目白村だより17(ニューヨーク/アンジェロ・バダラメンティ③)
アンジェロと出会って、いままで観光地だったニューヨークが、音楽の一面を見せてくれた。
彼に会う前にも、何度か訪れていニューヨークは、私にとって、美術館と博物館の街。そして、何よりミュージカルを見るための観光と勉強の場所だった。
イタリアを少しとフランスしか、異国を知らない私にとって、ニューヨークは、新鮮ではあるが少し野暮な街でもあった。(食の方はどう考えてもヨーロッパに軍配が上がり、服に関しては、既にモダンなニューヨークファッションはあったが、それはごく限られていて、大衆の服に対する意識は、パリやミラノの方が断然高いと、今でも思っている)
ブロードウェイのミュージカルをはじめて見たのは、いつだったか、すぐに想い出せないが、「コーラスライン」は、特別である。
初演が1975年だから多分、1978年か・・・。何故この舞台が強烈に印象に残っているかというと、その後、劇団四季の日本の初演(1979年)を見たショックが、重なっている。
日本の舞台は、ブロードウェイと題だけ同じで、全く別のもであった。日本語で演じられているという事の問題ではない。
その印象は、その後アメリカヒットのミュージカルを日本人が上演するたびに感じる、偽物感につながっている。(出演者とスタッフが全員来日するという場合でも、大体が、2番手3番手で、それはまた別のがっかり感がある)
偽物感・・・それはいつも自分が、例えばシャンソンやJAZZを歌う時も、あるいは同じなのでは、そうなっているのでは、という頸木の様なものになり、そのコンプレックスから解放されたのも、実はアンジェロが、私の歌を、好きだと言ってくれた事が大きい。
アンジェロは、ニューヨークで、まずLIVEをやろうと言ってくれたのだが、私が既に、パリで活動し始めた事と、スタッフに成りたいと、わざわざニューヨークまで来た日本人、大手のプロダクションを止めた友人Tが、急死してしまったこともあり、ニューヨークで歌う機会はなかった。
アルバムは、完成後、なかなかメーカー決まらず、結局、ベルギーのクロスオーバーが引き受け、日本ではクレプスキュール系を扱う友人が輸入してくれるというかたちになった。
日本のCDの帯には、久石譲が序文を、快く書いてくれ、ライナーには、ブリジット・フォンテーヌが詩を書き、ボリス・バーグマンも文章をくれた。
アルバムに入れた曲は10曲。それぞれが想い出深い。前回書いた「ひまわり」、私のオリジナル「夕なぎ」、ブリジット・フォンテーヌ「色んな事が起こる」、「The End of The World」(「BlueVelvet」と、どちらか迷ったが、アンジェロが拘った)以外の6曲がアンジェロの曲である。
作詞はボリス・バーグマン、ジョン・クリフォード、リンダ・ヘンリック、表題曲「ルビー・ドラドンフライ」は、ラルフ・マッカーシーである。
コピーライトの関係で、CDにクレジットされていないが、アンジェロが、旧知のミュージシャンと作ったベースのサウンドに、音を重ねたのは、ニューヨークフィルハーモーニーの面々である。息子が、同フィルでクラリネットを吹いていている関係もあり、アンジェロは、メンバーと親しかった。(オーケストラの給料が、安いのは東西を問わない?)
日本にも、素敵なスタジオミュージシャンがいて、テクニックも素晴らしい。
しかし多くのスタジオで、出会った彼等は、ただ黙々と譜面を演奏して帰る・・・。メインである歌手に、むこうから直接話しかける、現場を私は知らなかった。
アメリカのミュージシャンたちは、紹介されるとすぐに、この歌をどういう気持ちで歌いたいの?どのように解釈するの?と、まず訊ねて来た。
一期一会を大切に、一緒に作っていこうという気持ち。この場合、それは歌手を大事にする事であった。当たり前の様に発せられた、そういった質問に、最初戸惑ったが、私の答えは、彼等の音にすぐ反映した。レコーディングの醍醐味である。
そういう時アンジェロはいつも、後ろでニコニコしていた。
*3月30日 青山ZIMZINEで、アンジェロとの想い出を、歌います。