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エビデンスにならない感覚を

近年理学療法士の世界でもEBMという言葉をよく聞くようになった。

根拠に基づく医療(こんきょにもとづくいりょう、英語: evidence-based medicine, EBM)とは、「良心的に、明確に、分別を持って、最新最良の医学知見を用いる(conscientious, explicit, and judicious use of current best evidence)」医療のあり方をさす 。エビデンスに基づく医療とも呼ぶ。  <根拠に基づく医療 - Wikipediaより>

研究の結果やデータに基づいた介入を行って根拠のあるものを患者に提供していこうというものだと、解釈している。

極端に言えば「気の流れが~」とか「オーラが~」とか、研究結果にでていないものを適用するべきではないということだ。(個人的には気の流れもオーラもあるとは思っている。)逆に、たとえば変形性膝関節症には太ももの筋肉を強化すると良いとかはたくさんのエビデンスがあって、そういうものを用いていこうということだ。

徒手的な手技の中にはエビデンスレベルが低いものもあって、EBMの流れの中ではそのような手技は理学療法として提供するべきではないということなのだろう。近年では徒手療法の協会などが中心となってエビデンスを出していこうという流れがあるようだ。(手技的なものはある程度の熟練度を必要とするものも多いから、エビデンスが出にくいのかなとは思っている。)

そんなEBMというおおまかな流れには大いに賛成です。ということを前提に話したいと思う。根拠のない治療されてもいやだもんね!

私は”感覚”の大切さを忘れたくはない。

客観的に評価できる「エビデンス」と主観的な「感覚」は相反している。それゆえ感覚に任せた評価とか感覚に任せた治療は嫌遠される節がある。けれどもエビデンスだけでは身体に良い影響は与えられない。そうずっと考えていたし、今もそう思っている。

たとえば、うつぶせになっている人の胸郭の上に両手をあてる。どんな風に呼吸しているか。深いのか浅いのか、リラックスしているのか、上から下へ心地よく空気が流れているか、どこか動きが止まっているところはないか、温かさはどうか。ときにはどんな匂いがするか。

データにならない微細な感覚も、自分の意識の上にも上がってこないくらい些細な感覚も、たくさんの感覚を情報として得ながら身体をさわっている。

そういうところに人が人の身体をさわるときの大事なものが詰まっていると思う。

自分の大切な人や、自分の子どもを抱きしめたときに色々なことが分かるように。

職場を変えて環境がかわってから、感覚に頼りすぎていたなあと反省することが多くなった。

感覚は大事だけれども、感覚の話をしても信用されないし同業者同士のコミュニケーションが十分にとれないからだ。データや数値をしっかり使って話さなければと、ほぼ毎日反省している気がする。

徒手的な勉強は好きで積極的にしていたけれど、エビデンスについてももっと広く学ばなければとも思っている。正直少し苦手意識はあるのだけれども。

要はバランスなんだとは思う。

でも、エビデンスの勉強をしても、周りがどんな価値観で治療していたとしても、データをみて目の前の患者を診ないということにはならないように。自分の感覚を無下にしないように。そう思っている。



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