目白村だより12(フランスの想い出②)
フランスは、私が日本を離れる少し前に終わったバブル期の日本に比べると、トイレや電化製品等で、とても遅れているように思える事が多々あったが、逆にそれは古いものを大切にするという文化でもあった。
フランスの持つ、つつましさは、農業国をベースに発展した土や自然を大事にする伝統から来ていて、それにキリスト教的清貧が溶け込んでいる。だからこそ、その対極にあるようにファッションが生まれ、アバンギャルドも生まれるのだ。
この当たり前の事が、凡夫には、やはり住んでみないと分からなかった。
住み始めて以来私は、急速に古いパリ、19世紀の建物を大事に残しているパリから、逆行するように歴史を学ぶことになった、そして当時、写真代わりだった版画は最適最高の教材だった。これが版画収集にのめりこんだきっかけである。
アパートから近いドゥルオー(パリで一番大きな競売場)あたりには、沢山の版画屋があり、クリニャンクール(蚤の市)も、それほど遠い距離ではなく、散歩がてらに街の勉強をしながら、自然に出入りするようになっていた。
ルネッサンスから現代までの様々な版画を、星の数ほど見たが、その中でも特にバルビゾン派(正確にはフォンテーヌブロー派なのだが、通りやすいので、使う事にした)にひかれたのは、前回も書いた、モンマルトルの環境が大きく、加えて、私が、いつも気にしている(動物たち、生き物たち)に、まず目がいったからだ。
バルビゾンはパリから約50キロ、広大なフォンテーヌブローの森の端に位置している。
パリから鉄道も通じているが、ダイレクトにはいかず、ムランという田舎町で降りて、バスかタクシーという事になる。パリまでは、車で約1時間、高級住宅地が広がり、ここから通っている人もいるそうだが、交通渋滞が当たり前で、さぞ大変だろうなとは思う。
もっとも別荘的に利用している人も多い。
フォンテーヌブロー、この王家の御狩場だった広大な森は、法律で開発が禁止されていて、自然に囲まれた文句をつけられぬ環境である。
週末には、この地区で(バルビゾン以外の近隣の町)よくオークションがひらかれる。
バルビゾンでは、大きなオークションが年数回開かれる。私は、このオークション目当てに、バルビゾンとその近隣の町に、何度も行ったが、泊ったことはない。大体は競売の日に、電車とTAXIをのり継ぐか、または友人の車で行き、午前中に下見をして、昼をすませ、午後オークションに参加するのである。
バルビゾン派の画家の絵と日本は、実に関係が深い。それを、紐解くには、明治9年(1876年)に日本国明治政府が、イタリアから招聘した、アントニオ・フォンタネージの事を書かなくてはならない。彼は、日本初の工部美術学校の教師として、西洋絵画の具体的な手法を、日本人の画家志望者に伝えた。彼の滞在は、2年にも満たなかったが、浅井忠、五姓田義松、山本芳翠、小山正太郎、高橋由一・・・ETC、日本洋画の礎を造った画家たちに多大な影響を与えた。
フォンタネージは、イタリアではかなり有名な画家であるが、トリノというイタリアにしてはかなりフランス的な街に住んだこともあって、特別にフランスの美術界(特にリヨン派)と近かった。リヨン派は、バルビゾンの画家たち(フォンテーヌブロー派)とも始終行き来があったが、このリヨン派(例えば、フォンタネージやアピアン)も含めて、バルビゾン派だとひとくくりにすると、深く掘り下げれば下げるほど曖昧な部分がでてきてしまう。美術史的に見ても、大きく印象派の前期に入れる人から、ロマン派と印象派の中間に位置づける人まであり、どれも間違いだとは言いにくい。
また、主なるテーマが、風景画とはいっても、単なる風景から、歴史神話に材を取るもの、狩猟をメインしたもの、洗濯女から農婦まで働く人を中心にしたもの・・・これも考え方しだいで多様な解釈が出来る作品が多い。
それに、120年程前から数十年間、バルビゾンに来て風景画を描いた画家は、世界中から来ていて(確かに一時、世界の風景画家のメッカであった)数えきれない数になってしまう。
そこで、コローは別格として、バルビゾン派の七星という分け方が生まれた。
J・F・ミレー、T・ルソー、ディアーズ、トロワイヨン、Ch・ジャック、ドビニー、デュプレの7人である。
1876年に日本の西洋画教師第一号として訪れた、フォンタネージが、この7星の誰のどの版画作品をもちこんだのかは、はっきりしない。しかし当時最先端にあったミレー(1875年に亡くなっている)やコローの版画などを、持ち込み教材として用いた事は、知られている。
私は、フォンタネージの作品を見ていて、彼はディアーズやドビニーそれにデュプレの影響も相当あったのではないかと思っている。