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【フィールドノート】#03 伊勢②


先日、というか、すでに先月になる。
伊勢に行ってきた。

前回は、道すがら電車の中で考えていた宗教観の話で終わってしまった。今回は、伊勢に到着してからのお話。

伊勢神宮 外宮へ。水の冷たさ。

まずは、外宮から。ご存知の方も多いことだが、伊勢神宮には内宮と外宮があり、伊勢参りでは外宮から参るのが形式となっているそうだ。バチがあたるとかそういうことでもないと思うけど、宗教的作法というものは(前回も書いたとおり)身体技法であり、身体へのはたらきかけに大きく作用すると考えているので、形式どおり外宮から参ることにした。

外宮は伊勢市駅から近く、徒歩で5分ほどである。

歩いていると、普通にある。という感じですこし拍子抜けする。こういう自然な感じはきらいではない。ここからすこし進むと、橋があり、いよいよ外宮といった趣である。

外宮は左側通行で、内宮は右側通行である。立て札に書いてあるからまちがえないだろう。と思いきや、写真の通り悠然と右側通行していく方もいて、わらってしまう。ちなみに、中央は、カミの通り道であるので通ってはいけない。大人だと通らないだろうなと思う構造になっているが、子供はどうだろう。

橋を渡り終えると、例のアレがある。

清めかたの順序は決まっている。個人的には、気持ちと身体が水を通じてつながるための作法であると思うので、順序を間違えても気にすることはないと思う。それにしても、観察していて気がついたのは、どうやればいいのかわからない方が多いのだなということ。それはぜんぜん構わないのだけれど。おもしろいと思ったのは、作法がわからないなりに行為していくことで、何かちぐはぐな感じを受けることをそれぞれが気付き、受け止めていく行為なんだということだ。そして、その行為の根っこが、水の冷たさにあるように思えた。作法がうまくいっていないちぐはぐな感じを、水の冷たさが流してくれる。

カミ、 存在、 身体、 認知。

時間もあまりない中、すこし早足を意識しながらも、玉砂利の感触は心地よかった。音もいい。平日昼間にもかかわらず多くの人が訪れていたので、静かでは決してなかった。けれど、皆が歩く度になる音たちが、なにかさわさわと、方向性をもっているような錯覚をおこして、ぼくはどこかに誘われる。

外宮はそこまで広くはないので、すぐに本殿に到着し、礼をすることができた。礼をして頭をあげたそのときに、本殿にさげられた薄い布の幕が風にあおられて、ふわっと舞った。まさにカミが通ったかのような神秘的な揺らぎ。これには、さすがにハッとした。

カミはそこにあるものだ(ここでいうカミは必ずしも神道のいうカミだけを意味しない)。カミの在り処は場所によるのか、何によるのか、ぼくはそれをわかっていないのだけれど、エネルギーによるものだと思うことがある。それは、都会の真ん中であっても、自然豊かな場所であっても、海の上でも空の上でも、、、どこであっても在りうるものである。ぼくが言いたいのは、「在るもの」を認知する、ということのありがたさである。人間は、「在るもの」の90%以上を認知できていない。「在るけど、普段は認知しないもの」を認知させるための仕掛け。それが、神宮のデザインということになりはしないか。

猿田彦神社へ。みちひらく。

さて、内宮はのお参りをすませ、次は猿田彦神社へ。今回の旅の目的というか、きっかけというか、みちびかれたのはまちがいなく猿田彦神社である。猿田彦神社は名前の通り、猿田彦大神を祀っており、猿田彦は「みちひらき」の神である。

猿田彦神社は、鳥居から本殿までが近い、というか狭い神社である。隣には芸の神を祀っている佐瑠女神社があり、あわせてお参りできる。いただいた猿田彦の御守りを返納し、あたらしい御守りをいただいた。初代は青と赤の御守り、二代目は黄色の御守りとした。綺麗な黄色、というくらいで特に理由はない。まちがっても金運アップをねらうとかそういうことではないので誤解のないよう。

ところで、「みちひらき」「みちびく」といったとき、どういう意味があるのだろう。お参りをしながら、ふと思う。道開く、道拓く、道墾く、道引く、、これくらいが漢字でパッと思いつく。記紀神話では、以下のように伝えられているようだ。

猿田彦大神は、ものごとの最初に御出現になり万事最も善い方へ“おみちびき”になる大神で、古事記、日本書紀などにも「国初のみぎり天孫をこの国土に御啓行(みちひらき)になられた」と伝えられています。

天孫降臨を啓行(みちひらき)された猿田彦大神は、高千穂に瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を御案内した後、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)と御一緒に本拠地である「伊勢の狭長田(さながた)五十鈴の川上」の地に戻り、この地を始め全国の開拓にあたられました。
(猿田彦神社 https://www.sarutahikojinja.or.jp)

なるほど、よくわからん。ただ、記紀神話においては、「みちひらき」は「啓行」と記すらしい。「啓行」を調べると、先を行くこと、先導すること、などを意味するようだ。lead-erということなのだろうか、とも思ったけれど、なんとなく違う気もするし、全国の地を開拓したという点はleaderっぽさもある。ただなんとなく、現代的なFollow me型ではなくて、もっと幽玄な感じであるとともに、より野に寄り添いながら、一方向的でない道のひらきかたをする、そんな勝手なイメージをもつ。道はleaderに委ねられるのではなく、followerに委ねられている。

あるいは、道をひらくとは、、道はどこにでもあり、そのことを知らしめて、乗るか反るかさあ決めなさい、と語りかけることなのかもしれない。扉が開くように。

目が開き、道がひらく、、、

、、、

と書いていて、①にひきつづき長くなってきたので、③につづく、、、(①でも同じことを書いてたな、、、


写真は記録ではないから、記憶をたよりに書く。フィールドノートも記憶の記録であるんだろう。



all photo by tomohiro sato.

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