Wicked problemとしてみた感染防止と経済振興の対立問題
冒頭注:本稿はPolitical Science、医学、経済学の素人が書いた門外漢の備忘録です。
COVID19の蔓延に関する様々な事象や発言の報道に接し、いささか頭が混乱し、当惑しています。それは、様々なことがらが絡んでいて、どのことがらに注目するかで、まるっきり異なる見解が出てくるからです。このような問題は、Wicked Problemの典型ではないかと考えるようになりました。Wicked Problemとは、
- 要求条件が不完全で、しじゅう変動し、矛盾を内包し、しかも
- しばしば認識困難であるがゆえに、また、
- 様々なことがらが相互にからみ合っていて、異なる意見をもった関係者が介在しているために
解決が不能または困難な問題
を指します。英語のWicked Problemに対する日本語の定訳はないようですが、「厄介な問題」と表現される用例もあるようです。Churchmanは、Wicked Problemを、
「情報は混沌としていて、数多くの価値観の異なる利害関係者や意志決定者が数多くいて、全体システムのから発する予期しないような結果が混乱を助長させているような、構造化の困難な社会システムの問題のクラス」(Churchman, C. West, Wicked Problems, Management Science, Vol. 14, No. 4, Application Series (Dec., 1967), pp. B141-B142)
と形容しています。COVID19の蔓延への対処に対して、感染防止という意見と、経済が死んでしまったらそのことが原因で生存が脅かされるという意見が混在し、感情も入り交じって対立している状況は、まさにWicked Problemであるといえましょう。
Churchmanさんは、構造化困難とおっしゃいますが、この混沌さをもう少し整理するために、様々なことがらの関係を図解してみました。
この図で、箱はことがらを表します。また、矢印は相互関係をあらわします。図の上の方には、医療崩壊の事象として報道されていることがらを置いてみました。諸外国でおきたように、自力での呼吸が困難な状態に陥った患者さんに対して呼吸補助をする機材が足りなくなることは「救えない人を救えない」事態という意味で医療崩壊であるといわれています。また、交通事故や心臓発作などがおきても緊急搬送先が手一杯で対応できない状況も「救えない人を救えない」事態です。さらに、感染が蔓延している状況で、癌をはじめとする他の病気・疾患を治療する手術も延期・中止になっており「救えない人を救えない」事態を生んでいくおそれがあります。加えて、外来の患者診療の抑制に追い込まれている医療機関も少なからずあり、本来であれば早期の発見・治療であった病気・疾患を重篤化させてしまう事態もありえるでしょう。これも医療崩壊の現象の一部といってよいでしょう。手術・患者さんの減少、院内感染による休診、過酷な労働環境への対応は、医療機関の経営を直撃します。このような状況が長引けば、感染患者の増加という状況で倒産・廃業に追い込まれる医療機関があらわれてきても不思議はありません。このように、医療崩壊にかかわる事象として、目配りしなければならないことがらは多々あると考えられます。
図の下の方には、経済崩壊の事象としていわれていることを並べてみました。感染防止のため人と人の接触機会が制約されることによって、外食、宿泊、交通サービスにかかわる企業の売り上げは大きく落ち込んだだけでなく、先行きへの不安から買い控えもおき、製造業の売り上げも大幅に減少しています。これらも事象を起点に、経済的破綻がどのように進んでいくのかについては、経済学には分厚い蓄積があります。経済学の泰斗の皆様がご覧になれば笑止千万だろうと推察され、汗顔ものですが、あえて現れてくる事象の箱と、それぞれの関係を矢印で結んで見ました。
このように、それぞれの領域のご専門の方が叩いて下されば、いくらでも埃が舞う図解です。ただ、このように全体を図解してみると、例えば、「感染者を減少させることに成功しても、経済破綻によって死亡する人が拡大したらどうするか」という見解にあらわれる、医療崩壊及び経済破綻に起因する落命者数はどのような関係にあるのかが、おぼろげながらも見えてきます。
そして、一人の感染者が他者にどのくらいの確率で感染させるのかをあらわした、図中の「実行再生産数・感染確率」の箱のまわりのことがらの関係が、感染防止という観点からみても、経済活動の維持という観点から見ても重要であることがもわかります。非常事態宣言などによって「人と人との接触距離や機会を減らすこと」が「実行再生産数・感染確率」を減らすのに大きな効果がある、ということは、私たちは経験済みです。しかし、「人と人との接触距離や機会を減らすこと」が、現在の経済構造・企業の業態・付加価値創造のあり方を前提とするならば、経済に大打撃を与えることも多くの方が主張されています。
「実行再生産数・感染確率」を減らす手段は他にもあるとされています。例えば、「三密回避、手指消毒の徹底などの生活変容」も期待できます。実際、土谷隆氏の論文や分析によれば、東京都では、5月末の非常事態宣言後も、「実行再生産数・感染確率」は、第一波の前の3月の6〜7割に減少させているということですから、総じて見るならば、東京都民は「三密回避、手指消毒の徹底などの生活変容」の努力をしていて、感染拡大の進展を抑制させているとみることができます。しかしながら、本稿を書いている7月末の時点では、東京都でも感染者はゆゆしきペースで増加しています。逆に言えば、「三密回避、手指消毒の徹底などの生活変容」だけでは、「実行再生産数・感染確率」を抑制できないことも事実です。
仮に「人と人との接触距離や機会を減らすこと」が経済振興の観点から禁じ手で、「三密回避、手指消毒の徹底などの生活変容」の効果に限界があるならば他に策はないのでしょうか?決定打になるのかは素人の筆者にはわかりかねますが、一定の効果があると思われる方策が、オックスフォード大学が4月に発表した論文に示されています。そこでは、感染力が発症の前の2〜3日にピークがあると推測されることを根拠に、感染判明者が現れたらその濃厚接触者を24時間以内に割り出し、その全員が隔離されるようにしたら、感染防止上の効果が認められるというものでした。濃厚接触者を判明後3日経って隔離していたら、その効果はない、ともその論文には書かれています。
この論文の主張を信ずるならば、日本の保健所がファックスや電話などの手段を使いながら濃厚接触者を把握し隔離しようとしているスピードでは、著しい感染防止効果は期待できないとも読み取れます。となれば、感染者、特に自覚症状のない感染者を、唾液検査など医師等の手を患わすなど医療資源を費消しない検査方法を駆使して幅広く割り出していくとともに、もし感染が判明したら、COCOAなどのアプリケーションで即刻濃厚接触者を割り出してご本人に通知し、各地に用意した宿泊施設に収容することができれば、「実行再生産数・感染確率」を、低下させる途が拓かれるということになりす。そういう意味では、感染者の能動的探索、アプリ「COCOAなどの普及率向上、ホテルなどの簡易隔離受け皿の増加と割り当ての迅速化を三位一体ですすめることは重要です。言い換えれば、図中の「能動的探索規模」、アプリ「COCOAなどの普及率」、「ホテルなどの簡易隔離受け皿数」の量的規模と、その相互関係を見積もり評価しつつ合わせ技を実行していかねばなりません。このように、経済活動を維持しつつも「実行再生産数・感染確率」を減らす手段になりうる可能性があるにもかかわらず、本稿を執筆している時点では、合わせ技が動いているとは思えません。
このように全体図解をすることは、ことがらの関係を俯瞰的に把握し、手が回っていないことがらを発見する手がかりになると思われます。
なお、図中、緑の矢印で示しましたが、仮に医療崩壊の規模が甚大で、それがもとに社会的大混乱が起きれば、結局は、企業業績、売り上げに響き、失業などを促す可能性もあることも忘れてはなりません。
いずれにせよ、局所的な議論や感情論を繰り返しても、今般の困難な事態の改善には役立ちません。この図解に現れたことがらの数量的関係を見積もったうえで、あるアクションをおこしたら、どのような効果・影響があるのかを、他のことがらに及ぼしていくのかを数量的評価し、いくつか考えられるアクションを比較考量したうえで政策意思決定がなされなければなりません。また、税金をこの図のどの箱をにらんで投入するのか、その期待効果はどのくらいであるのかを見積もったうえで議論し、国民への説明責任を果たすことも大事です。思いつきで局所的な、しかも効果が他に比べて期待できないことへの予算投入は避け、限られた財政資源をより効果の多いところに投入していかねばなりません。こうしたことを考え、ここで試しに描いてみたような、ことがらの全体関係図は、議論する下図としても使っていけるのではないでしょうか。
加えて、図中のどの箱が第一の政策目標であり、どの箱が第二、第三の目標なのか、あるいは制約条件なのか、政策上の優先度付けや前提とする制約条件を明確にするために、このような全体関係図を使うことが期待されます。勿論、この優先度付けや制約条件の設定に全員が賛成できないのがwicked problemの難しいところですが、まさにそれが政治的意思決定なのでしょう。美辞麗句の中で、一体何を目標にしているのかわからず呉越同舟、結局、船頭多くして船が山に登ってまうよりは、呉越同舟は呉越同舟だけれども、ある明確な目標のもとに組織が意識あわせをして整合的に動いていくことは、困難に向かうためのガバナンスとして非常に重要であると考えられます。
繰り返しますが、ここに書いた図版はいくらでも埃がでますが、このような包括的な構造化と、数量見積もりを踏まえた意思決定の重要さを主張するための素材としてご理解ご容赦賜れれば、筆者としては誠に幸いです。