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子宮内膜症(卵巣チョコレート嚢胞)と妊活 ④ 胚盤胞移植2回目・妊娠

※ 子宮内膜症を患うアラサー妻と、夫が体外受精に取り組んだ一例の話です。経過は今までの記事に記載しています。タイトルにあるように、この胚盤胞移植2回目で妊娠し、現在に至ります。ご理解の上、お読みください。

前回の稽留流産手術を経て、水子供養が終わり落ち着いた頃、私は退職を決意した。新卒から正規で就いている仕事を辞めるということ。デメリットは、十分に分かっていた。不妊治療に投資して取り組めたのも、正規で働いていたからということもある。退職を決意した理由を簡潔に書けば、自分のキャパシティに限界を感じていた。今のような時間の使い方、身を粉にする働き方では、どうしても自分はこれ以上続けられない。産前休暇、育児休暇のある仕事であったため、若くして辞める人は少ない。退職が発表された日は、社内で騒然となった。

人生で初めての退職は、今後のライフプランを見つめ直すきっかけとなった。失ったものの大きさに気づくのはもっと先かもしれないが、得たものの大きさを今、しみじみと実感している。(また、このことは気が向いたら記事にしようかな)

流産手術後は、体調を戻すまでに3回の生理を見送った。(身体が元に戻るまでのスピードには個人差があるのと医師の判断によって異なる。)1度目の生理は量が少なかったものの、2回目と3回目にはいつもの量の重い生理が戻っていた。3度の生理を見送った後、医師に内診をしてもらい、妊活に向けてOKの指示が出た。時期的はちょうど、退職してすぐの頃だった。

退職してから数日は、銀行に行って諸々の手続きをしたり、会社から持って帰ってきた荷物の整理をしたりしていたが、全てが終わると重い肩の荷がすっと降りたような開放感を味わっていた。日中に、ただぶらりと近所を散歩するのも気持ちが良かった。慌ただしく仕事帰りに行っていた買い物も、昼に行くことで新鮮な商品が並んでいることにウキウキした。不定休の夫とも平日に出かけたり、美味しいご飯を食べに行ったりして夫婦の時間を作ることができた。

何よりも有り難かったのは、時間にゆとりをもって病院に通うことができたことだ。今までは仕事が終わってから夜に病院に通う日々だった。採卵や移植のために会社に無理を言って休暇をもらうことのストレスも無くなった。人それぞれ様々な事情があってその上で働いているけれど、人手が足りていない状況で何度も休みを取ることがウェルカムではないことも知っていた。直接言われて追い詰められることはないものの、冷ややかな態度やどこからか勝手に流れる噂話に耐えられるほど、職場での私は自分の在り方を貫き通すことができなかった。

退職した翌月から、治療を再開した。身体に最も負担の少ない「自然周期法」での実施となったが、初月は卵胞が育たず採卵できなかった。ホルモン値もうまく上昇せず、移植もできなかった。その次の月には1つだけ採卵ができたものの、変性卵(受精が難しいタマゴ)であった。

…なかなか、うまくいかない。

しかし、なんとかホルモン値の上昇は見られたため、凍結していた胚盤胞を移植することになった。残っているたった1つのタマゴ。たとえ初期であっても、一度でも流産を経験してしまうと「また駄目だったらどうしよう」というネガティブな思考になってしまう。流産手術の身体面とメンタルのしんどさも思い出す。この弱さが辛い。

胚盤胞移植2回目は、病院Cの院長ではない医師によって淡々と行われた。子宮が後屈しているため、エコーが非常に見にくかったようで、やっぱりグリグリとお腹を押されていた。「無事に移植できました」と、テレビ画面のエコー画像を見せてもらうと、医師は次の診察があるのか、そそくさと施術室の外へ行ってしまった。看護師も業務的に「お疲れ様でした」と言って帰る準備するように促した。1回目の移植よりも、なんだか実感が湧かなかった。

移植後はゆったりと過ごした。前回のような着床出血は見られず、なんとなくだるいような、でも、日頃、身体を休ませてストレスがない分、元気に過ごしていた。あまりにも身体に実感がなさすぎて、前回よりも早めに検査薬のフライングをしてしまっていた。陽性反応が出たものの、やっぱり直前の注射の影響かと思ってしまい、結局、信じられなかった。

予定日に生理は来ず、病院から指定された日に、再び検査薬を使用したところ、ちゃんと赤い線が2本出ていた。正直、二度も着床することは奇跡的なことだと思う。有難いことだ。けれど、喜びよりも「ここからだ」という構えた気持ちの方が強かった。出産に至るまでにいくつもの壁があることは、知識として知っていた。そして人間は、出来事で一度でも悲しい気持ちになりうることを知ってしまうと、心が壊れないように予防線を張ってしまう。

病院Cで、エコー内診で胎嚢を確認した。子宮内に少し大きめの胎嚢が見えた。おめでとうございます、という言葉があったかは覚えていないけれど、「胎嚢が見えました。次はまた来週受診してください。」というようなことを言われたことは覚えている。診察後、葉酸サプリの案内や細菌感染に気をつけるよう説明があった。

生活の状況はガラッと変わったものの、受診を待つまでの1週間が長いことに変わりはなかった。病院に行く日は不安でいっぱいになる。内診台に上って、エコーで見るまでに、心臓は何回爆発しそうになったか。内診台の手すりを握ると、手汗でびちゃびちゃになる。お腹の命に「お願い、生きていて」と心の中で語りかけながら願うばかりだった。エコーで心拍を確認してからも、喜びよりもホッとして全身の力が抜ける、といった具合だった。これを診察のたびに繰り返す。みんな、こんな感じなのだろうか。

しばらくすると、「つわり」が始まった。

偏食がひどく、ゼリー飲料、じゃがりこ、コンビニおにぎりが唯一食べられるものだった。温かい湯気や炒め物のにおいが一切受け付けなくなった。深夜の空腹がひどく、眠れない日々が続くこともあった。排便トラブルがひどく、ずっとお腹を下していた。ひどい頭痛で何もできず動けない日も多かった。ただ、吐いてはいないため「つわり軽い方でよかったね」なんて何気なく言われると、笑顔で内心憤っていた。

胚盤胞2回目の移植から2ヶ月、手探りであるが、自分なりの妊娠生活を送っていた。「子宮内膜症は妊娠するとよくなる」ということはよく言われるが、そもそも厄介なこの病気、自分が想定していなかった問題にぶつかることとなった。

次回で、このタイトルでの話は一旦終わります。



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