
私という身体の境界は広がっていく、特に母親になってからは
自分の内と外を隔てるものは皮膚である。
自分か、自分以外か、それは明確だ。
でもたとえば鉛筆を使って文字を書く。
シンプルな線から画数の多い漢字まで、筆圧を微妙に調整し絶妙な角度変化をさせながら書いていく。
ほとんどの大人は自分の指を動かすように自然に鉛筆を扱う。
それはまるで自分の身体の延長のよう。
道具は、時に身体の延長として働く。
道具を介する感覚は、その道具が馴染めば馴染むほど自分の身体に近くなる。
料理人にとってはそれは包丁かもしれないし、スポーツ選手にとってはボールやラケットがそうなのかもしれない。
物理的には皮膚で隔てられているものの、そんなふうに身体の境界は、感覚的には広がったり元に戻ったりを繰り返しているのだと思う。
今、一日中母親として過ごしていて、自分の身体の境が曖昧であるような感じがする。
子どもを抱けば快不快が自分の事のように伝わってくる。
泣き声が響けば、母親である自分の身体が不快だと言わんばかりに焦燥感が溢れて来る。
私の身体の感覚の神経が、子どもの身体まで伸びているよう。
十月十日、2人で1つだったのが、まだ続いているかのよう。
でも逆に、純粋な自分の身体の中の感覚は疎くなっているように感じる。
そういえばお腹すいてたなと思う事がよくあったり、そういえば最近いつもより疲れてるなとか、”そういえば”が頻発する。
“ママ自身のことを大切に”という趣旨の言葉が巷に溢れているけど、そういう事かと納得する。
自分の境界が曖昧になって、自分自身の感覚が鈍くなるからだ。
皮膚が境界としての意味をなしていないみたいに。
そんな生物として生き残って来た生存戦略に敬服。
そんなことを考え始めてから、私は自分の境界と感覚を大切にする事にした。
簡単な事だけれども、少し時間が取れた時はクリームやオイルを手や足に塗りながら自分の境界を再確認する。
自分は今あったかいのか、冷たいのか塗りながら確認して、感覚と擦り合わせる。
あと、いい香りをとにかく嗅ぐ。
香りの感覚は脳に直結するから、自分自身の感覚としてしっかり残る気持ちがする。
そんな事をやったり、考えたりするくらいの少しの余裕が出て来たんだと思う。
久々のnote更新。
だんだんと私が戻ってくる。
きっと焦らずとも。