Tomuya

歌手、プロデューサー、作家、日仏映画研究家。日本での活動を経て1992年パリで歌手活動を開始。現在、代官山晴れたら空に豆まいて、四谷ウナカンツォーネなどで定期的にライブを行う。著書に「日仏映画往来」松本工房 2017年、「パリの『赤いバラ』といわれた女」さくら舎 2019年など。

Tomuya

歌手、プロデューサー、作家、日仏映画研究家。日本での活動を経て1992年パリで歌手活動を開始。現在、代官山晴れたら空に豆まいて、四谷ウナカンツォーネなどで定期的にライブを行う。著書に「日仏映画往来」松本工房 2017年、「パリの『赤いバラ』といわれた女」さくら舎 2019年など。

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目白村だより36bis(天使マリリン②)

 そう、きっかけはパリとKのポスターだ。そのポスターの話しをしたMさんとマリリンとの御縁が、小説にさせたのだ。 それは、なんだか全部決められていた気もする。  私が書き通せたのは、参考の為に読んだ、夥しい量の出版物の内容より、彼女が放っている孤独の叫びがいつも心に刺さるからだ。  私たちは、出会いのドラマを繰り返し生まれては死んで逝く。  マリリンの出演した映画は30本。そのうち3本は、ほとんどカメラテストで、何処にいるのか気がつかない。  本当に、役らしい役がついたのは7

    • 目白村だより41(日仏往来記①)

       パリのアパートを引き払ったのは既に大昔の気がするが2020年の12月のことだ。コロナが流行していて、夜間外出禁止、通行証携帯義務等、さまざまな不自由のなか引越しができたのは友人たちのおかげだった。    翌2021年は、滞在証を警察署で受取る指定日が春に決められたが、どうしても難しくひろみ嬢に交渉を頼んで、延ばしてもらった。(この件はブログの2回目に詳しい) この年コロナは世界中で猛威をふるったが、期限ギリギリで年の瀬に出向いたパリは戒厳令状態だった。  今回のパリ日本文化

      • 目白村だより39(アラン・ドロンの瞳④)

         フランス人の気質と日本人が親和する感性の一つに(感謝)がある。CFに繋げてくれた三船敏郎へのドロンの恩義と仁義がここで重なっている。三船とドロンは、兄弟仁義だ。 三船敏郎とは「レッド・サン」(1971公開)で共演したことから親しくなり、その口利きで、一連の黒い噂がありながら日本のアパレル、レナウンと契約が出来た。 だからドロンは、なにかの折には名前を出し、三船プロのイヴェントにも参加し感謝を示した。 レナウンとの契約が終わって、翌年彼はマツダの(カペラ)のCFに登場した

        • 目白村だより40(ヒロシマ・ナガサキ②)

            2024年の夏の目白は、灼熱の街であった。私は、映画関係のポスター整理に追われた。マリリン・モンローのポスターもご披露したが、準備する方も見に来る方も生命がけ。コンビニに行くだけでも、これほどしんどいのは歳のせいか?と思ったが、若い人も酸欠の魚のように歩いている姿をよく見かけた。  そして突然の総選挙の実施が決まり、秋の気配を感じた時に目に飛び込んできたのがノーベル平和賞を被団協が受賞の大ニュースであった。    大体、被団協の名前を、知っている人はどのくらい日本にいるの

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        目白村だより36bis(天使マリリン②)

          目白村だより39(アラン・ドロンの瞳③)

           アラン・ドロンの商業的戦略は、(アラン・ドロン商法)とまでいわれる徹底的なものだった。映画での興行に翳りが見えはじめる前から次の手を打っておく…。このマーチャンダイジングに長けた俳優は、企業家でもあった。  映画スターがここまで自分の名前で商売した例を知らないし、また今後もないであろう。なぜなら少なくても欧米の俳優は、自身のイメージを大切にするために、コマーシャルに出たがらないからだ。 これは日本という舞台とアラン・ドロンだからなりたった特別なケースだ。  本国には、知られ

          目白村だより39(アラン・ドロンの瞳③)

          目白村だより39(アラン・ドロンの瞳②)

            フランスには商業映画とアート系映画の線引きを解かっている人が多い。  だから商業映画の象徴のような俳優アラン・ドロンがゴダールの映画に出た時は驚いた。  水と油の様な二つの存在が、映画になった結果出来た作品は、ストーリーが分かりやすい昔の懐かしいゴダール映画だった。(良い意味で年を重ねたアラン・ドロンの存在が貢献している) めんどくさい親戚にあったような(私たちは、ゴダールの話術に慣れてしまっていた) 「ヌーヴェルヴァーグ」(1990)という映画。 タイトルからして皮肉に

          目白村だより39(アラン・ドロンの瞳②)

          目白村だより39 (アラン・ドロンの瞳①)

          パリのひろみ嬢が帰国。 暑い中、目白まで11月の展示イヴェントの打ち合わせに来てくれた。 この夏はパリオリンピックの男子バスケットチームの世話で約一ト月、リール(会場がある)にいたそうである。  彼女は昔から映画にたづさわっていて翻訳もすれば、コーデュネーター、時にはジャーナリストの一面も持つ。 私は彼女に聞いてみたいことがあった。それは先日亡くなったアラン・ドロンの晩年連れ添った日本人女性が同じ名前であり、間違えられないか?という疑問であった。 「しょつちゅう」という返事に

          目白村だより39 (アラン・ドロンの瞳①)

          目白村だより 38bis(マリリン〜明日の翼〜)

          マリリン・モンロー ポスター展でのTOMUYAのインタビュー動画 Heart of Marilyn をテーマにしたライブ,TOMUYA's NIGHTの予約     暑さに負けそうになりながら、なんとか今年の夏を過ごした。 誰もが環境の変化に苦しみながら必死で、適応しようとしていた。 パリオリンピックは、アスリートの身を削る努力を見せられて、大きな励みにはなったが、一方ではまたまた巨大なる欺瞞を見せられることになった。 判定のいい加減さにも改めて呆れたが、何よりも平和の祭典

          目白村だより 38bis(マリリン〜明日の翼〜)

          目白村だより38bis(マリリン〜夢の翼〜)

           8月5日は彼女の命日だ。 拙書「天使と侍」からはじまりポスター展まで、マリリンの生き様、36年間の人生にここの処向き合い続けてきた。  スターの夢の実現のために、彼女は人の何倍も努力した。その象徴がモンローウォークである。 おさな妻が、離婚して女優になろうと決意した18才頃。 自己分析と自己実現は最初なかなかうまく結びつかなかったが、その苦闘時代、22才の時(1949年)にチョイ役で出演した「Love Happy」でマリリンは自分の強力なペルソナを見つけた。 この映画はほと

          目白村だより38bis(マリリン〜夢の翼〜)

          目白村だより38(マリリン〜歌の翼〜) 

          マリリンが拡げた歌の翼… この世に残した最後の歌声が、ケネディの誕生会で歌ったバースデイソングだ。  この映像は広く知られるところだが、とても痛ましい。   マリリンの歌に関しては余技だという人もいるが、渋い魅力がある。そして映画に呼応したヒット曲、有名曲が沢山ある。   白眉は「お熱いのがお好き」の(I Wonna Be Love By You)だろう。 まったくモンローにドンピシャの名曲。 歌唱はウィスパーが基本だが、音量や音程などは超えた存在感で独特のビブラートが入る

          目白村だより38(マリリン〜歌の翼〜) 

          目白村だより38bis(マリリン〜恋の翼〜)

           マリリンとフランスの国民的スター歌手&俳優イヴ・モンタンが恋に落ちた。 1960年の「恋をしましょう」撮影中である。  マスコミでも大騒ぎになり、シモーヌ・シニョレ夫人が慌ててハリウッドに駆けつけた。ちょっとした浮気なら、片目をつぶるフランス人が騒いだのにはわけがある。  シモーヌ・シニョレは知性的演技派女優として国民的人気があり、このカップルはフランスを代表する文化国際親善大使なのだ。    1957年に発表された映画「シャンソン・ド・パリ」を見るとその立ち位置が良く分

          目白村だより38bis(マリリン〜恋の翼〜)

          目白村だより37(アーロン劇場) 

           イェール大学のアーロン・ジェロー教授はいろいろな肩書を持つ方だが、特に日本映画は無声映画から実に沢山見ておられアメリカの権威だそうだ。  フランスの友人マックス・テシエと話させたら、とても面白いトークになるだろう……と思いつつも今回は(アーロン劇場)と勝手にタイトルを決めて、その上 教授が好きな日本映画10本を選んで貰う地獄のリクエストをしてしまった。 〜の中から〜本という選択は、映画を知れば知るほど非常に難しい。  しかし我らがアーロン教授は、サラッと選んでくださった。流

          目白村だより37(アーロン劇場) 

          目白村だより36(天使マリリン①)

          マリリン・モンローを小説にした。小説とはいっても、この話の狂言廻しは、実在するMさんという、九星気学&四柱推命の占星師である。Mさんと私が、知り合ったのは、1980年代の終わり頃で、友人の紹介であった。  私は、1990年代には、頻繁にパリに行く様になり、多忙を極めたが、いろいろ彼女のアドバイスで助けられた。 物事には、思考しても、どちらにしていいかわからない事がある。そんな時に彼女は、とても冷静に答えてくれるのだ。いわゆる、霊感占いではない。彼女は、あれこれ本を調べて、研究

          目白村だより36(天使マリリン①)

          目白村だより35bis(サティ通り2番地〜島田りり③)

          りりさんに誘われて、とんでもないイヴェントに出た事がある。最近整理中に、そのチラシが出てきて、また可笑しさがこみ上げてきた。 御主人の浜田剛爾さんは、現代アート界を牽引する人である。とにかく皆地味なので私には、なるべく派手な格好で、一曲歌ってくれと、彼から云われた。 私が、映画(CABARET)の主題歌を歌いながら、2階のバルコニーから、降りてくる演出であったが、地味どころか、出演者全員がヘンで、まるで、「ロッキー・ホラー・ショー」な、ゴールド派手衣装の私が、一番地味。最初、

          目白村だより35bis(サティ通り2番地〜島田りり③)

          目白村だより35bis(サティ通り2番地〜島田りり②)

          りりさんとは、パリでも何度か会った。サンジェルマンのドゥ・マゴが多かった。 彼女の定宿が、近くだったからだ。本当はモンマルトルが、大好きなりりさんは、私のモンマルトルのアパートを、しきりに羨ましがった。  彼女は、サティの一番弟子のレッスンを長く受けた(サティ弾き)であったが、たまに歌伴(例えば、薩めぐみ)もした。 実現しなかったけれど、りりさんとサティの歌詞のある曲だけを、日本語で歌おうという企画もあった。 サティの歌曲は、キテレツであり、ちょっと落語のような歌詞もある。日

          目白村だより35bis(サティ通り2番地〜島田りり②)

          目白村だより35(サティ通り2番地〜島田りりさん①) 

          神田神保町すずらん通りのパサージュに、行ったのは、軽い好奇心である。どららかというと帰りに近江屋のアイスを買う目的の方が、主であった。鹿島茂プロデュースのこの本屋の存在は、3年くらい前に、なにかで読んでいたが、どうも集団で集まるのが苦手なのと、共同墓地のような感じかして行かなかったのだ。 しかし、百聞は一見にしかずであった。しかも、現在新しい3号店ソリダが、出来て棚主店主を、募集しているという。パサージュから、歩いて200メートルの近さ、靖国通り沿いにソリダはあった。まだ、売

          目白村だより35(サティ通り2番地〜島田りりさん①)