YEGに入った当初は、毎日が新鮮で、楽しくて仕方なかった。 当時は組織という組織もそれほど明確なものはなく、いつも同じメンバーで会議も事業もこなすということで、一つの「部活」のような感じだった。 みんなが何の仕事してるか、ほぼわからない状態で、もちろんYEGで収益を上げることもほぼない。知恵と体力をささげ、地域のためになることを一心不乱にやっていく。まさに、地域の元気集団。 後に分かることだが本来は、自社企業の発展、自己研鑽、地域への政策提言などが主たる目的であり、我々も
YEG(Young Entrepreneurs Group)とは若き企業家集団と言われている。 商工会議所の下部組織、青年部のことを示し、その青年部のもつコンセプト (若さ・情熱・広い視野)をもった経営者=Youth, Energy, Generalistを表しているとのこと。 私がYEGに出会ったのが、今から13年ほど前、勤めていた会社を辞め、一緒に辞めた先輩と会社を起こしたときである。 起業なんて全く考えたことがなかったから何から始めたらいいのか全く分からない。そんな時
カマタマーレ讃岐というサッカーチームがあるのは以前から知っていた。 真剣に応援するようになったのは2014年J2リーグに昇格した頃だ。 当時は北野誠監督がチームを率いていた。戦略的なサッカーを展開し、対戦相手も含めスター性の高い選手たちのレベルの高いプレーを目の当たりにし、地元にJリーグチームがある喜びをひしひしと感じていた。 また、北野監督を支える「讃岐鬼誠会」に入会させていただき、応援団として初めて大旗を振った日のことを鮮明に覚えている。 小さな県でスポンサー探し
大学時代にはまったことの一つが「ダーツ」 ちょっと背伸びをしたい20歳の自分が先輩に連れられて立ち寄ったショットバー。 そのお店のマスターから勧められたダーツ。 これが楽しかった。 ダーツボードは円が細いピザのような形に区切られており、1~20点のゾーンが配置されている。そのピザ型の中にも区切りがあり、一番外側の二重円はそのゾーンの得点の2倍(ダブル)、内側の二重円は3倍(トリプル)の得点をもらえる。センターの円はブルと言って、50点だ(セパレートだと内側が50点、外側
自分の性格的に、わりとしっかりと物事に取り組むし、一所懸命やる方だとは思う。仕事や頼まれたことを途中で放り投げることなんかは絶対にしない。 それは自信を持って言える。 しかしだ。ブログとなるとまさに三日坊主。書き始めたときは、よし、これから毎日書くぞ、なんて思うわけだが、その熱量がずっとは続かない。 SNSはFacebookもInstagramもTwitterも、3つ掛け持ちながらも、それなりに続いてる。 でもブログとなると難しい。実際、このnoteもどうだ。書き始めから
初めて一人暮らしした街、松山。 街の真ん中にドンと構える松山城。 コンパクトに機能が集約された便利な街だ。 一番町にはオフィスや官庁。 二番町と三番町には飲み屋街 城の北には大学や高校などの教育機関。 城を取り巻くように環状線と住宅街。] 松山駅からJR。市内には路面電車と郊外電車。 松山観光港も松山空港も近い。 高速のインターも近い。 日本屈指の温泉、道後温泉もある。 島リゾートもすぐ近くにある。 西日本最高峰石鎚山も眺めることができる。 人も多すぎず、でも、い
18歳の春。これまで家を出たことのなかった自分が愛媛で一人暮らし。 期待とワクワクもあったけど、不安の方が大きかったかな。 両親が引っ越し先まで来てくれて、「ほな帰るわな」。当面の小遣いと野菜とか米を置いて帰ってしまった瞬間の物悲しさと部屋から見える夕日は今でも忘れない思い出だ。 ま、寂しいのは最初だけで、ほんと充実した学生生活だった。 専門科目は地質学。入学した翌春に阪神大震災が発生し、その時に動いた断層のメカニズムを研究するのが、その後の大学院を含めた自分の研究テ
中学から始めたバレーボール、楽しくて高校でも続けたが、この高校時代バレーボール部での経験が後の自分の人生にも大きな糧となった。 当時東四国国体があり、全国からスポーツバリバリの先生が香川に集結した。 2年の時、我がバレー部も体育大学卒、大学バレー日本一になったバリバリの先生が顧問として赴任してきた。 香川教員クラブのセッターとして本当バリバリのゴリゴリ。 指導もかなりバリバリだった😅。 これまで生温かった我が部も、その指導のおかげでグングン成長。これまで一回戦勝てば健闘だっ
中学に入り、バレーボールを始めた。 きっかけは、母親のママさんバレーについて行ってたことだったと思う。 特に何か運動が得意というわけではなく、なんとなく団体スポーツがやりたかったのだ。 香川出身の植田辰哉選手や当時の日本代表のエース中垣内祐一選手など輝かしい選手たちに憧れて、下手くそなりに毎日練習頑張った。 そんなに身長なかったから人より高く飛ぼうと筋トレばかりしてた。 中学の時は決して強いチームではなかったけど、みんなで力合わせて勝利を収めた時の感動は格別だった。一勝
一つ前の記事で書いたが、高校二年生の夏休みにカナダバンクーバー島のナナイモという都市で3週間ほどホームステイした。 ホストファミリーの都合で厳密には最初の3日間はシュメイナスと言う街の違うファミリーに同級生と一緒にお世話になった。 シュメイナスのホストマザーは料理教室の先生をしている人で、自慢の料理をたくさん掲載した自署本をくれた。当然だが全部英語なので、その後開かれること無く我が家の本棚に並んでいる。いつか読もうと20年経過した。 4日目に本当のファミリーが迎えに来てく
45歳を過ぎ、今一度自分の人生を振り返る。 昭和50年にこの世に生まれたが、どんな時代だったんだろう。 当然、記憶もないから想像でしかない。高度経済成長と呼ばれた時代が終焉を迎えたが、それなりにみんながそこそこ裕福で、穏やかな時代であったのではないか。 公務員の父親と専業主婦の母親(内職してた)との間に生まれた自分は、それほど苦しい思いもせずすくすくと育った・・・のだろう。 幼い頃の記憶といえば、ガッチャマンの火の鳥というおもちゃが小さいと祖父に文句を言って取り替えに行かせ