。

デリダの『グラマトロジーについて』を読もうかな。

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